平成20年11月度ホームページ投稿項目

2008-10-30 18:37:56 | 琵琶湖疏水

 ホームページ(http://www.geocities.jp/biwako_sosui/)の11月分として下記5件を投稿しましたので、お立ち寄りください。

314話 分類 文化・芸術石額・第9項(F-02-09)
      題目 琵琶湖疏水に掲げられた扁額(3)
      要旨 英文字石額・第二疏水石額・洞門意匠
315話 分類 技術・技術全般・第31項(C-03-31)
      題目 東本願寺修復の瓦の話題
      要旨 東本願寺修復作業の見学記(瓦について)
316話 分類 散歩道・山科疏水・第35項(B-02-35)
      題目 ウオーキングラリーに参加(山科商店会主催)
      要旨 山科疏水散策時に聴取した新しい話題
317話 分類 散歩道・旧東海道・第6項(B-08-06)
      題目 平成20年度・車石散策会に参加(1)
      要旨 2008年度車石研究会シンポジウムと散策会の要旨
318話 分類 散歩道・旧東海道・第7項(B-08-07)
      題目 平成20年度・車石散策会に参加(2)
      要旨 2008年度車石散策会の要旨


2008年時代祭見学記

2008-10-26 16:24:12 | 歴史と散策

 今年の4月より来年末まで、14回シリーズで「時代祭展」が岡崎みやこめっせで開催されており、第1回の明治維新時代から第5回の安土桃山時代―1(織田氏上洛列)が終わった時点で10月22日に2008年時代祭を迎えた。
 京都三大祭の「祇園祭」と「葵祭」は平安時代からの歴史があるが、「時代祭」は平安遷都1100年を記念して、明治28年(1895)に平安神宮創建とともに奉祝行事として始められた新しいもので、今年は途中10回の中止をはさんで104回目の時代祭であった。当初は500人規模の行列であったが、年々規模が大きくなり、今年は2000人の行列となった。
 私は、「時代祭展」で行列の最初の部分を勉強してあったので、混雑度の少ない三条通で行列が到着する30分くらい前に到着したが、京都御所を12時に出発した行列は途中から小雨模様となり、行列が到着した14時には本格的な小雨の中の見学となった。

 今年の11月にマカオで開催される「ミスインターナショナル世界大会」のために来日していた各国代表が、賛否両論の中で参加が決まり、約60名が民族衣装で最前列に参加した写真が夕刊を飾ったが、雨のため途中で取り止めとなり、三条通に来たときは着物姿の6名が横断幕を掲げて最前列を行進した。そのあと明治の馬車に乗った烏帽子姿の人物二人が続いたが、見物人が京都市の正副市会議長であると教えてくれた。
       
   レインコートを着用したミスインター外人候補  明治の馬車に乗った京都市正副市会義長

 最初の列は「維新勤王隊列」で、維新に際し幕臣が東北地方で反乱したとき、丹波の有志が山国隊を組織し、官軍に加勢したときの衣装が採用され、楽士(笛)のピ-ヒャラ・ラッタッタの音色と勇ましい鉄砲隊の行列に元気付けられた。
 続く隊列は「維新志士列」で、名前は確認できなかったが、橋本佐内・姉小路公知・吉田松陰・高杉晋作・坂本龍馬・西郷隆盛ら維新の志士が一人ずつ小さい名札とともに行列し、藁蓑をつけた志士(真木和泉・久坂玄瑞)や七卿(三条実美ら七名)がつづいた。
 江戸時代列―1は「徳川城使上洛列」で、将軍の名代として大名を派遣したが、その服装・器具は豪華を極めた。江戸時代列―2は「江戸時代婦人列」で、皇女和宮ら6名の行列がつづいた。
       
     時代祭でも最大の行列となる徳川上洛列   皇女和宮・輿入れ前の宮廷内のお姿

 「安土桃山時代―1」は豊公参朝列で、天下統一を果した秀吉が最高様式の牛車に乗っており、「安土桃山時代―2」は織田公上洛列で、馬上姿の織田信長が姿を見せている。
       
     秀吉は牛車の中として行列には姿なし     京の粟田口に到着した馬上の織田信長

 私が事前に見学した「時代祭展」はここまでであるが、昨年の時代祭に比べてかなり詳しく見学をすることができた。登場人物の姿が、歴史本や映画の姿と一致しないことが多く、行進に耐えられない老人の姿が多いことが気になった。報道によると、学生の参加希望者が減少し、要員確保に苦労したようである。見学する立場からみても2000人の行列は多過ぎるし、名称を示す布旗も風に揺れて見えにくく、大きい活字の板にして、理解し易い行列にしてほしいと思う。
               


京都学生祭典(岡崎)を見学

2008-10-22 18:48:50 | その他
 毎年10月上旬に京都市で開催されている祭で、昨年につづき見学させていただいた。この祭の歴史を紹介すると、平成12年(2000)に財団法人・大学コンソーシアム京都が主催して実施された学生フェスティバルが原点で、平成15年(2003)の第一回京都学生祭典へと発展し、今年で第六回目となる。
 この過程で、第三回から創作オリジナル「京炎そでふれ!」、第四回から2日間・2会場開催、第五回では創作みこし「京炎みこし」が製作され、今年は京都駅前と岡崎平安神宮前の2会場で、延べ22万4千人(事務局発表)という驚異的な参加者となった。
 実行委員長の村井杏侑美さん(同志社大学3回生)によると、“この祭は学生だけの祭でなく学生がプロデュースする市民の祭にしたい”と意気込むだけあって、盛り沢山の企画で、岡崎文化ゾーンは演技者と見学者で埋め尽くされた。
  
    
 配布資料によると、「京炎そでふれ!全国おどりコンテスト」には大学生の部(55団体)、一般の部(43団体)、中学・高校生の部(11団体)、小学生以下の部(35団体)が、11時から17時半まで総額100萬円の賞金を目指して野外競演し、80団体が飲食ブースを出店し、「みやこめっせ」3Fでは科学ゾーン・芸術ゾーン・社会ゾーン・歴史ゾーンに43団体が出店し、京都会館では学生映画祭や上方演芸会が同時開演された。
 今年は天気に恵まれ、イベントは大成功に終わったが、主催された事務局に敬意を表するとともに、来年の祭典を楽しみにしている。

私が一番好きな画家・シスレー(その2)

2008-10-17 16:19:29 | 美術と文芸

    前報(08-09-25付)の末尾に、最近「作品社」から発刊された「シスレー」を早く読みたいと書いたところ、京都府立図書館にあると聞き閲覧させていただいた。この本の著者レイモン・コニア(明治29年[1896]生まれ)は、フランスを代表する美術評論家で、印象派および後期印象派のすぐれた評論家であり、欧州で発刊された初版は1968(昭和46年)であったが、日本では翻訳されていなかった。
  今回日本で発行された翻訳本は、B5サイズで絵画100点を含めて190ページの本で、この中に翻訳者作田清氏の解説が50ページ含まれており、原作は140ページの小型の冊子であったと想像される。読後感としては、私のような美術の世界に疎いものにとってきわめて理解しやすい表現で翻訳されており、解説もわかりやすく、一気に読ませていただいた。
                 
               私が美術館や展覧会で集めたシスレーの絵葉書の一部

 京都周辺で、シスレーの解説書として閲読可能な本は少なく、私自身が所有する幾つかの美術全集にも印象派画家群の中の一人として紹介されているに過ぎないが、今回のレイモン・コニアの著書が、その後のシスレー紹介のオリジナルになっているように感じた。
   昭和51年(1976)に小学館から発行された「世界の美術」第7巻・印象派の巨匠たち「アルフレッド・シスレ」著者(フランソア・ドールド)翻訳者(松本芳夫)、A3版の大型冊子が近くの山科図書館にあるので、よく覗きにいくが、この本は1000点に達するシスレー生涯の作品リストを紹介している。シスレーは孤独な人で比較的話題の少ない生涯を送っているので、今後はこの2冊を繰り返し読み、機会があれば展覧会で実物を楽しみたいと思っている。
   今回のレイモン・コニアの翻訳本で、晩年のシスレーの生活が詳しく表現されているので、その一部を紹介する。
 シスレーは貧困の限界で生活をつづけたが、製作と美術展への出展を止めなかった。しかしその運命を変えることはできなかった。この過程で彼の妻は1898年10月に病没し、シスレーは喉頭がガンで1899年1月妻の死を追うように亡くなった。
 その2ヶ月後の3月にニューヨークで彼の絵28点が展示され、27点が総額11万2320フランが売れた。1876年の作品「マルリーの洪水」が当時として破格の4万3000フランの値がついたという。死後すぐあとに市場で評価されたのである。
 フランソア・ドールドの作品総目録によると、総作品(約1000点)中、風景画以外の作品は…静物画9点、人物画2点、室内画2点であり、風景画の中の人物は人間としてではなく風景の付属物として小さく描いている。屋外の風景画に徹した不器用で生前恵まれなかった画家の絵を今後とも楽しみたい。 


滋賀・日野町にある「日野ダリア園」の見学記

2008-10-10 14:40:38 | 植物と動物

  過去に薔薇(バラ)や牡丹(ボタン)の見学の頻度は多かったが、ダリアの集団美を楽しむ機会が無かった。今回、滋賀県の日野商人や日野菜で知られている日野町にダリア園が存在することを知ったので、家族で訪問することになった。JR琵琶湖線(山科~草津)、JR草津線(草津~貴生川)、近江鉄道(貴生川~日野)、近江バス(日野~鎌掛)と乗り継ぎ、2時間かかったが、久しぶりのローカル線と途中の地元の人による親切な対応で充分に楽しい旅であった。
 花の郷・日野ダリア園は、約1万平方メートルの休耕田を利用して、平成14年(2002)にNPO法人として開園しており、現在100種類・1万本のダリアが植栽されている。
 花径30cm以上の巨大輪を含む大型輪のゾーン、中型輪・小型輪のゾーン、切花用のゾーンに別れており、休憩小屋も整備されていて、花に囲まれて弁当をいただき、巨大輪の美しさと珍しい品種に圧倒された晴天の一日であった。
    
        ダリア園の全景            大空に伸びた巨大輪のダリア

 ダリアの原産地は、メキシコ・グアテマラ・コロンビアなど標高1000m以上の冷涼地帯で、16世紀にスペイン人によって欧州に伝わり、英国を中心に人気を集め、オランダ船で江戸時代に日本に伝えられた。日本でも明治時代にダリアブームが起こったが、変異を起こし易い植物なので、20世紀半ばには世界で3万種のダリアが存在したという。
 ダリアの和名は、花の形が牡丹に似ているので、天竺牡丹と呼ばれている。キク科の球根植物で、花の色が鮮やか過ぎて毒草と間違えられたが、メキシコでは昔から食用にされており、欧州でも食用作物として栽培が始まっているようである。

 参考までに全国のダリアの名所を調べてみたが、北海道から九州にかけて19ヶ所が摘出された。この中から代表的なダリア名所の10ヶ所(次表)を摘出してみた。
   名称           場所       品種     株または本     
秋田国際ダリア園      秋田県秋田市   700種   7000株
世界ダリア園          秋田県湯沢市   400種   4000株
川西ダリア園          山形県川西町   650種   50000本
湯遊ランドはなわダリア園 福島県塙町     300種   5500株
大野ダリア園          栃木県那須烏山町 100種   6000株
町田ダリア園          東京都町田市   500種   4000株
山梨フラワーセンター    山梨県北杜市   400種   4000株
なばなの里          三重県桑名市   200種   52000本
日野ダリア園         滋賀県日野町    100種   10000本
佐曾利ダリア園       兵庫県宝塚市    200種   18000株

 関西以西のダリア園は上表の下3ヶ所以外に、世羅高原農場(広島県)、のこのしまアイランドパーク(福岡県)、ハウステンボス(長崎県)、フラワーヒル菊池高原(熊本県)が存在する。
 日野ダリア園には、牡丹・芍薬苑・クレマチス・あじさい・いちごも栽培されており、近くの正法寺の藤棚や天然記念物指定の石楠花渓などの名所もあり、四季を通じて楽しめるところである。来春にはもう一度訪問したいと思っている。


東本願寺・御影堂修復工事を見学

2008-10-07 18:50:13 | 歴史と散策

  真宗大谷派(東本願寺)では、2011年にお迎えする宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の特別記念事業として、真宗本廟両堂(御影堂と阿弥陀堂)等御修復に着手し、現在は御影堂の修復が2008年末の工事完了に向けて進められている。
  10月04日、「かっぱ研究会」主催のイベントに参加し、御影堂修復工事を見学する機会を得た。案内していただいた東本願寺宗務所の延澤栄賢さんから、予定時間をオーバーする熱心な説明をしていただき、その壮大な作業に驚くとともに深い感銘を受けた。

  現在の御影堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、正面76m、側面58m、高さ38m、瓦175,000枚、畳927枚、柱90本の世界最大級の木造建築物であり、2004年3月着工され、本年末完工予定の世紀の大修復作業である。
  東本願寺は、過去に4回の火災に遭い、とくに安政の大火(1858)と蛤御門の変(1864)により全焼に近い被害を受けたので、明治13年(1880)~明治28年(1895)の工期で再建されたのが現在の姿である。その工事期間は、琵琶湖疏水の工事期間の明治18年(1885)~明治23年(1890)と重なるが、東本願寺の再建費用は琵琶湖疏水よりも大きく越えたといわれている。今回の修復工事費用も101億円と記載(配布資料)されている。
 
 ここで、見学記を短い文章で紹介するのは難しいので一枚の写真の紹介にとどめ、細部は東本願寺の下記ホームページ内の「御蔭堂後修復日記」に2007年7月~2008年10月(現在)の経過が写真入りで説明されているので是非見ていただきたい。
http://www.higashihonganji.jp/nikki/nikki.html
 
                           
 東本願寺の修復作業は最新の近代技術を駆使して進められており、大地震にも耐えられるよう設計されているが、過去に大きい災害がなく世界遺産の認定された西本願寺では、伝統技術の採用をメインに進められていると聞く。
 御蔭堂修復が終わったら阿弥陀堂の修復に移るが、御陰堂の外側を囲った工事用建屋はそのまま左にスライドし、少し小型の阿弥陀堂を囲うことになる。御蔭堂の各所には新鋭の避雷線が張り巡っており、琵琶湖疏水から引いた本願寺水道も水圧の低下で、不足分を地下水で補っているという。東本願寺の防災対策はすばらしいが、木造主体の京都文化財の災害対策への参考となることを期待する。


美味しい「山科なす」の紹介

2008-10-01 12:19:33 | 植物と動物

 山科に移り住んで約8年を経過したが、今回初めて「山科なす」を試食する機会を得た。
  先月、竹鼻の山科別院(真宗大谷派長幅寺)で、山科駅前再開発事業十周年を記念して山科商店街主催の講演会があり、題名に興味があったので出席した。
  講演の議題は「山科なすを知る」と「中世の山科七卿と自治の伝統」で、何れも満足できる内容であり、帰りにお土産として「山科なす」5ヶをいただいた。
  期待と興味を持って好物のゴマ油味噌炒めにしていただいたが、想像以上の旨味があり驚いたので、講演の内容に若干の手持ちの情報を加えて、「山科なす」の現状を紹介する。

                   
 昭和18年(2006)11月9日の京都新聞に「京野菜復活への軌跡」と題した全面記事があるが、この中で「京野菜」は、…海が遠い京では、食生活は菜食が中心だった。さらに寺社を中心に精進料理や懐石料理が発達し、京では質の高い野菜の需要が高かった。…と説明し、京の伝統野菜として40種に近い京都独自の品種が育っていった。
 ところが、戦後は病気に強く収量の多い品種への転換が進み、80年代半ばには多くが絶滅寸前の状態になった。そこで必死の宣伝活動を進めた結果、80年代後半のグルメブームに乗り、東京進出の成功もあり、売り上げも大幅に上昇した。しかしながら、他府県が京野菜の量産を計るところが出てきて京都産を脅かす状況になった。

 「山科なす」は京都の山科区中心に栽培され、昭和初期までは京都で「なす」といえば「山科なす」を指すほどであったが、果皮が薄く傷つきやすく栽培が難しいことから市場が減少してきたが、京都府では府農業資源研究センター(精華朝)が府農業総合研究所(亀岡市)と協力して品質・収量面からの改良研究を進め、平成8年(1996)に「京山科なす」の復活に成功した。