京都植物園設立記念碑

2009-09-25 11:08:47 | 植物と動物

 京都植物園の正門を入ると、すぐ左手に大きい石碑が建っている。高さ3.5mの石版に文字がびっしり刻まれている。植物園といえば、植物を観察するために訪問するものであるが、この石碑の前には説明板がなく、気になる存在であった。
                        
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 京のいしぶみデータベースで由来を調べてみると、“京都府立植物園は大正天皇即位大礼(大正4年)を記念して設立されたもので、建設にあたって男爵三井八郎右衛門が25万円を寄付、この寄付金をもとにして大正13年(1924)に開園した。
 この碑は昭和天皇即位大礼(昭和3年)にあたり、開園の経緯を記したものである。“と説明し、全文が紹介されていた。
 全文を読むと、府会に提示された25万円の明細として。10万円を創設の費として7万坪(内1万坪は運動場)を当て、15万円を維持費に当てるとしており、春花秋葉夏月冬雪の美を詠っている。
 京都新聞の「道ばた史料館(06‐08‐26)」では、この碑を“開園の経緯流麗に”と紹介し、広大な植物園に二つしかない石碑に一つと解説している。
 簡単なものでよいから、現場に説明板を設置してほしいと思う。


疏水第一トンネル東口の鉄扉の由来

2009-09-20 20:04:08 | 琵琶湖疏水
  大津運河を案内するとき、第一トンネルの東口洞門に半開きで付いている赤色の鉄扉について質問を受ける。現在では琵琶湖の水位コントロールが容易になったので、この鉄扉は無用となったが、歴史の証人として残されている。
                
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 琵琶湖治水沿革誌より当時の様子を回顧してみると、
明治29年(1896)の8月末から9月上旬にかけて暴風雨と大雨が重なり、琵琶湖の水位が異常に上昇し、9月8日には三保ヶ崎の量水標が327cmに達し、明治18年(1885)の大洪水より55cm越えたので、京都水利事務所の大津閘門番所が閘門を閉鎖し、閘門が破壊されたときに京都市が浸水することを恐れて、トンネル洞門に土嚢を積んで塞ぎ応急処置をとった。
  9月13日には過去最高の388cmに達し、地元の大津町が浸水し、閘門の開放を巡って争いとなった。京都市側は、将来の大出水に備えて東口洞門に恒久的は鉄製門扉を設置し、契約量の水の引き取りと蹴上発電所の運転に必要な水を確保するため、鉄扉の4ヶ所に孔を開けた。
 その後、琵琶湖の水位の異常上昇を防ぐため、瀬田川の浚渫、南郷洗堰・瀬田川洗堰・バイパス水路の設置などで調整施設が整い、この鉄扉の必要性はほとんど無くなったと推定される。

鴨東運河と繁茂する水草

2009-09-14 10:34:31 | 琵琶湖疏水
   大津運河と山科疏水の第一疏水は、第二疏水に頼って冬期には水流を止めて水路を清掃するが、鴨東運河は年間稼動を続けている。しかし、疎水は南禅寺舟溜りで比叡・大文字を源流とする白川と合流するが、そのとき大量の白川砂を運んでくるので、この砂を除去するため浚渫船(現在はショベルカー)が稼動し、鴨東運河の風物詩となっている。このとき、水路に繁茂した水草や土砂の除去が行われているようである。しかし、沈降しない土砂の細粒は慶流端・二条端のあたりまで底面を白く染めている。
 この土砂に根を下ろした水草が、地球温暖化の影響もあってか成長を続け、写真に示すように水面から顔を出すようになった。
                             
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 私は古城の堀端を思わせる鴨東運河沿いの散歩道(六勝寺のこみち、疏水のこみち)を往復するのが好きであるが、先輩たちが書き残した昔の鴨東運河を想像しながら歩いている。小説家・菊池寛が短編小説「身投げ救助業」で90余年前(大正5年)の鴨東運河を記述しており、随筆家・松本彰男が単行本「小説琵琶湖疏水」約70年前(昭和10年代)の鴨東運河まわりの生活記録をくわしく記述している。
 当時の鴨東運河の底は自然のままで、水深も一丈(約2.7m)あり、足を取られると危険な場所であった。一面魚類や貝類など水生動物も多く生息していたという。
 これも松本彰男氏の記述であるが、終戦後岡崎地区の公共施設を接収した進駐軍は、運河沿いにあった柳並木を伐採して鉄条網で囲い堤防ぎりぎりにジープが並んだという。桜並木に変わった斜面にも悲しい歴史の一面があったのである。

時代祭展「延暦時代」の見学記

2009-09-09 22:46:34 | 歴史と散策

   延暦時代とは、桓武天皇治世の延暦年間(782~805)を示し、奈良時代後期から平安京初期の時代となる。この間に、都が平城京から長岡京を経て平安京に遷都している。
 「みやこめっせ」で開催される時代祭展は全14回開催される予定であり、今回は13回目の展示となった。
          
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 展示は「延暦武官行進列」と「延暦文官参朝列」であり、解説資料によると、武官行進列は延暦20年(799)征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征を終えて平安京に凱旋する様を表している。武官の衣装は比較的地味で、鎧(よろい)兜(かぶと)も軽量な感じであり、武器も弓矢が主で太刀も短いという印象を持った。
 文官参朝列は延暦15年(796)、文官が朝賀の儀式のため参朝する様を表している。
  文官の衣装も身分によって色が定められており、最高位の三位(浅紫)、四位(深緋)、五位(浅緋)、六位(深緑)と落ち着いた色が目立った。
 100点を越える細部衣装や装備の展示から、1200年前の風俗に触れ、そのレベルの高さを充分に楽しむことができた。


一燈園敷地内に存在する有孔自然石の話題

2009-09-05 20:19:52 | 琵琶湖疏水

 約一年前になるが、四ノ宮から一燈園敷地に上る舗装坂道(車道)の頂上の突き当たりに、円筒形にくりぬかれた孔がある大きい自然石があることを、ホームページに取り上げた。その後、この坂道には昔レールが敷かれており、四ノ宮舟溜りに到着した三十石舟で運搬される貨物の揚げ降ろしに利用されていたという情報(うわさ)を聞いたので、この有孔自然石は台車用のワイヤーロープ操作の部品ではないかと想像した。
   ホームページ: http://www.geocities.jp/biwako_sosui/
     B(散歩道)-2(山科疏水)35項(316話、08-10-12)
     B(散歩道)-2(山科疏水)37項(336話、09-01-29)

         
          08-10-11^368            08-10-11-369
    
 
   山科疏水の四ノ宮にインクラインがあったという話題に興味を持った私は、坂道の傾斜を実測して蹴上インクラインと同じ1/15であることを確認して、一燈園に問い合わせをしたところ、責任者である西田多戈止さんが面談の機会を設けてくれた。
 そして、一燈園敷地内に存在するいろいろな石の由来について興味深いお話を聞くことができた。
   私の推定が事実であれば、問題の坂道は、一燈園が北白川から移り住んだ昭和44年(1929)以前から存在していた筈である。しかし、西田さんの少年時代(昭和10年ごろ)には、この坂道は存在せず、現在のいずみ幼稚園の正門南あたりを斜めに降りる急坂があった。当時の荷物の運搬車は、少し東にある東山自然緑地公園の石標の先にある道路(疏水建設当時に新設された工事用道路)が利用されていた。現在の坂道は、正確な記憶ではないが昭和の初期に建設されたもので、一燈園の私道として現在に至っている。この私道を荷物運搬などの公用に利用したという記録も残っていないとの返答を得た。
  私の推察は間違っていたが、問題の有孔自然石の由来は不明のまま残った。疏水工事の発破用に利用したのでは?という話題も出たが、確たるものでない。この写真を見て何か情報があれば、ぜひ連絡していただきたい。