私が一番好きな印象派画家・シスレー

2008-09-25 15:43:28 | 美術と文芸

 私が印象派画家に興味を持ち始めたのは、昭和61年(1986)頃からである。東京に長期単身赴任中に、絵画鑑賞を趣味とする友人に誘われて、東京で開催される美術館展や美術展を見学するようになった。また、会社の新製品市場開発や契約交渉のために、数十回にわたり欧米の主要都市の巡回をしたが、週末を利用して各地の美術館を見学して絵画鑑賞の知識も少しずつ蓄積された。
 その中で、シスレーという印象派画家の絵を観ると、気分的に落ち着くことがわかり、シスレーの絵に関する展覧会に焦点を当てて見学するようになった。シスレーは、幕末の高杉晋作(長州藩)と同じ1839年生まれで、明治33年(1899)に59歳で没している。
 シスレーは印象派発足当初からのメンバーで、パリで8回開催された印象派展(1974~1886)の最初から出展したが、友人のモネやルノワールらの絵が評価されていくのに、シスレーの絵は評価されず、父親の破産で極貧生活を強いられ、初めて評価された(高値で売れた)のが死後1年目という不運な画家であった。
 多くの画家が売れないとき画風を変えることがあるが、シスレーは生涯画風を変えることなく印象派に徹した画家で、絵画の対象は野外の風景画だけであった。そのため、画家仲間からは「印象派の中の印象派画家」として評価されたが、寡黙で地味な性格と限られた友人の世界で静かに過ごしたので、画商たちの評価を貰うには時間のかかった画家であった。
 シスレーは生涯960点の油彩画と約100点のパステル画を残しているが、私は代表作の一つと呼ばれる絵のコピー(画集で見ると実物と色彩が異なっているが)を部屋に飾っている。1876年に起こったポールマルリーの洪水(日時を変えて6枚連作)の後半に描いた絵で明るい風景になっている。
                    
 東京の伊勢丹美術館で過去に2回のシスレー展が開催されている。個人蔵のものや美術館所有のものが展示されたが、1回目は昭和60年(1985)で、これが一つの事件のキッカケとなった。そのとき展示されたシスレーの風景画「春の太陽・ロワン川」が、第二次大戦中にナチスドイツに略奪されたものとして元の所有者の子孫から平成11年(1999)に訴えられた。この絵は推定時価約4億円といわれ、日本人が所有者として話題になった。
 伊勢丹美術館で2回目のシスレー展が開催されたのが平成12年(2000)で、シスレー没後100年を記念して開催されたが、ナチス略奪の話題も合ってか10万人が展覧会に訪れ、モネやルノワールに劣らぬ人気であった。
 事件のその後であるが、平成16年(2004)に決着を迎え、日本人所有者は無償で子孫の人に返還して話題となった。ところが、新所有者は1年も経たないでその絵をニューヨークのオークションに出品し、約219万$(約2億3千万円)で売却した。日本でもバブル崩壊前は、世界の名画の多くが日本人の手に集まったというが、今回の事件はシスレーの評価が高くなった話題と考えられる。

 もう一つの話題を紹介すると、平成4年(1992)12月にパリのオルセー美術館で「シスレー展」があるという情報を得て、12月3日に訪ねたところ、美術館従業員のストライキ中で、内部は無料公開されていた。しかし資料や絵葉書の販売はなく、写真撮影も禁止でフランス語の読めない私にとって満足できない見学であった。その中でシスレーには珍しい大型の風景画が記憶に残っていた。
 ところが、平成11年(1999)9月に京都市美術館で、パリ・プチ・パレ美術館展を見学したとき、この大型絵に再会できた。この絵はシスレーが1865年に描いた「ラ・セル・サンクルーの栗の並木道」で、フオンテーヌブローの森で描いた風景画である。絵のサイズは、125×205cmと解説されていた。
 
   最近、シスレーの絵は空の面積が大きいので「空の画家」と呼ばれているが、私も同感で、空と川の青い色彩の間に緑の空間があるシスレーの絵が一番好きである。最近「シスレー」と題した本が作品社から発刊された。「印象派のなかの印象派・水と空の画家」の紹介言葉が付いており、著者はレイモン・コニアで訳と解説は作田清である。早く読んでみたいと思っている。


芸術都市パリの100年展見学記

2008-09-21 06:46:39 | 美術と文芸

 今年は日仏修好通商条約の締結150年、京都とパリの姉妹都市盟約50年にあたり、京都市美術館では、「ルノワール・セザンヌ・ユトリロの生きた街1830~1930年」という副題のついた掲題の展覧会が開催された。
           
 展覧会場に入ると、大きいエッフエル塔の下部縮尺模型があり、その下にパリの名所旧跡を示した地図があって四方から覗けるようになっており、見学者をパリの雰囲気に引き込む役目を果していた。
 本展では、5つのテーマに分けて146点の作品を展示してあったが、1830年~1930年といえば日本の享保15年~昭和5年に当たる。エッフエル塔が完成した1889年(明治22年)は、琵琶湖疏水完成間際であり、印象派絵画で有名なオルセー美術館の建物は、パリ万博のために造られた元オルセー駅で、琵琶湖疏水が完成した明治23年(1990)に竣工している。
 同時に著名な印象派画家の生年は、セザンヌ(1839)・シスレー(1839)・モ(1840)・ルノアール(1841)・ゴッホ(1953)などと幕末生まれであることを改めて確認した。同時に日本より近代化の先進国であったフランスの歴史を、絵画・彫刻・写真などを通して楽しむことができた。
 今回の展覧会で一番興味のあったのは、エッフエル塔の一連の工事写真で、とくに基礎コンクリート工事の規模の大きさと琵琶湖疏水の煉瓦巻きのトンネル工事が同じ時期であったことに驚いた。

 蹴上の国際交流会館の2階に、京都市か姉妹都市盟約を締結している各国の解説コーナーがあり、岡崎文化ゾーン内に2ヶ所の日仏交換記念品が野外に展示されている。今年は盟約50年にあたり、パリの代表が京都市に来訪しており、日仏修好150年記念行事として、シンポジウム「月かげの交響」が「何有荘」で開催された。明治時代に京都からフランスに初の公式留学生として派遣された実業家・稲畑勝太郎が、疏水の水を活用した自宅「和楽庵」を蹴上に建設したが、その後所有者が変遷して「何有荘」となっている。稲畑勝太郎は京都日仏会館の創設者であり、「何有荘」敷地の裏山には関西日仏交流会館が存在する。京都における日仏交流の思いを馳せるシンポジウムには残念ながら参加できなかった。


平成20年10月度ホームページの投稿項目

2008-09-18 18:52:52 | 琵琶湖疏水

 ホームページ(http://www.geocities.jp/biwako_sosui/)の10月分として下記5件を投稿しましたので、お立ち寄りください。

309話 分類 散歩道・疏水分線23項(B-06-23)
      題名 白沙村荘と琵琶湖疏水関連話題
      要旨 庭園を散策し、琵琶湖疏水関連話題を拾う
310話 分類 技術・技術全般30項(C-03-30)
      題名 橋の歴史を語る旧橋柱を残そう
      要旨 旧橋柱が保存されている4例を疏水べりに見出す
311話 分類 技術・建設工事17項(C-01-17)
      題名 伏見新放水路の建設経緯と現状
      要旨 大正末期の面影を残した伏見新放水路の散歩道
312話 分類 利用・池泉用水24項(E-01-24)
      題名 京都府立植物園にある石造物(1)
      要旨 植物園構内で利用されている古い石造物の話題
313話 分類 散歩道・疏水分線24項(B-06-24)
      題名 紫明通~堀川の公園化工事(8)
      要旨 8月末時点での工事の経過状況を写真で紹介


第五回時代祭展開催中

2008-09-16 07:33:46 | 歴史と散策

 前回の「安土桃山時代―Ⅰ(豊公参朝列)」につづいて、今回は9月6日から10月5日まで「安土桃山時代―Ⅱ(織田公上洛列)」が「みやこめっせ」で開催されている。
 配布された資料を参考にして解説すると、応仁の乱の後京都は非常にさびれ、皇室も衰微していた時期の永禄11年(1568)9月、近江を平定した織田信長が朝廷のお召しに応じ、兵を率いて上洛したときの行列である。勅命を受けた立入宗継が粟田口まで出迎えたときの状況を示し、行列の先頭は宗継の馬上姿である。立入宗継は近江立入城主宗長の子で、天皇家・公家と信長の仲介役を果した人物で、禁裏では御蔵職という重職についていた。
 今回の展示は、行列に参加した織田信長以下羽柴秀吉・丹羽長秀・瀧川一益・柴田勝家らの武将・前衛武士・後衛武士・馬廻り武士の人形と装束および5人の武将の馬印(何れもその一部)の展示である。
        

 この時期には、戦に鉄砲が導入されており、甲冑の多くは鉄板を多く用いた胴丸である。大名は自己の存在を誇張するために、派手な兜を付け、行列には個性豊かな馬印(うまじるし)などが採用された。
 本列は平安講社第五社(東山区・山科区・中京と下京区の各一部)が担当奉仕している。
   次回は「明治~平安時代・婦人列(全)」で、11月8日~12月21日に開催される予定である。


堀川の水路工事の約半分が完成

2008-09-12 19:32:23 | 琵琶湖疏水
 平成12年(2000)に計画された「堀川水辺環境整備事業」は平成16年(2004)に着工され、平成22年(2010)完工を目指して工事中であるが、紫明通の中央分離帯の水路工事は昨年末完成し、現在堀川の水路工事が椹木(さわらぎ)町橋まで完了している。
 地下鉄二条城前で下車し、掘川に沿って北上すると、押小路橋・二条橋・夷川橋・竹屋町橋・丸田町橋・椹木町橋・堀川第二橋・出水橋・下長者町橋・上長者町橋・堀川第二橋・一条戻橋・元誓願寺橋を経由して堀川今出川から地下水路となり、ちょうど椹木町橋の北側まで水路工事が完成した段階である。
                   
 整備された水路の一例として写真を添付したが、堀川通からゆるやかな坂道(煉瓦色)が右側を降りており、疏水の水は底部の中央を流れ、その両側に散策道がついている。1年半前にはコンクリート底で中央部に幅の狭い溝がついた枯れ川であった。
 現在、椹木町橋の南側の水路工事も開始されており、今後二条城の堀までつながる予定である。詳しい報告は、ホームページの10月度に投稿する予定である。

JR稲荷駅のランプ小屋の歴史に修正を

2008-09-06 13:58:42 | 歴史と散策

 数日前の報道で、伏見「寺田屋」が幕末期の建物か否かの再調査を実施すると市当局が発表した。地元では、当時の寺田屋の建物は焼失したとの説があるからである。
 JR稲荷駅構内にあるランプ小屋は、旧東海道線の建物として残ったただ一つのランプ小屋で、同時に国鉄最古の建物として、旧国鉄は「準鉄道記念物」に指定している。この建物は鉄道マニアのシンボル的存在で、日本赤煉瓦建築番付(赤煉瓦ネットワーク版)では西の大関にランクされている。
         
       現存するJR稲荷駅のランプ小屋      同説明板の拡大写真(08-09-05写す)

 この稲荷駅は明治12年(1879)に建造されており、ランプ小屋も駅の開業と同時に完成したことが、準鉄道記念物に指定の根拠となっていた。ところが、寺田屋と同じようにこの根拠に異説がでてきたが、鉄道構造物の権威・小野田滋(工博)が公文書などの細部考察を行い、その結果を下記冊子に報告した。
   土木史研究 講演集Vol‐26 2006年  稲荷駅ランプ小屋の建設年代について
小野田氏は、明治期における全国のランプ小屋の調査を実施し、東海道線には79ヶ所にランプ小屋があったと発表し、そのうち27ヶ所が転用も含めて現存することを確認した。

小野田氏の論文の結論部分を引用すると 
……現存する稲荷駅のランプ小屋は、駅の開業時からしばらくあとの明治13年(1880)に建設された木造平屋建のランプ小屋を撤去し、駅の改良工事に併せて明治33年(1900)に建設したもので、その後、昭和10年(1935)の駅本屋の改築に伴って京都方の半分(物置部分)を撤去して現在に至っている。……
   この結論は裏付け資料が整っており、説明板記載の表現は間違っている。JR東海は、この事実を知っていると思うが、論文発表から時間も経過したので、説明板の部分修正の要否を含めて検討していただきたいと思う。
 小野田氏の調査によると、日本最古のランプ小屋は「敦賀港駅のランプ小屋」と推定しておられるが、ネット検索によると、このランプ小屋は一般公開されており、大きい説明板も写真で存在している。
 小野田氏によると、稲荷駅のランプ小屋は建設年が公文書により特定できること、建設時の図面・仕様書も残っていることなど貴重な構造物であるので、今後の適切な形で保存されることを願いたい…と述べている。


 


車石・車道2008年シンポジウムに出席

2008-09-02 20:22:38 | 琵琶湖疏水

   8月31日、山科アスニーで第5回シンポジウムが開催された。この会合は、平成17年(2005)に学校教職員たちが主導して開催されたのが始まりで、「東海道三条街道車石敷設二百年」と位置づけてスタートした。車石をテーマにした会合は本邦最初と評判を呼び約120人のマニアが集まった。
 大津から京都への水の道である「琵琶湖疏水」の大津・山科・御料・蹴上の周辺には、昔の車石街道と近接するために多くの車石が存在するので、私はこの3年間、フイールドワークを含めてすべての計画に参加させていただいた。
 このシンポジウムの特徴は、学者レベルの集会でなく郷土史家レベルの集まりであるため、スタート時の討論は幼稚な面も感じたが、推進担当の先生方の熱心な研究活動もあって、年々質的に向上し、出席者の知識レベルも向上して学会らしい雰囲気も出てきた。
 私がもっとも興味があった報告は「「明治初年・日ノ岡峠切り下げ工事」と題した久保先生の講演で、車石街道の末期と琵琶湖疏水計画段階と重なる話題も含まれており、パワーポイントを用いたスライドの助けもあってくわしく理解することができた。
         
        山科アスニーでの車石・車道シンポジウム風景      発砲スチロールを活用した車石の全形拓本

   今回は、日本拓本家協会の大橋さんの講演があり、試作された軽い車石の立体拓本の見本が展示された。前回までは、車石の重い実物を会場まで運ぶのに苦労したが、今回小指で動かせる実物そっくりの車石を見学した。このような他の分野の専門家との交流ができたことは嬉しいことである。
   来る10月13日(日)「大谷・逢坂峠地区」の車石を訪ねるフイールドワークが開催される予定であるが、興味のある方は、午後1時出発の前に京津大谷駅下車・蝉丸神社境内の車石公園に集合となっている。