平成20年3月度紹介予定のホームページの項目

2008-02-28 13:39:43 | 琵琶湖疏水

 ホームページ(http://www.geocities.jp/biwako_sosui/)3月度更新予定の項目は下記5件ですので、お立ち寄りください。

274話……分類:技術・技術全般24項(C-03-24)    08-02-08記
        題目:京都市内の浄水場に関する3件の話題
         要旨:松ヶ崎・山之内および現存しない山科浄水場に関する話題の紹介
275話……分類:技術・建設工事14項(C-01-14)    08-02-12記
        題目:琵琶湖疏水の舟溜りについての考察
         要旨:疏水工事で10ヶ所に設置された舟溜りのまとめ
276話……分類:散歩道・関連河川10項(B-04-10)   08-02-21記
         題目:紫明通~堀川の公園化工事(6)
         要旨:10年計画で8年目を迎えた工事状況の6回目の報告
277話……分類:散歩道・鴨東運河11項(B-04-11)   08-02-22記
        題目:鴨東運河の歴史散策(5)大正昭和時代の話題
         要旨:小説家が記録した大正・昭和時代の話題の紹介
278話……分類:散歩道・鴨東運河12項(B-04-12)   08-02-26記
         題目:平成20年度鴨東運河の改修工事
         要旨:夷川舟溜りの浚渫工事と水路壁面の石積み改修工事の紹介


鴨川運河の清掃について

2008-02-26 07:00:42 | 琵琶湖疏水
 鴨川運河の水流は、塩小路橋の下から地上に姿を現わし、鴨川と並行して南下するが、京阪鳥羽街道駅の手前から鴨川と離れて京阪電車と交差し、深草駅からはほぼ直線で電車の東側を南下し、墨染駅の手前でふたたび京阪電車と交差して電車の西側を南下して発電所のある墨染舟溜りに達する。
 いつも年頭からの疏水清掃時期に、多くの自転車や電気器具などの投げ込みがあると話題になるが、今年も1月25日の京都新聞が、鴨川運河の藤森・墨染地区の汚染苦情により、疏水事務所の手でヘドロや藻のからまった15台の自転車を回収したと報じた。
 最近鴨川運河に架かる橋の調査のためこの区間を歩いてみたが。墨染舟溜りには山済みの大型ゴミが積まれており、他の水路でも回収作業が行われていた。
       
    大型ゴミを回収する作業員          不法投棄禁止の看板に落書き
  もっと驚いたのは、水が抜かれたコンクリート底に真新しい生ゴミやビニール袋が多く投げ込まれていた。このような川の流れへの不法投棄は珍しいことではないが、京都市中央部を流れる河川の中でもとくに際立っているように感じた。
  また、各地にある舟溜りの周辺にある柵の高さは、1.2mくらいの乗り越えられない高さに設定されているが、伏見の黒染舟溜りは高さ2m以上で間隔の狭い柵で囲まれており、撮影も困難で廃棄物投入防止を考慮しているように感じた。
  京都市内には多くの河川がながれているが、その多くは地元による「美しくする会」が組織されており、住民の姿勢が反映して粗大ゴミの投棄は少ないようである。観光開発の進んだ岡崎地区の鴨東運河と濠川・宇治川派流の両地区を結ぶ「鴨川運河」を散策道として美しく維持されることを願うものである。

玉村放久斗展を見学

2008-02-17 04:32:56 | 美術と文芸

   京都国立近代美術館で1月8日から2月17日にかけて「玉村放久斗展」が開催された。私にとっては初めて聞く名の画家で予備知識もなく興味を持たなかったが、京都新聞で、「前衛と日本画のはざまで」と題した5回シリーズの解説があり、画家の経歴と画風の概要を知って興味を持った。
   私は西洋絵画の歴史の中で、フランス革命による新時代到来の機に花を咲かせていったフランス印象派絵画に熱中した時期があったが、明治維新の場合にも日本画が新しく方向を変えたという観点から欧州留学した画家達の絵の変化は興味深いテーマであった。この意味で、玉村放久斗という画家の存在を知り、2月10日に見学した。
        
 
 今回の展示作品を見て感じた印象は、個展の場合に年とともに画風の変化が読み取れるが、放久斗の場合は、日本画家としてスタートした時点から柔らか味のある作品が多く、途中から画風が変わった後また純粋な日本画スタイルに戻り、また変化するという系統的ではない激しさを感じた。まさに“近代京都が生んだ異色の画家”という印象を持った。
 会場入り口に展示されていた「山十題」の中の湖東の山という作品は、南画風の丸い連山の緑・薄青・薄紫・濃青と配色の流れがよく、大正4年(1915)という京都市立絵画専門学校卒業直後の作として強い個性を感じた。
 今回の最大目玉は「雨月物語の絵巻」全9巻(全長235m)であり、80数年ぶりの公開であった。雨月物語は江戸時代に書かれた怪談集として知られているが、絵巻に登場する人物はお化けの顔をしており、大きい口は朱で塗られ、手足が曲がりくねっている恐ろしい姿をしており、開いた片面一杯は墨筆の文章で埋められていて斜めに置かれた細長い展示棚を見ただけで強烈な印象を持った。
 別室の展示には純日本画の掛け軸や都市風景を題材とした軽いタッチの絵があり、雑誌の挿絵や屏風絵など日本画の画材を用いた新しい展開を試みている。

   玉村放久斗という画家を世に引き出したのは、京都東山の神宮道にある画廊「博報堂」の経営者・星野桂三氏で、25年かけて作品を蒐集し、今回展示約140点の作品の半数は星野さんの蒐集品であると京都新聞(凡語)が紹介している。
私を印象派絵画の鑑賞の世界に導いてくれたのは美術評論家・高階秀爾氏(中公新書・近代絵画史)である。私の東京時代には国立西洋美術館長を務め、そのご倉敷の大原美術館長を務められた絵画界の重鎮であるが、2月6日付の朝日新聞で「大観と放久斗」と題した論文を発表し、横山大観と並べて放久斗を京都の偉才として紹介している。
   今回の展示会の開催まではあまり知られていなかった「玉村放久斗」の名はこの1ヶ月の間に全国に報道され、Google検索で1万件を超えるほどの過熱ぶりを示している。私のように絵画の知識の乏しいものが見学の機会をえたことを嬉しく思うこのごろである。同時に専門家による放久斗の解説が展開されるのを楽しみにしている。

 


夷川舟溜りの浚渫工事進行中

2008-02-09 22:09:24 | 琵琶湖疏水

   正月早々から疏水の改修工事がスタートしているが、今年の工事範囲は広く珍しい工事に出会うことが多い。この期間、第一疏水の流れを止めて第二疏水(連絡トンネルを含めて)だけでまかなっている。昨年・一昨年の冬の修理は山科疏水が中心であったが、今年は第一トンネル西口洞門から七号橋までの水路底面の全面張り替えと鴨東運河に架かっている冷泉橋以西の水路壁面石垣の全面張替え工事が進行している。
   「夷川舟溜り」の浚渫も珍しい工事の一つで、南側に土嚢を積んで鴨川に抜ける水路を確保し広い舟溜りの水を抜いて蓄積された汚泥を浚渫機で浚えている。
   
          東側から西側をみた写真                        南側から北側をみた写真

 夷川舟溜りの北側には右写真に示すように白い建物の裏に「京都踏水会(昔の大日本武徳会遊泳会)」があるが、明治29年(1896)この舟溜りには遊泳会が日本で最初に開設した夷川水泳場があり、昭和44年(1969)まで利用されていたと記録されている。この工事は2月末ころまではつづくと思われるので、機会があれば見学してほしいと思う。

 


小関越え道を久し振りに歩く

2008-02-06 15:44:44 | 琵琶湖疏水
   小雪のちらつく1月27日、近代京都の礎を観る会主催の「小関越えハイキング」に参加した。京阪浜大津駅に20名が集合し、最年長の私が解説役を務めた。今回の主目的は、琵琶湖疏水の最大の難工事となった第一トンネル(第一竪坑を含む)の工事を現場で立ち会って当時を回想することであり、大津運河と山科疏水をつなぐ第一トンネル直線水路のほぼ上をジグザグに走る小関越え道を数年ぶりに歩いたが、これに関連した解説事項は2月度のホームページに紹介したので、ここでは小関越えの峠から藤尾道に降りる小道の現状について触れることにした。
   小関越えの道は、入り口にある道標に示すごとく、北国海道(西近江路)を通って京都を目指す旅人や、西国三十三所観音巡りの巡礼道(14番の大津三井寺と13番の京都今熊野観音寺をつなぐ)や、東海道の逢坂の関を抜ける間道など多目的に利用されており、歴史のあちこちに登場する古道であるが、近代化の進行により現在では幅広い車の往来が可能な舗装された道となっている。この中で、峠の左側から藤尾の普門寺横に降りる約2m幅の短い小道は簡易舗装されているが、昔の小関越え道の面影を残す道として歴史愛好家や散策者に愛されてきた。
   私自身昭和50年(1975)から藤尾の地に家を建て、二十数年にわたり小関超え道を歩いて三井寺まで散歩を楽しんだ。当時は普門寺近くに若干の倉庫風の建物は存在したが、古道の面影を残した山道であった。登り道の左側は山の斜面で樹木が迫っており、右側は緩やかな斜面で田畑があり、琵琶湖疏水の第一竪坑が赤いレンガ色でどっしりと腰を据えていた。しかしながら、この30年の間に登り道の竪坑の上まで開発が進み、プラスチック製波板や雑物でカバーされた通路となり、古道の面影は消えてしまった。
      
   竪坑のすぐ上部にある建物         第一竪坑前の唯一の看板「マムシキケン」
   おそらく右側の斜面は個人の所有地であり、開発の自由はあると思うが、「小関超え」という歴史遺産を風格ある姿で残すための若干の行政指導や補助を考えてほしいと大津市に要請したい。また、「第一竪坑」は琵琶湖疏水の構築物として最も大切なのものであるが 現場に全く説明がなく、唯一存在する看板が「マムシキケン」だけでは淋しすぎる。もう一つある国の史跡「第二竪坑」も藤尾にある個人住宅の庭の裏にあり、通路から全く見えない。これらは京都市所管と聞いているが、小関越え道にある“国の史跡指定を受けた文化財”として標示をお願いしたい。

第39回日展(京都展)を見学

2008-02-01 21:25:13 | 美術と文芸

 去る1月10日京都市美術館で日展を見学した。私は長期にわたった東京単身赴任中から美術館めぐりを楽しみにしてきたが、JR上野駅から近い東京都美術館で、毎年「日展」を見学してきたことを思い出す。私は絵を描く趣味もなく知識の蓄積もなかったが、入場料が比較的安かったことと画家人生の縮図ともいえる絵画を素人なりに評価できる楽しみがあったのである。

 美術界というのは流派の対立が大きく、これを調停する目的から、文部省が各派を統合する形で公募展(官展)をはじめたのが明治40年(1907)といわれるが、その後いろいろと名称が変わり、戦後の昭和21年(1946)に「日本美術展覧会(日展)」として再出発している。

 私が一番好きな絵画展は、一人の画家の初期から晩年に至る作品を一括展示する絵画展で、その画風が個人の生活環境の変化・他の画家による画風の影響・世界環境の影響などで変化していく過程を想像することである。また有名な画家よりは特異な画風の作品で、没後または後年になって認められた作家の見学などはとくに好きである。

 私が毎年日展を見学するのは、その年の日本画・西洋画・彫刻・美術工芸・書の6分野の選ばれた作品を一度に見られることであり、とくに絵画の多くは大作であり、その作品に込められた作家の意思が伝わってくることである。また入賞した作品がなぜ選ばれたかを想像するのも楽しい。

 昨年(2007)は日展100年記念の年で、東京の会場が昨年から上野の東京都美術館から六本木の国立新美術館に移転し、「日展100人&日展100点」が開催された。今年京都で開催された日展(京都展)は、全国巡回の基本作品と京都・滋賀の地元作品を展示しており、展示数は制限されているようだが、現代の代表的な作品を心の中で批評しながら楽しく巡覧できる京都に住めることはありがたいと思っている。