「岡崎十石舟めぐり」のチャリティ運行日を発表

2011-04-23 19:06:27 | 琵琶湖疏水

 今年の「岡崎桜回廊十石舟めぐり」も3月26日(土)から5月08日(日)まで周航されており、現在運行期間を半ば経過した。桜の盛りは過ぎて葉桜が目立ってきたが、新緑の若葉が映える絶好の時期を迎えている。
 当実行委員会では、東日本大震災により被災された皆さんに心からお見舞い申し上げるとともに、チャリティ-運行日(4月20日、4月27日、5月4日の3日間)の乗船料全額を被災地への義援金として寄付すると発表している。

                      
                  2011-04-20-4028   チャリティ-運行日の発表

 東日本大震災は発生してから約40日を経過したが、原子力発電の事故対策は難航しきびしい状況がつづいている。ゴールデンウイークを迎え、京都地区での観光客の動きの低調が心配されているが、今年の桜の季節には、インクライン周辺の人出が例年より多く感じた。8年目を迎えた「岡崎桜回廊十石舟めぐり」の運行は春だけでなく運行期間の延長が検討されている。幅広い支援をお願いしたい。
 


八幡市の背割桜を見学

2011-04-21 11:56:33 | 歴史と散策

 平成21(2009)年2月、NPO法人・瀬田川リバプレ隊主催の現地見学ツアー「淀川の今と昔」に参加し、「三川合流」地点を初めて見学したが、評判の背割桜は花を付けていなかった。しかし今回は4月11日の訪問で、満開の背割桜を充分に楽しむことができた。
  京阪電車・八幡市駅を下車して人の流れについて10分くらい歩くと「御幸橋」に達し、木津川右岸に桜の並木が姿をみせる。これが有名な「背割桜」の並木
である。

 
2011-04-11-3949 木津川右岸に見える背割桜の帯     2011-04-11-3953 背割堤(緑色)の地形図

  背割堤周辺は「淀川河川公園」として整備されており、250本のソメイヨシノと50本のハナミズキが約1.4kmの花のトンネルを形成している。
  
2011-04-11-3962 幅広い桜のトンネル       2011-04-11-3958 幅広い木津川の河川敷
 
 背割堤の名の由来は、木津川の堤防の背を割る形で宇治川の流路が付け加えられてできたので、背割堤と呼ばれるもので、この少し先で宇治川と木津川が合流して淀川となり、のあと桂川と合流して大阪湾に向かう。背割堤は、宇治川と木津川の両方をゆるやかに合流させる役目を果たしている。
 ネット情報によると、昭和50年代始めまでは松並木で会ったが、害虫被害で松が枯れ、昭和53(1978)年3月に当時の建設省がソメイヨシノに植え替えて今日に至ったとの記載があるが、現場で見た桜の樹齢は30年余とは思えない貫禄があった。おそらく、少し成長した木を植樹したのかもしれない。
 背割堤に、国土交通省天ヶ瀬ダム管理支所が立てた大看板があり、ここから16.3km上流にある天ヶ瀬ダムの放流による増水時にサイレンを鳴らすから、河川敷に降りないように注意している。今回、想定外の事象発生で大災害となった「東日本大震災」を経験し、淀川流域に位置する低水位地区の今後の災害防止対応の難しさを痛感した旅でもあった。

 


山科アスニーで「蓮如と山科本願寺」と題した講演会に出席

2011-04-10 09:48:46 | その他

 4月6日の第553回学びのフオーラム山科で、大谷大学学長・草野顕之教授の講演「蓮
如と山科本願寺」を聴取した。草野教授は日本仏教史(中世)・真宗史の専門家で、約4年前の平成19(2007)年6月13日に山科アスニーの講師として「蓮如と山科本願寺・寺内町」と題した講演を実施し、聴取させていただいたので、私にとって2回目の講演であった。
         
          2011-04-06-3867 満席となった山科アスニー講演会

 私が藤尾地区から山科竹鼻地区のマンションに引越しし、ベランダから山科本願寺の南殿跡を見渡せる位置で生活を始めて間もない平成13(2001)年に、埋蔵文化財センターが南殿跡を発掘し、蓮如の隠居所である南殿をニ重に囲んでいた土塁と堀が出土した。この事実から、城塞に関心を持つ私は山科本願寺の存在に強い興味を持ち、関連記事の収集や関連講演会に出席するようになったのである。
 私が大学を卒業した昭和27(1952 )年生まれの草野教授が、昨年1月に大谷大学学長に昇格されたとき、その若さに驚きを感じたが、この道一筋に研究をされた草野教授の講演は貫禄ある学者の姿であった。
 「山科本願寺・寺内町を考える市民の会」が推進する史跡指定を目指した長期活動が平成14(2002)年に実現し、平成19(2007 )年に刊行されたリーフレット「山科本願寺・寺内町遺跡」を読み、現在も史跡の拡大に向けて活動する姿を見て、「継続は力なり」という言葉の手本としたいと考えている。同時に、最近の宅地開発により残存していた土塁の大部分が消えた事実を知り、遺跡保存の重要性と難しさを痛感した。
 京都新聞朝刊では「親鸞(激動編)」が連載されているが、作者の五木寛之は「蓮如」の著作でも有名で、これを機に読み直してみたいと思っている。


平成23年度「岡崎桜回廊十石舟めぐり」がスタート

2011-04-05 12:25:01 | 琵琶湖疏水

 平成15(2003)年の世界水フオーラムを機に、京都市・京都商工会議所・京都府旅行業協同組合・近代京都の礎を観る会を事業母体として、「岡崎桜回廊十石舟めぐり」がスタートしてから8年目を迎えるが、今年も3月26日から5月8日までの期間運行が始まっている。
          
   2011-03-31-3853  チラシの表            2011-03-31-3854チラシの裏

 チラシの裏面は、文字が小さくて読めないと思うが、標準コース(南禅寺舟溜り~夷川ダム
の往復約3km、約25分)以外に、乗船と岡崎周辺見学を含めた豊富なガイド付きコースも用意されている。細部については、旅行業協同組合(075-321-7696)に問い合わせてほしい。

 昨年から今年にかけて、京都市は「岡崎地域活性化ビジョン検討委員会」を設けて検討を進め、
最終案を市長に答申しているが、その中には事業として定着しつつある「岡崎十石舟」の運航期間や運転時間の拡大も項目に取り上げられており、具体化することを期待している。


琵琶湖疏水工事に使用された琵琶湖沖島の石材

2011-04-01 13:00:24 | 琵琶湖疏水

 3月末に、大津市瀬田川沿いの「アクア琵琶」で琵琶湖歴史倶楽部主催の講演会があり、
「歩いて学ぶ“琵琶湖疏水の歴史散策”」と題した講演を実施したが、講演後の質問の中に
「琵琶湖疏水工事に沖島産出の石材の使用」に関するものがあり、私自身も平成20(2008)年6月に沖島訪問した記録(ホームページ http://www.geocities.jp/biwako_sosui/biwakokanren2.htm#16)A-02-16/2008-06-11)の中で少し触れたことがあり、簡単な説明を実施したが、改めてネット調査した結果、もう少し詳しい情報があったので、質問者への返答を兼ねてまとめたのが本報である。

1) 近江八幡観光物産協会「沖島」の石材記事の要旨
 享保19(1734)年の記録に、“沖島の住人が石を採って之を売る”と記されている。採取した石材は、明治期には琵琶湖疏水・南郷洗堰、東海道線の鉄道工事に使用され、島の経済に大きく貢献したが、時代の流れでコンクリートブロック時代に入り、沖島の石材産業は昭和45(1970)年の組合解散で幕を下ろした。

2)ビワズ通信34号(2002年夏号)
 明治に入ると、石材採掘は島の大きな産業となり、各地からも石工が来て賑わった。島で切り出された石は、丸子舟で浜大津港に運ばれると、琵琶湖疏水や東海道本線の鉄道建設、南郷洗堰など多くの土木工事に使用された。

3)「琵琶湖疏水100年」誌・叙述編 130~131ページ記載の要旨
 琵琶湖疏水工事用石材は、事前に主任者を派遣し、京都と滋賀での石材産地の調査を実施し、疏水幹線に近い「藤尾官山と疏水分線の浄土寺官山の2山から主に採掘することにした。このほかに、滋賀県蒲生郡奥ノ島村および岡山村(今の近江八幡市)の花崗岩を採掘し、湖水を利用して運搬し、大津から木馬や運搬車に乗せ、牛に引かせて現場に運んだ。
 琵琶湖疏水工事の完成後、疏水を通って沖ノ島などから大量に運び込まれ、インクライン、哲学の道、鴨川や高瀬川の石垣、京都大学周辺の石垣に使用された。

4)その他の資料
 ホームページやブログなど複数の資料に、“琵琶湖疏水の工事では、約80%が沖島の石”の記事が存在するが、データの出所の記載はない。また、最盛期には石工は50人ほどいた。はじめは瀬戸内などから集まったが、島民も技術を身につけていった。沖島の集落の中心部に「おきしま資料館」が存在するそうである。

5)まとめ
以上を総合すると、“琵琶湖疏水の建設に主として使用されたのは、藤尾(大津市)と浄土寺(京都市)の石材で、その一部に沖島の石も使用されたが、建設終了後に疏水の水路を利用して運搬船が大量の沖島石を京都市内の工事用に運んで使用された”と解釈される。おそらく、沖島の採石出荷量と琵琶湖疏水建設に使用した採石とを比較して80%という誤
った値が出たと推定される。今回は数値確認のための統計データまで追求していない。
 推定であるが“琵琶湖疏水の最初のルートの大津運河に必要な石材は、沖島の石材が立地的に有利であり、南郷洗堰や東海道線など湖南の鉄道工事にも大量に使用された模様”である。