岩倉具視と岩倉実相院について

2009-12-03 20:57:42 | 歴史と散策

 私は明治4年(1871)に1年半かけて欧米に派遣された「岩倉使節団」の成果が明治維新に与えた影響について興味があり、HPで考察を述べてきたが、岩倉具視が死去したのが明治16年(1883)で、北垣京都府知事が琵琶湖疏水計画の政府への陳情を開始した時期に一致している。
 岩倉具視は帰国したあと鉄道敷設事業の推進に注力したので、水運への興味の程度はわからないが、琵琶湖疏水の世界では、計画を推進した公家は三条実美であり、岩倉具視の話題はまったく出てこない。
 私は去る11月中旬に、紅葉の名所と伝えられる「岩倉実相院」を初めて訪れた。地下鉄「国際会館」経由京都バスに乗り、約40分内部を見学させていただいた。実相院には池泉回遊式庭園と枯山水の石庭があり、歴史の重みを感じる雰囲気の寺院であったが、とくに評判の高い「床もみじ」は若干時期が早かったようであった。
         
       池泉回遊式庭園                 枯山水の石庭

 ネットで調べてみると、岩倉具視は下級公家の家に生まれたが、上位の公家である岩倉家の養子となり、孝明天皇の近習となって政治の世界に目覚めて活躍したが、幕末動乱の時期に倒幕急進派の誤解を受け、洛中から追放され5年間も岩倉で幽閉生活を送っている。この時の住居は実相院のすぐ近くにあり、国の史跡として保存されている。
 この期間に具視は一時期実相院に滞在したことがあり、尊皇派の仲間と密談した記録が残っているそうである。その後具視は政界に返り咲き政府の最高実力者となったが、59歳で死去した。策略に長けた人物といわれており、もしもう少し長命だったら、疏水計画にどんな影響があったかと想像するとともに、幽閉された岩倉の地が洛中に近いことに驚いた次第である。


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