平成20年1月紹介予定のホームページの紹介

2007-12-31 19:11:44 | 琵琶湖疏水
 毎月平均5件の報告を実施しているが、来年1月度に予定している項目は下記5件である。新年度からこの方式で毎月紹介することにしたので、興味ある記事があればホームページ(http://www.geocities.jp/biwako_sosui/)を開いてほしい。

264話・・・分類:技術①建設工事12項(C―1-12)
       題名:諸羽トンネル横にある造形物の由来が判明
       要旨:不思議なコンクリート造形物が第二疏水トンネル部品と判明
265話・・・分類:散歩道⑥疏水分線20項(B―6―20)
       題名:紫明通と堀川通の中央分離帯が公園に
       要旨:疏水の水が堀川につながる工事の進行状況の紹介
266話・・・分類:雑件①京都の歴史08項(G―1―08)
       題目:二ヶ所で開催された赤穂義士祭を見学
       要旨:山科の瑞光院と岡崎の本妙寺の義士祭を見学
267話・・・分類:全般②琵琶湖関連15項(A-2-15)
       題目:堅田にある湖族の郷資料館を見学
       要旨:琵琶湖および疏水の和船の話題について紹介
268話・・・分類:散歩道④鴨東運河09項(B―4-09)
       題目:鴨東運河の歴史散策(3)六勝寺跡の散策
       要旨:平安時代後期に院政の拠点として栄えた岡崎地区の紹介

琵琶湖の堅田湖畔を散策

2007-12-24 20:29:53 | 歴史と散策

 12月18日、初めて湖西線堅田駅を下車し湖畔を散策した。季節柄旅人の姿は無く、地元の人影も少なかったが、出会った人の歓迎している気持ちに触れ、かつ親切な対応のお陰で充実した楽しい半日を過ごすことができた。
 今回の主たる目的は、杢兵衛造船所や松井造船所のある堅田の湖畔を歩くことと「湖族の郷資料館」の訪問にあったが、舟関係の話はホームページで別途紹介することとし、ここでは初めて歩いた堅田の町の印象を中心にまとめてみた。

 堅田駅前の観光案内所で資料とコースを教えていただき、往路を歩き帰路を循環バス利用と決めた。駅前にある「湖族の郷モニュメント青年の像」前の広い道を琵琶湖に向かって進むと、堅田内湖に架かる「内湖大橋」があり、ちょうど開催中の「第3回湖族の郷アートプロジェクト」の一つであるポリビン利用のカラフルな装飾の出迎えを受けた。これは、近くの成安造形大学が主催しているアートの一つで、あちこちで珍しい造形物に出会った。また、堅田内湖ではイケチョウガイを用いた淡水真珠の養殖場となっていた。
          
   内湖大橋上のモニュメント        淡水真珠の養殖場
 樹齢およそ300年といわれる黒松のある福聚院前にある漁業会館の周囲一帯が堅田漁港であり、漁船の数に驚かされた。
           
   門の左手に黒松のある福聚院       堅田漁港の全景
 堅田の地は、中世の時代に堅田衆(湖族)によって琵琶湖最大の自治都市が築かれ繁榮したところであり、多くの寺社や史跡が存在している。福聚院前から湖岸に並行して浮御堂に進む道は「落雁の道」と呼ばれ、歴史の重みを感じる古道であった。
 十六夜公園に入ると、カモメが乱舞する湖畔があり、南に「浮御堂」の姿が見えた。
     
      琵琶湖大橋の前を乱舞するカモメ       逆光で写した浮御堂と虚子の句碑

 地元の人に聞くとこの場所は白鳥も飛来するところで、望遠鏡で探してもらったが残念ながら見学できなかった。
このあと、「湖族の郷資料館」を訪ね、館長さんから詳しい解説をしていただいた。ここでは念願であった松井三四郎氏作成の舟のミニチャを見学することができ、堅田に触れた文学者の本や、堅田を愛した芭蕉の句碑、堅田出身の有名人の足跡、堅田の歴史年表、湖族が愛用した道具や用具類など貴重な知見を得ることができた。
 資料館前からバスに乗り、旧北陸街道を通って駅に戻って「こはち」という名の和食屋で昼食をとった。今回は約3時間半の散策であったが、狭い地域に歴史が詰まっており季節を変えて訪問し、そして、琵琶湖の水運の歴史についても調べてみたいと思った。
                                  以上


赤穂浪士ゆかりの寺社が京都各地に

2007-12-21 00:22:01 | 歴史と散策

12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした日で、全国各地で記念行事が行なわれているが、京都にも赤穂浪士ゆかりの寺社が多く残っている。この中で、琵琶湖疏水の散策道の近くに存在する寺社について紹介する。
1)瑞光院(山科区安朱堂ノ後町)
 山科疏水に架かる安朱橋を渡って毘沙門堂に向かう途中に存在する臨済宗大徳寺派の寺で、堀川通と紫明通の交差するところにある大日本スクリーン本社敷地内に存在していたが、昭和37年にこの地に移ってきた。この寺院が主君浅野家の祈願寺であったので、大石内蔵助が切腹した浅野匠頭の衣冠をここに埋めて墓を建て、切腹した46人の浪士の遺髪を納めた石塔とともに現存している。
 毎年12月14日には供養祭が営まれ、近くの毘沙門堂を出発した義士隊が瑞光院の前を行進して大石神社に向かっている。
                                                          
瑞光院にある墓前で行なわれた供養祭   毘沙門堂を出発する義士隊の行列

   山科には、岩屋寺、大石神社、花山稲荷など大石内蔵助ゆかりの寺社が多く、数百人規模の義士隊の行列は広く知られた祭となっている。

2)本妙寺(左京区仁王門通東大路東入北門前町)
 仁王門通に並行して流れる鴨東運河は直角に曲がって行くが、曲がらずに直進して東大路通に突き当たる少し手前に存在する日蓮宗の寺院である。この寺院には浅野藩の御用商人錦屋善右衛門が建立した赤穂浪士の3義士と貝賀の妻の合祀碑が存在している。
    貝賀弥左衛門 行年54歳、中小姓・蔵奉行 十両三人扶持
    吉田忠左衛門 〃 64歳、足軽頭兼郡奉行 二百五十石
    吉田澤右衛門 〃 29歳、部屋住み
 この寺には、貝賀の子孫が寄贈した遺品を納めた義士堂があり、12月14日記念祭に一般公開している。
             
    義士祭の看板を立てた本妙寺門          貝賀一族の遺品を展示した義士堂

3)西方寺(左京区東大路二条下がる北門前町)
 東大路二条バス停前に存在する浄土宗の寺院で前項の本妙寺の近くにあり、十内の妻が建てた赤穂浪士の小野寺一族4名の墓が存在する。 
     小野寺十内    行年61歳 京都藩邸留守居  二百二十石
     小野寺幸右衛門  〃 28歳 部屋住み
     岡野金右衛門   〃 24歳 部屋住み
     大高源五     〃 32歳 中小姓近習・膳番  二十石五人扶持
 毎年12月14日に慰霊法要が行なわれ、予約すれば参観可能といわれる。

4)妙蓮寺(上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町)
 9系統バス停「堀川寺ノ内」下車西に少し入ったところで、現在工事中の疏水分線延長の「堀川せせらぎ第一公園」の西側に存在する本門法華宗の大本山である。ここは、赤穂浪士・片岡源右衛門の菩提寺で、本門法華宗の大本山である。ここは、赤穂浪士・片岡源右衛門の菩提寺で、四十六士の遺髪墓が存在する。
      片岡源右衛門  行年37歳 内証用人兼児小姓頭 三五〇石
 5年前の討ち入りから300年記念に、表面の剥がれた300年前の墓石を新調して話題となっている。

5)その他
 その他京都の各地には赤穂浪士ゆかりの地として、真言宗泉涌寺の塔頭「来迎院」、三十三間堂前の「法住寺」、丸山公園奥の「安養寺」など大石内蔵助ゆかりの寺院が存在する。
 今回紹介した瑞光院、本妙寺、妙蓮寺については、少し詳しく1月度のホームページで紹介する予定である。                       以上


真如堂で紅葉と路地の鉢菊を楽しむ

2007-12-13 22:49:55 | 植物と動物

 11月22日、岡崎の「みやこめっせ」で日本盆栽大観展を見学したあと、平安神宮裏の丸田町通の東端(白川通に突き当たる)近くにある岡崎別院と岡崎神社の間の小道を通って、金戎光明寺の境内を抜け真如堂に向かった。久し振りに訪れた真如堂は、京都有数の紅葉の名所として大勢の観光客で賑わい、期待通りの美しさであったが、今回は菊の話題を紹介する。
 本堂に向かって進むゆるやかな坂のすぐ右手の奥に、真如堂塔頭「吉祥院」の建物を利用したコーヒー・紅茶店「かふぇ水琴窟」がある。小さい案内板にしたがって中に入ると、畳敷きの広間に案内され、コーヒーや紅茶をいただきながら他の観光客とともに窓越しに紅葉を楽しむことができる。
 この店は京都新聞(07-11-06)の紹介によると、吉祥院副住職が京都市内の障害者地域活動支援センター4ヶ所に呼び掛け、障害者や施設のスタッフが運営している店であり、今年で3回目を迎え、11月12日から30日(11:30~15:30)の季節限定の開店をしている。私が嬉しかったのは、周辺の狭い空間を利用した菊の展示であった。
  


  
 今年の菊は、二条城・勧修寺・府立植物園などの規格化された集団の競演展示を楽しんだが、今回は個人が育てたと思われる野生に近い集団の美を楽しむことができた。とくに、古典菊と題して「嵯峨菊(京都)・伊勢菊(三重)・肥後菊(熊本)・江戸菊(東京)の4種は簾(すだれ)の前で競演する姿がすばらしかった。
 吉祥院副住職の竹内純照さんは、仏教と医療を考える全国連絡協議会を立ち上げるなど福祉問題で幅広く活躍しており、苦沙彌のペンネームで真如堂の紹介をつづけている方である。また、店の名前である水琴窟は庭の片隅にあり、真如堂と書かれた軒丸瓦に水をかけると、やさしい音色を楽しむ工夫がしてある。
 また、琵琶湖疏水の設計・建設に活躍された田邊朔朗氏の功績をたたえて、灌漑用水で潤った白川村民から贈られた石燈篭が、境内元三大使堂の前にあるそうだが、次回には確認したいと思っている。


三十年近く経過した我が家の「モンステラ」

2007-12-09 20:32:29 | 植物と動物

 この植物が我が家にやってきたのは、私が初めて自宅を建設した昭和50年(1975)頃であり、義姉が観葉植物の小鉢を抱えてやってきて、その名を知ったと記憶している。そして、他の観葉植物と一緒に食堂の北向きの出窓に置いて、定期的に水遣りをして、約25年間経過した。しかし、斜めに茎が少し伸びた状態で成長がほとんど止まっており、枯れることなく存在感もなく、名前も忘れていた。 
  そして平成11年(1999)に近くのマンションに移住することになり、モンステラの鉢はマンションのベランダに移動し、冬季には室内で育てることになった。ところが、眠っていたモンステラの葉が急に大きくなり、太い茎部が伸びてきたので、茎の節部で根の生えているところをカットし、直径20cmくらいの大きい鉢2つに分けた。新しく挿し芽した鉢が数年でさらに大きく育ったので、直径40cmの大鉢に植え替えた結果、2年後には葉の長径が80cmくらいとなり、現在の葉の広がりは畳半畳くらいに育った。

 
  私は観葉植物の育成についてはまったくの素人で、専門家の立場から見れば当たり前のことと思うが、初めて観察を続けると不思議なことに気がついた。12月に入って冬場は成長を止めて休んでいると思っていたモンステラの新芽がでた。そして新葉についている丸い穴の数や位置が親葉と異なっていた。
 
 
通常、同じ茎から出る葉は同じ遺伝子にもとづき同じものと思っていたが、よく観察すると一枚ごとに穴の位置と数が異なっていた。
 
また、一度に多く水を与えると、葉の先端から水を垂らすことも観察した。モンステラはサトイモ科に属しており、大きい根から水分を吸収する力が強いので、葉の吸収力と葉からの蒸散力を超えて水滴となって落ちると想像される。 
  さらに想像を重ねると、葉に切れ込みや丸穴があるのは、葉から水分の蒸散速度を高める目的で蒸散面積を増やし、風通しをよくする目的ではないかと考えた。モンステラの語源がラテン語のモンステラム(お化け、怪物)と書いてあるが、不思議なことの多い植物である。京都府立植物園の観覧温室で育っている数メートル高さのモンステラを観ると、水や肥料を控えて生育を抑える必要がありそうだ。しかし、モンステラには花と実が出来るのでそれを観るまで生育させたい気持もある。今後私の寿命を越えることは間違いない「モンステラ」の鉢の由来を振り返ると、この三十年に起った多くのことを思い出すこのごろである。


一燈園近くの疏水沿いにある構造物の謎

2007-12-04 20:31:33 | 琵琶湖疏水

山科疏水の一燈園横にある四ノ宮舟溜(池)の西端から一直線に諸羽トンネルを抜けて水路が進んでいるが、湖西線工事のため昭和45年(1970)に諸羽トンネルが完成するまでは、現在散歩道となっている迂回道路が水路であったことはよく知られている。

 この散歩道はジョギングコースとなっており、100mの指標を少し進むと左側に四角屋根の建物のある見晴らし広場があるが、その反対側の山裾に写真のような巨大な鉄筋コンクリート構造物(外径5.4m、高さ2.4m、奥行1.8m)が存在している。

 

 約8年前までは藤尾に住み、現在四ノ宮の近くに住んでいる私にとって、山科疏水の散歩道を歩いた頻度は数え切れないが、なぜこの位置に巨大な構造物が存在するか疑問に思って疏水仲間に尋ねても回答は得られなかった。4年前にホームページを開設してから2回にわたりこの構造物を取り上げ、今年の5月に山科アスニーで「琵琶湖疏水の散歩道」と題した講演をしたときにも、皆さんに問いかけた。また、琵琶湖疏水記念館の井垣館長にも調査を依頼した。

 ところが、11月29日に記念館を訪ねた時、館長から朗報があった。水道局の諸先輩に尋ねた結果、あの構造物は「第二疏水」のトンネル間をつなぐ水路の天井部品(設置後埋め戻すオープンカット方式)の見本であることが判明したとの報告である。なぜこの位置にあるかなど詳細考察については来年1月の私のホームページで紹介する予定であるが、今から90余年前の明治44年(1911)の第二疏水建設工事当時、鉄筋コンクリートは最新技術の一つであり、数少ない「第二疏水の建設部品」の遺物として後世に伝えていきたいと思う。  

 


米国フィラデルフィア美術館の名画に再会 

2007-12-01 12:15:51 | 美術と文芸

 平成2年(1990)9月と11月に、米国フィラデルフィア市にビジネス交渉のため訪ねる機会を得た。フィラデルフィアはニューヨークのすぐ南にある都市で、米国の独立記念施設のあるところとして有名であるが、私にとっては印象派の絵画の収集で有名な「フィラデルフィア美術館」の見学のチャンスを期待した。しかし1回目は時間がとれず2回目の訪問時に約1時間ではあったが見学することができた。
 この美術館の建物は、明治9年(1876)に米国独立百周年を記念して開催されたアメリカ初の万国博覧会の開催時に建設されたメモリアルホールを利用した巨大美術館であり、写真(絵葉書)に示すようにギリシャ建築を模した建物で、地下1階、地上2階に国別、時代別、作家別にバランスよく展示され、印象派画家の作者別展示室に焦点をあてて鑑賞した。このときの感激は今も忘れることはない。


 
 

第2回目のチャンスが今年の7月にやってきた。「フィラデルフィア美術館展」が地元の京都市美術館で開催されたのである。この展覧会には「印象派と20世紀の美術」という副題がついており、

(1)     写実主義と近代市民生活(18551890)・・・・・・・・・・08点
(2)   印象派とポスト印象派―光から造形へ・・・・・・・・・・・23点
(3)      キュービズムとエコール・ド・パリ―20世紀美術の展開・・27点
(4) シュルレアリズムと夢―不可視の風景・・・・・・・・・・・・04点
(5)      アメリカ美術―大衆と個のイメージ・・・・・・・・・・・・15点

の順に47作家・77点の絵画が展示され、西洋近代美術史の流れをゆっくり鑑賞することができた。私の絵画鑑賞の趣味は、「有機中間体」という新規商品を抱えてビジネス担当と技術担当が組んで、1~2ヶ月かけて世界を駆け巡る旅を繰り返したときに相棒の趣味に引きずられて育ったもので、休養日を利用して世界の主要美術館を訪ねることができたのである。退職後も美術館通いをつづけているが、今回の「フィラデルフィア美術館展」は私にとって最高の機会の一つであったと思っている。

 
最後にもう一つフィラデルフィアの思い出を追加したい。交渉が成立した夜、市内にある日本レストラン「明治苑」で本格的な牛肉の鉄板焼をいただいたが、応対してくれた外人のシェフが鉄板の上で両手に持った調理道具を見事に操った姿を17年経った今でも鮮明に覚えている。