ブログ255「かんかんぼう(閑々坊)」という名前の由来(その2)

2013-03-12 02:46:02 | その他

 「かんかんぼう(閑々坊)」という名前の由来(その2)

1)まえがき

 私が化学系会社を72歳で正式に退職したのが平成12(2000)年6月であったが、原稿の活字化や印刷は秘書部の担当であったので、最初に取り組んだのが「パソコン機器一式」の購入で、自分でワープロを打てる体制の確立であった。平成13(2001)年頃から琵琶湖疏水周辺の散策を開始し、その結果をパソコンで文章化して記録を蓄積し、平成15(2003)年にまとめて「琵琶湖疏水の散歩道」と題した冊子を500部作成し、京都新聞出版センターから発刊した。この3年間は充実した時期で、高齢という意識は全く無かった。幸いにも近隣にパソコンのハードに強い息子一家やソフトに強い娘一家が居て、立ち上げの指導

をしてもらった。当時、琵琶湖疏水を歩いて楽しむという発想が珍しい時期で、話題性も大きかったが、アドレスとして採用したkankanbowの名前に関する質問が多かった。

 一方、私自身もホームページ投稿としては少し重く感じる原稿も増えてきたので、平成19(2007)年秋にホームページと並行してブログを開設し、その第1号に下表(要旨)を投稿している。

 

平成19(2007)年11月28日投稿 (ブログ001)

「かんかんぼう」という名前の由来(その1)

自己紹介を兼ねて掲題の小文を作成した。一般に「カンカン帽」というと、明治末から昭和初期に大流行した帽子(紳士が外出するときに着用するストローハット)を想像するが、私のカンカンボウ(kankanbow)は、旧制中学後半から旧制高校にかけて俳句を作っていた時の「閑々坊」という俳号に由来する。「閑々坊」とは、毎日が暇で困っている退屈な人という意味ではなく、多忙な中でも余暇を見付けて楽しむことを忘れてはいけないことを意味したものであった。
 太平洋戦争の末期に徴兵リスクを避けて技術将校の道を進むため、考古学者になる夢を捨てて旧制高校で理科甲類を選び、終戦後になって大学では化学の分野を専攻して化学系企業に就職し、約50年間を研究開発一筋に過した。70歳を超えて退職し、迷いなく全く遠ざかっていた地理・歴史・環境・園芸などの世界で趣味の道を探して第二の人生を楽しむことにした。選んだ道は大津市と京都市に関係する「琵琶湖疏水」というテーマであった。
 退職後約7年を経過したが、その間に「琵琶湖疏水の散歩道」と題した冊子を京都新聞出版センターから刊行(2003年春)させていただいた。同年秋には「琵琶湖疏水を語る部屋」と題したホームページを開設した。いつしかボランティア活動のつもりでスタートした趣味の世界が多忙となり、「閑々坊」では無くなって来た。この時にメールアドレスとホームページにハンドルネームとして採用したのがkankanbowの呼称である。  

この間ホームページの投稿件数は順調に増加したが、私が興味を持つ分野はもっと範囲が広いので、気楽に取り組める「ブログ」を「ホームページ」に並行して開設(平成19(2007)年秋)した。

     

 

   2)山科区役所主催の山科魅力発信プラットフォームの全員集会に参加して

 「琵琶湖疏水」というテーマに取り組んでから、多くの団体や個人愛好者との交流が進んだが、浅く広い課題であり、地元の山科地区との交流は一番最後となった。山科地区との交流の最初は、京都橘大学の織田直文教授が主導する「山科盆地景観研究会」に途中参加して、メンバーの一人であった土山年雄さんが主導する「やましなを語りつぐ会」に加入するキッカケとなった。その中で私自身の紹介は“本名”が中心となり、“kankanbow”というハンドルネームを知っている人は限定されていた。

山科区役所がスタートさせた「山科魅力発信プラットフォーム」への途中参加も最近のことであった。今回の全員集会にも多くの知人が参加していたが、私が胸に下げた名札「閑々坊」は、「やましなを語りつぐ会」所属の過半数が知らなかったようで、多くの人から名前の由来の質問を受けた。そして私自身も日常パソコンで私のホームページやブログを閲覧している人だけが知っている特殊呼称(kankanbow)であることに気付いた。

また、山科地区以外の人との交流は、私のホームページやブログの閲覧が最初のキッカケとなったケースが多いので、交流者から“kankanbowさん”ですね?と声をかけられることもよくあった。

山科地区には多くの歴史地理愛好者がおられ、代表的な団体としては「語りつぐ会」と「ふるさとの会」が特徴ある活動を推進しているが、相互の交流の場がきわめて少ない。一部の人が両方の会に加入されている。今回の区役所が主導する全員集会は、この両者の団体が交流する場として有用と考えられ、今後運営面でも充分に配慮してほしいと感じた。同時に今回の山科区役所の熱心は活動には心から敬意を表したい。

もう一つ付け加えると、H18(2006)年10月に発足した「語りつぐ会」は、H17(2005)年に発行された「モノクロームヤマシナ」の編集が契機に誕生し、京都橘大学の木下達文先生の指導下に支援組織として活動し、その成果として略称「京都山科・東西南北」誌が平成22(2010)年に発行されている。

私が「語りつぐ会」の例会で、新会員として紹介されたのが平成21(2011)年9月であり、「東西南北」編集に全くタッチしていない。最近になって「東西南北」誌を熟読してみて、うまく纏めてあることを改めて実感している。「山科魅力発信プラットフオーム」の活動には10年以上の歴史背景があることも再確認した。そして次回に発行される「東西南北]続編に向けて勉強し、協力したいと考えている。