私が印象派画家に興味を持ち始めたのは、昭和61年(1986)頃からである。東京に長期単身赴任中に、絵画鑑賞を趣味とする友人に誘われて、東京で開催される美術館展や美術展を見学するようになった。また、会社の新製品市場開発や契約交渉のために、数十回にわたり欧米の主要都市の巡回をしたが、週末を利用して各地の美術館を見学して絵画鑑賞の知識も少しずつ蓄積された。
その中で、シスレーという印象派画家の絵を観ると、気分的に落ち着くことがわかり、シスレーの絵に関する展覧会に焦点を当てて見学するようになった。シスレーは、幕末の高杉晋作(長州藩)と同じ1839年生まれで、明治33年(1899)に59歳で没している。
シスレーは印象派発足当初からのメンバーで、パリで8回開催された印象派展(1974~1886)の最初から出展したが、友人のモネやルノワールらの絵が評価されていくのに、シスレーの絵は評価されず、父親の破産で極貧生活を強いられ、初めて評価された(高値で売れた)のが死後1年目という不運な画家であった。
多くの画家が売れないとき画風を変えることがあるが、シスレーは生涯画風を変えることなく印象派に徹した画家で、絵画の対象は野外の風景画だけであった。そのため、画家仲間からは「印象派の中の印象派画家」として評価されたが、寡黙で地味な性格と限られた友人の世界で静かに過ごしたので、画商たちの評価を貰うには時間のかかった画家であった。
シスレーは生涯960点の油彩画と約100点のパステル画を残しているが、私は代表作の一つと呼ばれる絵のコピー(画集で見ると実物と色彩が異なっているが)を部屋に飾っている。1876年に起こったポールマルリーの洪水(日時を変えて6枚連作)の後半に描いた絵で明るい風景になっている。
東京の伊勢丹美術館で過去に2回のシスレー展が開催されている。個人蔵のものや美術館所有のものが展示されたが、1回目は昭和60年(1985)で、これが一つの事件のキッカケとなった。そのとき展示されたシスレーの風景画「春の太陽・ロワン川」が、第二次大戦中にナチスドイツに略奪されたものとして元の所有者の子孫から平成11年(1999)に訴えられた。この絵は推定時価約4億円といわれ、日本人が所有者として話題になった。
伊勢丹美術館で2回目のシスレー展が開催されたのが平成12年(2000)で、シスレー没後100年を記念して開催されたが、ナチス略奪の話題も合ってか10万人が展覧会に訪れ、モネやルノワールに劣らぬ人気であった。
事件のその後であるが、平成16年(2004)に決着を迎え、日本人所有者は無償で子孫の人に返還して話題となった。ところが、新所有者は1年も経たないでその絵をニューヨークのオークションに出品し、約219万$(約2億3千万円)で売却した。日本でもバブル崩壊前は、世界の名画の多くが日本人の手に集まったというが、今回の事件はシスレーの評価が高くなった話題と考えられる。
もう一つの話題を紹介すると、平成4年(1992)12月にパリのオルセー美術館で「シスレー展」があるという情報を得て、12月3日に訪ねたところ、美術館従業員のストライキ中で、内部は無料公開されていた。しかし資料や絵葉書の販売はなく、写真撮影も禁止でフランス語の読めない私にとって満足できない見学であった。その中でシスレーには珍しい大型の風景画が記憶に残っていた。
ところが、平成11年(1999)9月に京都市美術館で、パリ・プチ・パレ美術館展を見学したとき、この大型絵に再会できた。この絵はシスレーが1865年に描いた「ラ・セル・サンクルーの栗の並木道」で、フオンテーヌブローの森で描いた風景画である。絵のサイズは、125×205cmと解説されていた。
最近、シスレーの絵は空の面積が大きいので「空の画家」と呼ばれているが、私も同感で、空と川の青い色彩の間に緑の空間があるシスレーの絵が一番好きである。最近「シスレー」と題した本が作品社から発刊された。「印象派のなかの印象派・水と空の画家」の紹介言葉が付いており、著者はレイモン・コニアで訳と解説は作田清である。早く読んでみたいと思っている。