京都国立博物館で「法然―生涯と美術」展を見学

2011-05-06 21:56:14 | 美術と文芸

 今年は、浄土宗の宗祖「法然」(800回忌)と浄土真宗の宗祖「親鸞」(750回忌)を偲ぶ50年に一度の遠忌が京都で開催されている。これに併せて京都国立博物館では、「法然―生涯と美術」展、京都市美術館では「親鸞―生涯とゆかりの名品」展が開催されている。

 京都新聞の報道(東日本大地震の前日)によると、遠忌法要の期間中に東本願寺・西本願寺・知恩院の3本山だけで全国から約80万人の信者と約12000台の貸し切りバスが京都を訪問すると推定している。私は4月下旬に国立博物館の法然展を見学したので、その要旨を紹介する。

   

    2011-04-21-4043  博物館の入り口にある巨大説明板      

 

 展示場の解説板で、浄土宗の宗祖・法然(11331212)の直筆記録が少ないのは、念仏に専念するという教えが修行を重んじる当時の仏教界からの反発で、弾圧され記録が末梢されたからと説明されていた。したがって今回の展示物は、残された弟子たちによって作成された国宝「法然上人絵伝48卷(知恩院蔵・全長584m)を軸にして、前半の「法然の生涯と思想」で法然の生涯を説明し、後半の「法然への報恩と念仏の継承」で、法然がなくなったあとの宗祖に対する信仰から生まれた美術を語る形に整理されて展示されていた。

内容が専門的なので難しかったが、絵巻に従って誕生から死までを追い、鎌倉時代の仏教界の流れの中で、法然がどのような生涯を辿ったかを、自分なりに理解することができた。そして、各地の法然ゆかりの寺院から集められた絵図や座像・立像などを対比しながら、法然上人の偉大さに触れることができた。

 

親鸞については、少し予備知識を持っていたので頭の中で対比しているが、今年の秋には東京国立博物館平成館(上野公園)で、鎌倉仏教の二大宗祖「法然と親鸞」の初の合同展が開催される予定である。現在京都新聞で五木寛之の小説「親鸞―激動編」が連載中であり、しばらくは浄土宗~浄土真宗の歴史を楽しみたいと思っている。


イザベラ・バードの旅の世界展を見学

2010-02-09 22:21:09 | 美術と文芸

 英国婦人イザベラ・バードが明治初期に来日して日本各地を流行し、「日本奥地紀行」を刊行したということは、冊子で読んだ記憶はあったが、詳細を知る機会がなかった。今回、京都大学の金坂清則教授がバードの旅の足跡をたどり、約20年かけて撮影した100点の写真とバードが残した記録を対比して発表する写真展が京都大学総合博物館で開催された。
                     

 バードは1826年(仁孝天皇・文政年間)に牧師の長女として生まれ、幼少時は病弱であったが、海外の世界にあこがれて22歳から70歳までの半世紀近く世界中を旅行し、その範囲は南米・南極を除く5大陸におよび、多くの旅行記を刊行している。
 死去したのが1904年(明治37年)であるが、日本を訪問したのは1878年(明治11年)47歳の時であった。この時期の日本は、西南戦争が終り大久保利通が暗殺され、伊藤博文は内務卿として政府の中心に登場したころである。
 バードの日本における旅程は、横浜を起点として鉄道が敷設されていない東北地方から北海道を旅行し、当時の日本の風俗・習慣・生活・環境などをくわしく観察し、とくに北海道のアイヌの紹介記事は貴重なものとなっている。北海道から船を利用して戻ったバードは、大阪・神戸・京都・奈良・伊勢と関西地方を回っている。今回の展示会では、京都同志社の新島襄宅(新築直後)訪問が紹介されてあった。

 バードの日本旅行記は、明治初年の庶民の生活ぶりを、外人の目から見た観察記であり、私にとって興味深い情報である。私が初めて海外(欧州)に出かけてカルチャーショックを受けたと同じように、バードの日本旅行は初めてのアジア旅行であり、その後朝鮮や支那を訪問して日本人・朝鮮人・支那人(当時の呼称)の比較を記事にしているが、きわめて鋭い観察力である。
                 
 英国人バードの目から日本人をみると、猫背・がに股・小人といった貧相に見えるが、女性一人旅で危険を感じたことは全く無く、支払い時にチップを要求されたことがないと驚いている。現在の日本人は背丈も高く、イケメンの若者が多いが、当時の日本人より背丈の高いアイヌ人や朝鮮人を評価する記述もあるようである。一方日本人の家族の結束や他人への親切心も評価している。
 バードは多くの著作・スケッチ・写真・記事を残しているが、バードを紹介する本も多く出版されている。機会を見つけてくわしく読みたいと思っている。なお、この写真展は3月28日まであるので見学していただきたい。

 


「武久夢二」生誕125年記念展を見学

2010-01-23 06:47:35 | 美術と文芸

   武久夢二は明治17年(1884)に生まれ、昭和9年(1934)に49歳で没しているが、大正時代に一番注目され話題になったので、大正ロマンの独自スタイルの美人画家として紹介されることが多い。今年は生誕125周年を迎えたので、京都高島屋で記念展が開催された。昭和4年生まれの私にとって、武久夢二は、画家というよりは挿絵や詩集、デザインなどもこなすマルチタレントで、大衆に視点を置いた近代グラフイック デザイン分野の草分けとして興味があり、夢二の詩「宵待ち草」が流行歌で有名になったので、機会あるたびに夢二展を覗いてきた。

                   
                  左が京都高島屋展、右が伊香保夢二記念館の案内

 私が最初に訪問したのは、岡山の後楽園外苑にある「夢二郷土美術館」で、平成元年4月のことである。夢二生誕100年を記念して昭和58年(1983)に開館した美術館で、夢二に関する知識の乏しい時期であったが、東京勤務時代に、文京区の東京大学と上野の不忍池の間にある弥生美術館に隣接して平成2年(1990)11月に開館した「武久夢二美術館」が出来てから、2回訪問した記憶があり、夢二の仕事の幅が広いことを知ったのもこの時期である。夢二の作品は多く残されているので、金沢湯涌夢二館、日光鬼怒川温泉の日光武久夢二美術館、群馬県の武久夢二伊香保記念館など各地にあるが、今回の高島屋の展示品は岡山の郷土美術館と群馬県の伊香保美術館から所蔵品を400点厳選したもので、伊香保には14000点のコレクションがあることも知った。
 昭和に入ってから長期の欧米旅行をしており、機会があればもっと詳しく知りたい画家である。


大津市歴史博物館で「道楽絵はがき」展を見学

2009-04-12 18:56:18 | 美術と文芸

 世の中には、思いがけないものを長年かけて蒐集している人がいる。趣味が昂じて道楽の域に達すると、家族は膨大なコレクションに困惑し、没後にその価値を知らずに処分される場合も多い。今回大津歴史博物館が取り上げた「道楽絵はがき(コレクターたちの粋な世界)」展は、大正・昭和時代の木版画年賀状交換会の絵はがきを中心に個人コレクターが集めた珍品の展示会で、極めて興味ある企画展であった。
 今回の企画展は、京都の製版業者の故・米谷徳太郎氏の絵はがきコレクション約4万点が、大津在住の遺族から平成18年(2006)に寄贈されたもので、その中から、コレクション趣味の仲間が木版画年賀状を交換し合う会を作って集めた年賀状に焦点を当てて展示されたものである。
     
  展示会の説明冊子の表紙   毎年木版画の年賀状を送ってくれる友人(長谷川さん)

   私も子供のころから物を集める趣味があり、先輩の忠告で小さいサイズのもの(切手・葉書・切符・マッチ・たばこなど)に焦点を当てて夢中になった時期があった。この趣味は、会社において研究者としての徹底した情報集めに役立ち、退職後も相変わらず集めた琵琶湖疏水の資料に埋もれて生活している。
   今回の作品展で、田中緑紅氏がコレクションの分野でも著名な方であることを知った。(上の冊子の表紙にある人面虎の年賀状は、田中緑紅氏が大正15年に発信したもの)
 田中緑紅氏は、明治・大正・昭和における京都市の歴史・風物史を緑紅叢書として発表しており、私も鴨川に架かる三条・五条大橋の改築の歴史についてはお世話になった。
                
 紙製品のコレクションについては切手を除いて評価されず、蒐集グループも「神九図之会(かみくずの会)」とか「我楽他宗(がらくた宗)」などを名乗っていた。しかし、“紙類蒐集家”でヤフー検索したところ、63,000件となり驚いた。
 先日、枚方の鍵屋資料館を訪ねたとき、「引札展」が開催されていた。引札とは商店が宣伝用に配った一枚刷りの広告のことで、明治時代の印刷技術の向上によって大阪中心に普及したものである。紙製品であるため保存されたものは少なかったが、ある商家の蔵からまとまって発見された。カラフルな広告は歴史資料として貴重との説明を受け、浮世絵調の美しい35枚の引札の展示を楽しんだことを思い出した。
 今回の大津市歴史博物館の企画展は従来話題にならなかった珍しいテーマを取り上げており、内容も含めて評価したい。


京都市美術館で竹内栖鳳展を見学

2009-03-13 15:33:31 | 美術と文芸

  私が東京勤務であった昭和62年(1987)、東京国立近代美術館で「京都の日本画1910-1930」と題した展覧会で約60人の画家と作品150点を見学する機会を得た。そして、京都画壇の大正期における近代絵画への取り組みに強い感激を覚え、購入した画集は今でも愛読書の一つとなっている。
  この画集の第一頁が竹内栖鳳の「絵になる最初」と題した婦人像であったが、今回久し振りに、この作品とその下絵を見学することができた。
             
 今回の京都市美術館所蔵品展には「画室の栖鳳」というサブタイトルがついており、作品約70点(下絵を含む)と写生帳から約30点という内容であった。
 日本画壇の頂点を極めたといわれる東の横山大観と西の竹内栖鳳の二人は、揃って第1回文化勲章を受章された方で、今回のように画室の中に入らないとわからない下絵や写生帳を併せて見学し、想像の世界を深く楽しむことができた。

 私の知識は表面的なもので、画伯の絵を論評するのは無理であるが、栖風の絵には沢山の動物が登場する。何れもその姿は動いている瞬間を描いており、迫ってくる思いがする。
 これらの動物の中には、うさぎ・猿・犬・猫・かもめ・あひる・しゃも・狐などの小動物のみでなく、熊・獅子(ライオン)などの大動物も登場する。小動物はすべて飼って動作を研究した。熊は動物園に通って写生した。得意とした獅子(ライオン)の絵には下記説明があった。
“明治33年(1900)パリ万博の見学を兼ねて渡欧したとき、アントワープ動物園で初めて獅子(ライオン)を実見した。興味をもった栖鳳は渡欧予定を3週間延長して、毎日スケッチをした。”帰国後に発表した一連の獅子絵は大きく評判を呼んだ。
  写生帳や下絵を見て驚いたが、下絵を何枚も重ね、一枚の絵に長時間かけていることがわかった。鴉(からす)の絵についても、あらゆる角度からその表情がスケッチされていた。納得できる表情が掴めるまで写生をつづけ、決して妥協しないから、緊迫感のある絵が描けることもわかった。また“栖鳳の動物画はその匂いまで表現されている”ということを実家することができた。
 今回の展示は2/26と3/08の2回見学したが、閉会の3月29日までにもう1回見学したいと思っている。

 


神戸らんぷミュージアム・とんぼ玉ミュージアム見学

2009-02-25 20:07:44 | 美術と文芸

   2月22日に所用で神戸にでかけ、かねてより注目していた二つの特色ある美術館を訪問してきたので、その要旨を報告する。
             
       神戸らんぷミュージアム         KOBE・とんぼ玉ミュージアム
1)神戸らんぷミュージアム訪問
 日本各地にランプの展示してある美術館があり、京都にも内外の石油ランプ蒐集を中心とした「京都祇園ランプ美術館」が存在するが、今回「神戸らんぷミュージアム」を見学した。資料によると、昭和63年(1988)に神戸の観光地・北野にあった「旧北野らんぷ博物館・赤木清士コレクション」を関西電力㈱が継承し、その後拡充して、平成11年(1999)に旧居留地内のクリエイトビルに開館した美術館である。 
 この美術館では、人とあかりの出会いコーナー(日本古来の発火方法)から始まり、動物や植物の油脂を用いた時代・江戸期に普及した和ろうそく・西洋からもたらされたランプ時代・石油ランプやガス燈に続く文明開化のあかり・電灯へと時代を追って800点の品(収蔵品は2300点)が整備展示されている。とくに嬉しかったのは、私が中学時代に夢中になった燐寸のレッテル展示があったことである。神戸在住の伯父からいただいた輸出用燐寸(マッチ)レッテルの動物シリーズの類似品が展示されていた。港町神戸にピッタリした美術館であった。

2)KOBE・とんぼ玉ミュージアム
 JR三ノ宮駅から歩いて10分の距離にあり、神戸らんぷミュージアムに隣接したビルにある。とんぼ玉とは孔の開いた玉のことで、模様のついたガラス玉をトンボの複眼に見立てて呼称されている。その歴史は古く、数千年前の古代エジプト時代に造られており、日本では、吉野ヶ里遺跡からエジプト伝来と想像されるトンボ玉が発見されている。正倉院の御物にも存在し、仏教美術と結びついて奈良時代から製造されたといわれている。
 震災10年を迎えた平成17年(2005)にオープンした新しい美術館で、貴重な古代ガラスの羽原コレクションが展示されており、とんぼ玉を中心としたガラス工芸品の歴史を楽しむことができる。また国内とんぼ玉作家12名の個性ある展覧が開催(第12回企画展示)が開催されていた。最近では単なるとんぼ玉ではなく、精巧な技法を加えて美術品と言いたい作品が提案されてきた。個別の鑑賞もよいが、小物の集団の美もすばらしく、魔法の国に迷い込んだ気分が味わえた。機会があれば再度訪問したいと思っている。

 


帝冠様式と呼ばれる京都市美術館

2009-02-13 16:42:42 | 美術と文芸

 去る1月17日、京都アスニーの「アスニー京都学講座」で京都市文化財保護課・石川祐一氏の2時間の講演「近代建築の見方」に出席し、近代建築の定義と歴史の概略を聴取する機会を得た。明治維新のあと海外の建築様式がどのように日本に導入され、建築材料の進化とともに展開したかについては、化学技術者出身の私にとって初めての講義で、きわめて興味深く楽しませていただいた。
 
  今回は、その中で昭和初期に展開された和洋折衷様式の「京都市美術館」について少し解説したい。昭和3年(1928)に昭和天皇の即位式が京都で挙行されたのを記念して、昭和8年(1933)に「大礼記念京都美術館」として開館したのが始まりで、大正15年(1926)設立の東京都美術館に次ぐ全国で2番目の公立美術館である。
 この建物は、全国から公募された設計案の中から東京の前田健二郎案が選ばれ、京都市設計課が若干修正して建設されたもので、明治維新後に導入された洋風建築(建物)と日本の伝統的な和風建築(瓦屋根)とを組み合わせた和洋折衷建築となっている。
                              正面左側から見た京都市美術館       正面中央右側から見た京都市美術館

 この建築様式を少し調べてみたら、「帝冠様式」と呼ばれるもので、昭和5年(1930)~昭和15年(1940)の短い期間に採用された建築様式である。太平洋戦争開始前の10年間で、国粋主義に猛進する日本で編み出された折衷様式といわれるが、その美しさを今に残している。岡崎公園内にある「京都市美術館別館」、四条河原町にある「南座」、大津市にある「旧琵琶湖ホテル」などもこの様式であり、私の生れた時代の建物として、これからも外観だけでなく内部まで楽しみたいと思っている。


西陣織のモネ「真夜中の睡蓮」を見学

2008-12-14 16:06:48 | 美術と文芸

 京都新聞の朝刊第一面に、印象派画家モネの代表作「睡蓮」が西陣織で製作展示されたと報道され、その美しい映像に驚いた。睡蓮の花に織り込まれた蓄光成分が、暗がりの中で浮かび上がる工夫がされている。これを展示しているのは、帯地メーカー「西陣あさぎ」が運営している松翠閣「西陣織工芸美術館」(上京区)で、訪問見学させていただいた。
 地下鉄・二条城前からバスで堀川通を北に進み、堀川寺ノ内で下車し、寺ノ内通を西に進み、大宮通との交差点を100m弱西に進むと美術館に達する。
        
      松の緑が目印の松翠閣          純和風建築の「西陣織工芸美術館」

 入場料200円を支払い、前庭と坪庭に挟まれた2室のミュージアムで西陣織とは思えない精巧な書画に接して感銘し、2階の部屋で、西陣織の浮世絵や印象派画家の絵画に2回目の感銘をし、最後に8畳間くらいの蔵に案内された。壁面の三面一杯に西陣織のモネの睡蓮が描かれ、照明を変えると睡蓮は朝・昼・夕の表情となり、照明を消すと蓄光糸を織り込んだ睡蓮の花が蛍光グリーンの光を放出して浮かび出て、3回目の感銘を受けた。この間30分くらいの間、係の女性が同道して熱心に解説してくれた。
   この作品は、「真夜中の睡蓮」と題して横幅12m、縦1.8mあり、18枚の織物(帯地)を組み合わせて製作された壁画である。この美術館は、昭和14年(1939)に建てられた町屋を改装して平成14年(2002)に美術館としてオープンしたもので、西陣織の近代絵画が和風の建屋と内装によくマッチしている。

   モネの睡蓮の壁画で有名なオランジュリー絵画館には、横幅90mの大壁画(8枚で)が存在する。私が訪れたのは平成4年(1992)11月である。パリの中心部にあるチユイルリー公園内のコンコルド広場にあり、開館待ちの行列のほとんどが日本人旅行者であった。
                 
   この絵画館にある「睡蓮の間」は楕円形の2室からなり、それぞれに4枚、合計8枚の細長い睡蓮の絵が展示されており、中央部に長椅子があって離れて鑑賞することができる。
   日本語で書かれた解説書も販売されており、よく理解することができた。

   モネは74歳からこの作品に取り組み、死去するまでの12年間かけて描かれたもので。生前に国へ寄贈を申し出て実現されたものである。このオランジュリー美術館は、平成12年(2000)1月から大改修に入り、約45億円かけて6年の工期で、平成18年(2006)5月に新装完成している。この工事により天井部から自然光が入り、モネが愛した陽光の入る部屋に改造されたのである。
   一方日本では、蔵内部の暗闇の中で鑑賞する工夫ができたのである。印象派絵画の新しい鑑賞法が提案されたのであるが、これを支える織物技術やコンピューター技術の活用をベースにあり、美術分野にも新しい時代の到来を強く感じるこの頃である。
   参考までに松翠閣のホームページを紹介する。  http://www.shosuikaku.jp/


私が一番好きな画家・シスレー(その2)

2008-10-17 16:19:29 | 美術と文芸

    前報(08-09-25付)の末尾に、最近「作品社」から発刊された「シスレー」を早く読みたいと書いたところ、京都府立図書館にあると聞き閲覧させていただいた。この本の著者レイモン・コニア(明治29年[1896]生まれ)は、フランスを代表する美術評論家で、印象派および後期印象派のすぐれた評論家であり、欧州で発刊された初版は1968(昭和46年)であったが、日本では翻訳されていなかった。
  今回日本で発行された翻訳本は、B5サイズで絵画100点を含めて190ページの本で、この中に翻訳者作田清氏の解説が50ページ含まれており、原作は140ページの小型の冊子であったと想像される。読後感としては、私のような美術の世界に疎いものにとってきわめて理解しやすい表現で翻訳されており、解説もわかりやすく、一気に読ませていただいた。
                 
               私が美術館や展覧会で集めたシスレーの絵葉書の一部

 京都周辺で、シスレーの解説書として閲読可能な本は少なく、私自身が所有する幾つかの美術全集にも印象派画家群の中の一人として紹介されているに過ぎないが、今回のレイモン・コニアの著書が、その後のシスレー紹介のオリジナルになっているように感じた。
   昭和51年(1976)に小学館から発行された「世界の美術」第7巻・印象派の巨匠たち「アルフレッド・シスレ」著者(フランソア・ドールド)翻訳者(松本芳夫)、A3版の大型冊子が近くの山科図書館にあるので、よく覗きにいくが、この本は1000点に達するシスレー生涯の作品リストを紹介している。シスレーは孤独な人で比較的話題の少ない生涯を送っているので、今後はこの2冊を繰り返し読み、機会があれば展覧会で実物を楽しみたいと思っている。
   今回のレイモン・コニアの翻訳本で、晩年のシスレーの生活が詳しく表現されているので、その一部を紹介する。
 シスレーは貧困の限界で生活をつづけたが、製作と美術展への出展を止めなかった。しかしその運命を変えることはできなかった。この過程で彼の妻は1898年10月に病没し、シスレーは喉頭がガンで1899年1月妻の死を追うように亡くなった。
 その2ヶ月後の3月にニューヨークで彼の絵28点が展示され、27点が総額11万2320フランが売れた。1876年の作品「マルリーの洪水」が当時として破格の4万3000フランの値がついたという。死後すぐあとに市場で評価されたのである。
 フランソア・ドールドの作品総目録によると、総作品(約1000点)中、風景画以外の作品は…静物画9点、人物画2点、室内画2点であり、風景画の中の人物は人間としてではなく風景の付属物として小さく描いている。屋外の風景画に徹した不器用で生前恵まれなかった画家の絵を今後とも楽しみたい。 


私が一番好きな印象派画家・シスレー

2008-09-25 15:43:28 | 美術と文芸

 私が印象派画家に興味を持ち始めたのは、昭和61年(1986)頃からである。東京に長期単身赴任中に、絵画鑑賞を趣味とする友人に誘われて、東京で開催される美術館展や美術展を見学するようになった。また、会社の新製品市場開発や契約交渉のために、数十回にわたり欧米の主要都市の巡回をしたが、週末を利用して各地の美術館を見学して絵画鑑賞の知識も少しずつ蓄積された。
 その中で、シスレーという印象派画家の絵を観ると、気分的に落ち着くことがわかり、シスレーの絵に関する展覧会に焦点を当てて見学するようになった。シスレーは、幕末の高杉晋作(長州藩)と同じ1839年生まれで、明治33年(1899)に59歳で没している。
 シスレーは印象派発足当初からのメンバーで、パリで8回開催された印象派展(1974~1886)の最初から出展したが、友人のモネやルノワールらの絵が評価されていくのに、シスレーの絵は評価されず、父親の破産で極貧生活を強いられ、初めて評価された(高値で売れた)のが死後1年目という不運な画家であった。
 多くの画家が売れないとき画風を変えることがあるが、シスレーは生涯画風を変えることなく印象派に徹した画家で、絵画の対象は野外の風景画だけであった。そのため、画家仲間からは「印象派の中の印象派画家」として評価されたが、寡黙で地味な性格と限られた友人の世界で静かに過ごしたので、画商たちの評価を貰うには時間のかかった画家であった。
 シスレーは生涯960点の油彩画と約100点のパステル画を残しているが、私は代表作の一つと呼ばれる絵のコピー(画集で見ると実物と色彩が異なっているが)を部屋に飾っている。1876年に起こったポールマルリーの洪水(日時を変えて6枚連作)の後半に描いた絵で明るい風景になっている。
                    
 東京の伊勢丹美術館で過去に2回のシスレー展が開催されている。個人蔵のものや美術館所有のものが展示されたが、1回目は昭和60年(1985)で、これが一つの事件のキッカケとなった。そのとき展示されたシスレーの風景画「春の太陽・ロワン川」が、第二次大戦中にナチスドイツに略奪されたものとして元の所有者の子孫から平成11年(1999)に訴えられた。この絵は推定時価約4億円といわれ、日本人が所有者として話題になった。
 伊勢丹美術館で2回目のシスレー展が開催されたのが平成12年(2000)で、シスレー没後100年を記念して開催されたが、ナチス略奪の話題も合ってか10万人が展覧会に訪れ、モネやルノワールに劣らぬ人気であった。
 事件のその後であるが、平成16年(2004)に決着を迎え、日本人所有者は無償で子孫の人に返還して話題となった。ところが、新所有者は1年も経たないでその絵をニューヨークのオークションに出品し、約219万$(約2億3千万円)で売却した。日本でもバブル崩壊前は、世界の名画の多くが日本人の手に集まったというが、今回の事件はシスレーの評価が高くなった話題と考えられる。

 もう一つの話題を紹介すると、平成4年(1992)12月にパリのオルセー美術館で「シスレー展」があるという情報を得て、12月3日に訪ねたところ、美術館従業員のストライキ中で、内部は無料公開されていた。しかし資料や絵葉書の販売はなく、写真撮影も禁止でフランス語の読めない私にとって満足できない見学であった。その中でシスレーには珍しい大型の風景画が記憶に残っていた。
 ところが、平成11年(1999)9月に京都市美術館で、パリ・プチ・パレ美術館展を見学したとき、この大型絵に再会できた。この絵はシスレーが1865年に描いた「ラ・セル・サンクルーの栗の並木道」で、フオンテーヌブローの森で描いた風景画である。絵のサイズは、125×205cmと解説されていた。
 
   最近、シスレーの絵は空の面積が大きいので「空の画家」と呼ばれているが、私も同感で、空と川の青い色彩の間に緑の空間があるシスレーの絵が一番好きである。最近「シスレー」と題した本が作品社から発刊された。「印象派のなかの印象派・水と空の画家」の紹介言葉が付いており、著者はレイモン・コニアで訳と解説は作田清である。早く読んでみたいと思っている。