ブログ261 松花堂庭園・美術館の見学記

2015-11-25 16:32:16 | 歴史と散策

 今年の5月に八幡市にある松花堂庭園・美術館を訪問したので概略を紹介する。
「小川治兵衛」の名を継ぐ「造園植治」の次期十二代小川勝章氏が2013年10月26日付京都新聞で「飛び石の配列 絶妙」と絶賛していたので興味を持ち訪れた次第である。
 私自身金沢の旧制高校時代にお茶のサークルに属しており、松花堂が松花堂昭乗(書道・絵画・茶道に堪能な文化人)ゆかりの地であることも興味をもったきっかけのひとつである。

 ご参考までに 現在松花堂美術館では12月13日(日)まで平成27年特別展-ようこそ、神と仏の男山へ-石清水八幡宮太子堂の遺宝-を開催している。    

  

またここは「松花堂弁当」の由来の地としても有名である。

   図は庭園公式カタログより引用


ブログ260 柳が崎湖畔公園見学記

2015-11-11 17:49:45 | 歴史と散策

 びわ湖バレイ訪問の後、時間に余裕があったので大津京の柳が崎湖畔公園を訪れた。

 公園内にはびわ湖大津館があり、ここは1934年に琵琶湖ホテルとして竣工。2000年に大津市の有形文化財に、2007年に経済産業省の近代化産業遺産に指定されている。1998年に琵琶湖ホテルが浜大津へ移転した後大津市が買い取り修復、文化施設にリニューアルされ2002年に公開された。
 同時にびわ湖大津館の東隣りに5900㎡の英国式回遊庭園を造成、公開している。(ウィキペディア等より)

 私は2002年(13年前)の秋に訪問したことがあり今回が2度目である。
 ハロウィーンの時期ということもありさまざまなカボチャ等の飾りがしてあり、アメジストセージが満開、10月桜や秋バラがきれいに咲いていた。

 

           庭園の入り口                             ハロウィーンの飾りつけ

 

            大きなカボチャ                             カボチャの重さ当てクイズ

               満開のアメジストセージ

             秋バラ


ブログ259 びわ湖バレイの見学記

2015-11-11 17:40:07 | 歴史と散策

びわ湖バレイの概要(ウィキペディアを参考)

 1965年、産経新聞社がサンケイバレイとして開設。当初全長約2㎞のカーレーターが23分山麓山頂を結んでいた。開設されたその年の秋、勤務先の遠足で家族4人が参加しカーレーターを訪問した写真が我が家のアルバムに残っている。
 1968年名鉄に買収されびわ湖バレイと名称を変え、1975年10月カーレーターを廃止、ゴンドラリフトが開業され所要時間が8分に短縮された。
 2008年に老朽化したゴンドラリフトを廃止。121人乗りの大型ロープウェイが営業開始した。
 今回私が訪問し、利用したのはこの大型ロープウェイである。紅葉の季節で来客が多いと予想し、混雑を避け早朝に家を出発し、始発(9時)のロープウェイに乗った。

                  びわ湖バレイの全体説明図

 

           大型ロープウェイ                             琵琶湖展望台付近の花畑

 

          ロープウェイからの眺め                     ロープウェイから琵琶湖大橋の南北を望む

   


八幡市の背割桜を見学

2011-04-21 11:56:33 | 歴史と散策

 平成21(2009)年2月、NPO法人・瀬田川リバプレ隊主催の現地見学ツアー「淀川の今と昔」に参加し、「三川合流」地点を初めて見学したが、評判の背割桜は花を付けていなかった。しかし今回は4月11日の訪問で、満開の背割桜を充分に楽しむことができた。
  京阪電車・八幡市駅を下車して人の流れについて10分くらい歩くと「御幸橋」に達し、木津川右岸に桜の並木が姿をみせる。これが有名な「背割桜」の並木
である。

 
2011-04-11-3949 木津川右岸に見える背割桜の帯     2011-04-11-3953 背割堤(緑色)の地形図

  背割堤周辺は「淀川河川公園」として整備されており、250本のソメイヨシノと50本のハナミズキが約1.4kmの花のトンネルを形成している。
  
2011-04-11-3962 幅広い桜のトンネル       2011-04-11-3958 幅広い木津川の河川敷
 
 背割堤の名の由来は、木津川の堤防の背を割る形で宇治川の流路が付け加えられてできたので、背割堤と呼ばれるもので、この少し先で宇治川と木津川が合流して淀川となり、のあと桂川と合流して大阪湾に向かう。背割堤は、宇治川と木津川の両方をゆるやかに合流させる役目を果たしている。
 ネット情報によると、昭和50年代始めまでは松並木で会ったが、害虫被害で松が枯れ、昭和53(1978)年3月に当時の建設省がソメイヨシノに植え替えて今日に至ったとの記載があるが、現場で見た桜の樹齢は30年余とは思えない貫禄があった。おそらく、少し成長した木を植樹したのかもしれない。
 背割堤に、国土交通省天ヶ瀬ダム管理支所が立てた大看板があり、ここから16.3km上流にある天ヶ瀬ダムの放流による増水時にサイレンを鳴らすから、河川敷に降りないように注意している。今回、想定外の事象発生で大災害となった「東日本大震災」を経験し、淀川流域に位置する低水位地区の今後の災害防止対応の難しさを痛感した旅でもあった。

 


亀岡の穴太寺訪問と城郭の穴太積みの話題

2011-03-06 23:22:43 | 歴史と散策

 昨年の10月、嵯峨野トロッコ列車に乗り亀岡夢コスモス園を訪問したとき、バスを利用して丹波の里「穴太寺」を訪れた。由来書によると、「穴太寺(あなおうじ)」は飛鳥時代の705年創建の天台宗の寺で、庭園は府指定名勝、建物は府登録文化財・府指定文化財の由緒ある寺院であるが、ゆっくり勉強させていただいた。
    
  2010-10-22-2306 府指定名勝の穴太寺庭園              2010-10-22-3-2310 参詣者の絶えない本堂

 この寺院の名である「穴太」の読みから、すぐに大津市坂本にある穴太の地名を連想したが、この地名は三重県東員町穴太、北九州市八幡区穴太、大阪府八尾市穴太駅、阪急園田駅近くの穴太など各地に存在している。
 とくに、西日本中心に残存する石垣の大部分(約80%)が「穴太積み」と呼ばれる石積みであり、もっとも古いものは大津市の日吉大社にあるが、日本の石積みの歴史は、朝鮮半島・中国大陸・シルクロードを経て伝来してもので、エジプトが起源ともいわれている。

 朝日新聞(2010-11-27)の解説によると、この技術が全国に広がったのは、織田信長が、比叡山延暦寺の焼き討ちに耐えた石垣の技術に感嘆し、安土城の築城に穴太衆(石工集団)を滋賀から呼び寄せたことが評判になり、安土桃山時代に築城した大阪城・淀城・伏見城・会津若松城・高知城など多くの築城に穴太衆が採用されたためと紹介している。
 京都新聞(2009-09-06)の解説によると、穴太積みとは、荒割りした石の割れ面を表に向け、横長に積んだものが代表的で、石と石の間には間積と呼ばれる小石が詰められ、接合面を広くすることにより排水性を高め、耐久性を高めたと説明している。
 最近の報告(歴史都市防災論文集3 2009-06)に「城郭石垣の耐震安全性に関する基礎的研究」が発表されるなど研究が開始されている。また、昨年は大津市坂本の穴太衆の子孫で、石垣の伝統技術を伝承する第14代当主粟田家が建築アートの雑誌社に招かれ、米国カリフォルニア州で、穴太積みの実演を行い話題になった。
 日本の代表的な珍名といわれる「穴太」も、覚えると忘れ難い名前である。


特別史跡「旧閑谷学校」の聖廟前にある「楷の木」

2010-11-21 21:57:31 | 歴史と散策

 11月13日、岡山方面のバスツアーに参加し、コースの目玉の一つであった「閑谷(しずたに)学校」を見学した。交通渋滞の影響で見学時間が短く、帰宅してからネット検索で、そのすばらしさを再認識したが、聖廟前にある一対の「楷(かい)の木」の美しさには圧倒された。ここでは、「楷の木」に焦点を当てて紹介する。

1)閑谷学校について
 ウィキペディア資料を中心に数行にまとめて紹介すると、……岡山藩主の池田光政によって開設された「世界最古の庶民学校」で寛門10(1670)年に創建された。藩士のための教育施設「岡山学校」につづき、岡山藩立の学校として開かれ、32年かけて整備完成した。地方の指導者を育成するため、武士のみでなく、他藩の子弟、庶民の子弟にも門戸を開放した。施設のほとんどが国宝、重要文化財に指定されており、世界遺産への取組みが進められている。

2)聖廟前にある一対の「楷の木」
 聖廟の前に中国の孔子林の種を育てた一対の「楷の木」があり、紅葉と黄葉が面前を覆った。ガイドの説明によると、もっとも美しい時期の訪問であった。正面に立っている駒札には、…楷は東南アジアや中国に自生するウルシ科の植物。大正4(1915)年、林学博士白沢保美氏が中国 曲阜の孔子廟の楷の実を持ち帰り、育苗したのが日本における最初のものである。そのうちの2本が大正14(1925)年に閑谷学校に寄贈され移植された。秋の紅葉が非常に美しい…と紹介されている。
    
     10-11-13-3901 楷の木の葉拡大写真               10-11-13-3902 楷の木の全体写真

 向かって左側の木は紅葉で、右側の木は黄葉であるが、斜めから撮った紅葉の楷全景の写真を示すと、
              
               10-11-13-3024    手前が紅葉、奥が黄葉

「楷の木の歴史」については、大阪大学・基礎工学部の紹介記事がある。
www.cheng.es.osaka-u.ac.jp/alumni/kainoki.htm
 この報告に、閑谷学校の一対の「楷の木」は幹の太さが2m、高さ13mで、風土に合っているためかここの楷の木が最も大樹に育っていると紹介されている。また、「楷」は中国では模範の木とされており、日本においても書体の「楷書」の語源で“つよくまっすぐ”の意味で、儒学の精神を体現するシンボリックな存在としても有名な珍木である。 
 雌雄異株で実をつけるまでに20年を要し、雄株と雌株をあまり離して植えると交配できず、実がつかない。発芽率は低いが成長力は大きく、樹齢は700年にも達し、樹高は30mになると紹介されている。

 日本国内の孔子や儒学のゆかりのある学校や他の特殊施設の記念樹として各地に植樹されているが、日本では、珍しい木として珍重されている。


亀岡の800万本「夢コスモス園」を見学

2010-11-03 21:54:51 | 歴史と散策

 メキシコを原産地とするコスモス(秋桜)の花は、ネット検索しても4400万件あり、全国にコスモスをシンボルとする市町村が36ヶ所もある著名な花である。コスモスをテーマとする観光地も多く、植えたコスモスの数を競っている。一昨年の資料によると、北海道・遠軽町の太陽の丘えんかる公園の1000万本がトップで、京都府亀岡市・夢コスモス園の800万本が2位であったが、昨年は兵庫県加古川市志方町が4000万本、今年は群馬県板倉町に8000万本の計画?の情報が飛び交っている。実際に見学していないので数の精度や面積はわからないが、亀岡の「夢コスモス園」は近いので、10月22日トロッコ列車・京阪バスを利用して見学してきた。

「夢コスモス園」がスタートしたのは平成12(2000)年であるので、今年は10年目になる。初期に訪問した人によると、休耕田を利用した小規模なもので、2年前までは「亀岡南部地域経済会議」が運営してきたが、昨年から「夢コスモス園プロジェクト実行委員会」がバトンタッチして管理している。
 現在の面積は5ha(約15000坪)であるが、平成18(2006)年は3haの記録があるから、途中で拡大している。平成20(2008)までは、7月に種蒔きしたが、昨年から梅雨前の6月とし、8月初旬に50cmほどになった時点で途中カットすると枝別れして花数が増えて、500万本が800万本になったらしい。
 5haの敷地の中央部にある展望台に立ってぐるりと見渡したが、800万本の素晴らしさには圧倒された。
    
   10-10-22-32  展望台から眺めた花の縞模様            10-10-22-37  地上から見た花、花、花

 コスモス畑の間を歩くと、いろいろな品種があり、コスモス以外の季節の花畑が組合わされており、集団の美が楽しめる。もう一つ面白いのは、毎年同時開催される「カカシコンテスト」であり、見学者の投票で順位を決める仕掛けになっている。我々も3票を投じてきたので、朗報が待たれる。
    
   10-10-22-2281    ドラエモンのカカシ                10-10-22-2282  家族に幸福招来

 亀岡市は京都近隣で人口約10万人の小都市であるが、3大観光は「保津川下り」、「トロッコ列車」、「湯の花温泉」で、数年前に観光協会事務局長を公募して話題を呼んだ。
 昭和63(1988)年の京都国体に合わせて設置した複合的スポーツ施設に隣接して「夢コスモス園」が存在している。JR亀岡駅よりバス便もよく、訪問者も3~4万人と漸増している。最近では開園期間中の亀岡商店街の売り上げも伸び、“コスモス効果”と呼ばれている。亀岡市を歩くと町全体が観光立地を目指して頑張っている心が伝わってくる。周辺に史跡も多いので、時々訪問したいと思っている。


企画展「語り継がれる幕末・維新の京都」を見学

2010-08-03 19:58:56 | 歴史と散策

 今年のNHK大河ドラマは「龍馬伝」で、本屋では特別コーナーを設けており、このブログでも172号で、京都駅ビルの空中廊下で開催中の「幕末を活きた人物展」を紹介した。
   京都府立総合資料館も「語り継がれる幕末・維新の京都展」と題した企画展を7月24日~8月22まで開催しているので、覗いてみた。
            
            2010-08-02-1698  黒船の絵を用いたパンフレット

 この展覧会は、ペリ-の浦賀来航に前後して始まる幕末の歴史を語る資料からスタートし、30年後の日清戦争に勝利した時代、60年後の昭和大礼時代、明治100年に当たる昭和43年頃の時代、さらにその後の動きを示す記録・書籍・写真を通して、幕末・維新像がどのように語り継がれてきたかを紹介する企画展で、約100点の珍しい資料が年次順に展示されていた。
 私はまだ幕末・維新の時代の歴史については初心者の段階であるが、まず全体を一見して展示の構成を把握し、もう一度最初に戻って詳しく見学することにより“珍しいお宝に巡り会えた喜び”と“記録を保存継承することの大切さ”を噛みしめることができた。
 展示室にある記録・書籍・写真の解説資料をいただいたので、帰宅してから3回目の内容確認をすることができた。琵琶湖疏水を推進した北垣国道が勝海舟の死去の報に接したとき、弔意を表した手紙の文面が紹介されており、“先生の門下である坂本(龍馬)、千屋(寅之助)、望月(亀弥太)は私の信友であった”と記載している。      


2010年祇園祭の巡行を特別席で見学

2010-07-20 18:26:39 | 歴史と散策

 京都7月の最大の行事である祇園祭は、毎年7月1日から31日までの1ヶ月間開催される。今年の7月の前半は不純な天候で悩まされたが、本番の日は青空の好天に恵まれた。
 京都新聞では、6月中旬から毎日のように祇園祭に関係する記事を報道し、今年の見学の見どころを紹介しつづけ、7月7日の「山科アスニー」では、滋賀県立大学名誉教授の脇田晴子氏の「祇園祭の成立と展開」と題した講演を聴かせていただいたので、事前の調べができた。
  さらに、京都市役所の御池通の両側に設置された特別観覧席の最前列の券をいただいたので、至近距離から巡行を見学することができた。
        
        10‐07‐17‐1611 先頭を行く長刀鉾        10‐07‐17‐1618 2番の孟宗山

  長刀鉾は鉾先に大長刀をつけているので、この名でよばれるが、毎年巡行の先頭を行き、生稚児を乗せる唯一の鉾である。巡行に参加する山鉾32基のうち、鉾は9基、山は23基である。
  今年は長刀鉾の次に孟宗山がつづいたが、今年は昨年亡くなった平山郁夫画伯の「砂漠らくだ行」を原画に新調した胴掛2面が披露された。(右写真参照)
  鉾の重量は8.5~12トン、高さは鉾頭まで17~25メートル、参加人員は囃子方交代員を含めて約40名に達する。2メートル前後ある車輪を方向転換させるテクニックはすばらしい。これに対し、山の大きさは0.5~1.0トンと小さく、1基あたりの要員は14~24人である。報道によると、巡行見学に集まった人は20万人であるが、前日の宵山には47万人が集まったという。
 1100余年の歴史をもつ祇園祭は、昨秋ユネスコの無形文化遺産に認定されたが、これの維持・継承は地元町内の肩に懸かっている。「時を越えて・祇園祭」の伝統の美を実感できた一日であった。