さっき、メールをチェックしたら、1通のメールが届いていた。
このブログを読んでくれている女性からだった。
いつからか私の日記を読むようになり、日に数度も更新をチェックするほど好きになったとのこと。
それほど長いメールではなかったのだが、その中に何度も何度も、「あなたの文章が大好きです」と書いてあった。
そして、「もっともっとあなたの書いた文章を読みたいです」と。
自分の人生の集大成にする!とホームページを立ち上げたのはいつだったか。
もう6年以上前だ。
料理・食材・器・本・紅茶・旅・ブルース・仕事・エッセイと盛りだくさんのコンテンツで、自分のこだわりと好きなものを全部文章にして詰め込んだ。
その中に、「日記」も作った。
なぜか見知らぬ人が毎日読んでくれ、時には私の日記を初めて読んだ日からすべてを遡って読んでくれる人もいた。
私の日記をプリントして持ち歩いていますとか、
プリントしたものを時々読み返して、励みにしていますとか、
どうしてもありがとうと言いたくてメールをしましたとか、
本当に何通もそんなメールをもらった。
・・・どれほど嬉しかっただろう。
いつか自分が書いたものが、たった一人の人の心にでもいいから光になりますようにと、明日また歩ける希望になりますようにと、願いをこめて書き続けてきた私にとって、こんなに嬉しいことはなかった。
もちろん、いいことばかりじゃない。
そんなふうに日記に書いたら、「あなたのような人がそんなものを書きたいなんてあつかましいにもほどがある」とか、「あなたは自分の汚物を自分の日記でさらけ出して、ネット上に流しているのと変わりがない」とか、「もっともっと不幸になれ!あなたが泣いていると、笑いが止まらない」とか、そんなメールも何通か来た。
別にそんなことに落ち込みはしなかった。
気の毒な人だなぁと思っただけで。
でも、知り合いに、「もうダンナからあなたの日記は読むなと言われている」とか、「あなたの日記を読んだら当事者として立ち直れなかった」と言われたときは、かなりへこんだ。
人の悪口や中傷を書いたことはないつもりだけれど、私の赤裸々すぎる気持ちの表現や事件の描写が、現実にその場にいた人間にとっては気に障ったり、傷つけたりすることもあったようだ。
もちろん、そんなつもりはなかったので、後でそれを言われて私自身もショックだった。(こういうところが私の欠落した部分なのだろう)
実は、最近もそういうことがあって、私は落ち込んでいたのだった。
自分がした失敗とか、信じられないような過ちとか、
そういうこともへこむけれど、
自分が書いたものが人を傷つけたと知ったときの落ち込み方というのは、
ちょっと尋常じゃない。
何か書こうと思っても、言葉を選んでしまい、怖くなって。
そうすると、ずっと自分の味方だった言葉たちが、他人のように遠くなってしまい、やり場のない焦燥感を抱えて、ひどく孤独で。
だけど、さっき、見知らぬ人のメールに救われた。
何度も読み返して、ひたすら泣いた。
『ご自身のはけ口でも何でもいいです。
もっともっとあなたの書いた文章を読みたいです』
このくだりで、嗚咽するほど涙が出た。
散々泣いた後、また、言葉たちが私の味方になって、そばに近づいてきた。
ああ、楽になった。救われた。
絵でも音楽でも工芸でも何でもいいけど、
何かをクリエイトしたいと思っている人なら、なんとなくわかってくれるんじゃないだろうか。
「それ」が自分の「味方」だと感じる瞬間の喜びを。
あんなに他人行儀だった言葉たちが、今はまた私の中に入ってきて、感情のままに文章を形作っていってくれる。
・・・本当に、何とお礼を言ったらいいのかわからない。
私を救ってくれたメールの差出人の方へ。
きっと読んでくれていると思うから。
『ありがとうございました。
これからも書いていきます。』
このブログを読んでくれている女性からだった。
いつからか私の日記を読むようになり、日に数度も更新をチェックするほど好きになったとのこと。
それほど長いメールではなかったのだが、その中に何度も何度も、「あなたの文章が大好きです」と書いてあった。
そして、「もっともっとあなたの書いた文章を読みたいです」と。
自分の人生の集大成にする!とホームページを立ち上げたのはいつだったか。
もう6年以上前だ。
料理・食材・器・本・紅茶・旅・ブルース・仕事・エッセイと盛りだくさんのコンテンツで、自分のこだわりと好きなものを全部文章にして詰め込んだ。
その中に、「日記」も作った。
なぜか見知らぬ人が毎日読んでくれ、時には私の日記を初めて読んだ日からすべてを遡って読んでくれる人もいた。
私の日記をプリントして持ち歩いていますとか、
プリントしたものを時々読み返して、励みにしていますとか、
どうしてもありがとうと言いたくてメールをしましたとか、
本当に何通もそんなメールをもらった。
・・・どれほど嬉しかっただろう。
いつか自分が書いたものが、たった一人の人の心にでもいいから光になりますようにと、明日また歩ける希望になりますようにと、願いをこめて書き続けてきた私にとって、こんなに嬉しいことはなかった。
もちろん、いいことばかりじゃない。
そんなふうに日記に書いたら、「あなたのような人がそんなものを書きたいなんてあつかましいにもほどがある」とか、「あなたは自分の汚物を自分の日記でさらけ出して、ネット上に流しているのと変わりがない」とか、「もっともっと不幸になれ!あなたが泣いていると、笑いが止まらない」とか、そんなメールも何通か来た。
別にそんなことに落ち込みはしなかった。
気の毒な人だなぁと思っただけで。
でも、知り合いに、「もうダンナからあなたの日記は読むなと言われている」とか、「あなたの日記を読んだら当事者として立ち直れなかった」と言われたときは、かなりへこんだ。
人の悪口や中傷を書いたことはないつもりだけれど、私の赤裸々すぎる気持ちの表現や事件の描写が、現実にその場にいた人間にとっては気に障ったり、傷つけたりすることもあったようだ。
もちろん、そんなつもりはなかったので、後でそれを言われて私自身もショックだった。(こういうところが私の欠落した部分なのだろう)
実は、最近もそういうことがあって、私は落ち込んでいたのだった。
自分がした失敗とか、信じられないような過ちとか、
そういうこともへこむけれど、
自分が書いたものが人を傷つけたと知ったときの落ち込み方というのは、
ちょっと尋常じゃない。
何か書こうと思っても、言葉を選んでしまい、怖くなって。
そうすると、ずっと自分の味方だった言葉たちが、他人のように遠くなってしまい、やり場のない焦燥感を抱えて、ひどく孤独で。
だけど、さっき、見知らぬ人のメールに救われた。
何度も読み返して、ひたすら泣いた。
『ご自身のはけ口でも何でもいいです。
もっともっとあなたの書いた文章を読みたいです』
このくだりで、嗚咽するほど涙が出た。
散々泣いた後、また、言葉たちが私の味方になって、そばに近づいてきた。
ああ、楽になった。救われた。
絵でも音楽でも工芸でも何でもいいけど、
何かをクリエイトしたいと思っている人なら、なんとなくわかってくれるんじゃないだろうか。
「それ」が自分の「味方」だと感じる瞬間の喜びを。
あんなに他人行儀だった言葉たちが、今はまた私の中に入ってきて、感情のままに文章を形作っていってくれる。
・・・本当に、何とお礼を言ったらいいのかわからない。
私を救ってくれたメールの差出人の方へ。
きっと読んでくれていると思うから。
『ありがとうございました。
これからも書いていきます。』
私も時々、自分の書いた文章が
誰かを知らずに傷つけてるんではないか、と
臆病になってしまいます。
だから、茶化して書いたり、
なんちゃって~みたいに書いたり。
ホントはそんなことしたくない。
正々堂々、自分はこう考えてるんだ!って
胸を張って言いたいんですけど。
私自身は書くことで収入を得ている訳ではないので、
責任を感じる度合いが低いかも知れませんね。
仕事はもちろんですが、プライベートでの文章でも、やっぱり「活字の力」というのは良くも悪くも大きいので、慎重にならないといけませんね。
なかなか難しいです・・・
面倒なので、なるべくイデオロギー的なことは書かないようにしていますが・・・