植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

兼六園時雨亭屋根の葺き替え!

2017-03-05 04:16:34 | 日記


金沢の観光スポットレポート その627(No.961)

◇兼六園時雨亭屋根の葺き替え!

兼六園時雨亭長谷池側の屋根の葺き替えが、昨年8月に着手し2月1日に完了した。後残約半分も順次葺き替えられる。



○時雨亭(しぐれてい)概要

夕顔亭、内橋亭、舟之御亭とならぶ蓮池庭四亭の一つ。五代藩主綱紀が延宝4年(1676)に造った蓮池庭の別荘・蓮池御殿は、だんだん朽ちてきたことから、綱紀が亡くなった翌年の享保10年(1725)に、六代藩主吉徳によって取り壊され、規模の小さなものに建て替えられた。それが宝暦の大火(1759)でも焼け残り、補修を繰り返しながら明治の初めまで建っていたとされる。それが別名「時雨亭」だ。座敷が10畳と8畳の2つ、御囲と呼ばれる一畳台目の茶室を含めて7室からなる御亭であった。

現在、長谷池のそばにある時雨亭は、平成12年(2000)にその一部を復元したもの。茶席として休憩処として来園者に開放されている。



□時雨亭紹介ページ






(撮影:2017.2.1-2.4 )

小松うどん(JR小松駅内)

2017-03-03 04:32:07 | 日記


石川県のグルメレポート(No.960)

□小松うどん(JR小松駅内)

1月7日小松市「前田利常公の足跡を訪ねて」のために駅近く駐車場に入れて、ウオーキングで取材、帰りに小松駅の小松うどんを食べました。

現在、観光や商用で小松を訪れる人、また都会などから里帰りする人の多くは、「小松のうどんはうまい!」と言う。



300年以上も前から小松の名物だったうどん、小松の町衆に愛され続けてきたうどんを、もっともっと知ってほしい。うどんを「まちづくり」に生かしたい! という思いが結集し、平成22年(2010)に「小松うどんつるつる創研」が誕生。加盟店を募って「小松うどん」のブランド化を進めている。

現在、えんじ色のノボリはためく加盟店は70数店舗。小松うどんの“定義” に従いながら、各店舗で工夫を凝らした味を提供している。

○箸を付けてしまってから思いだし、撮影した「きつねうどん」



前田利常公の足跡を訪ねて ⑪奥野八幡神社

2017-03-02 04:16:50 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.959)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑪奥野八幡神社

13)奥野八幡神社

吉野朝の忠臣結城宗広の守護神を授かった佐次右衛門が北国に下って寺井に居住。寺井の奥城に奥乃社を奉祀したのに始まる。

明治6年(1873)に奥野八幡社と改称。同39年(1906)に神饌幣帛料供進神社に指定され、同41年に同区鎮座の無格社少彦名命社、八幡社、春日社三社と合併、奥野八幡神社と改称。

■写真は鳥居



昭和6年(1931)社殿を改築するため社地を拡張したが、社殿の改築は
戦争で遅れ、同31(1956)年に奥殿を、同38年(1963)に幣殿と拝
殿をそれぞれ改築した。

社宝には寺井町指定文化財の七重の塔、九谷庄三作冨士越の竜図大皿、初代善平作神苑の鳩図陶板などがある。



□七重塔

境内に建立されている七重塔について、下記のような石碑、説明分がある。

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役1592~1595)の際に前田のなにがしが持ち帰った。また加藤清正が持ち帰り前田家に贈呈したものとの両説があり、当初は二基対をなしていたとされ、1基は兼六園瓢池の「海石塔」であると言われている。
前田利常が小松城に移る際に、これを持参愛賞したが廃藩置県の結果、明治5年(1872)に一般に払い下げたのを寺井村の綿谷平蔵氏が買収し、村民挙げて運搬し、奥野八幡宮に奉納した。なお、この一部(二重)は小松城内に埋没しているとの説もある。能美市教育委員会

■写真は七重塔





■写真は拝殿



■写真は天満宮



□兼六園の海石塔

瓢池の中にある島に立つ石塔。高さ4m10cmで、虫喰いのように穴のあいた薄茶色の笠石が六重に積み重ねられている。宝珠、請花、塔軸は青戸室石、火袋は坪野石だ。

この由緒については、三代藩主前田利常がつくらせたもので、金沢城の玉泉院丸の庭園にあった13層の石塔の一部をここに移したという説と、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰って豊臣秀吉に献上したもので、秀吉から初代藩主前田利家に下賜されたという二つの説が伝わっている。

多重塔は通常奇数段とされのにこの塔は6層になっており、下から第1・第2・第3及び第5層が低い火口の付いた火袋であるのに対し、第4・第6層は横長の火口の付いた火袋と縦長・長方形の火袋の付いた火袋が重ねられている。
(参考資料:兼六園図鑑HP、宮武利男氏資料)

■写真は兼六園の海石塔

(前田利常公の足跡を訪ねて 完)

前田利常公の足跡を訪ねて ⑩那谷寺―2

2017-03-01 03:59:35 | 日記


小松市の観光スポットレポート(No.958)

◇前田利常公の足跡を訪ねて ⑩那谷寺―2

□普門閣・宝物館

昭和40年、白山麓旧新保村の春木家の家屋を譲り受けて移築し「普門閣」した。春木家の祖先性善坊は親鸞聖人の諸国遍歴に従い、離別の際に光明本尊の御影を賜り、大日山新保の地に道場を開き、のちに永平寺再建にあたった棟梁が弘化4年(1847)から3年がかりで完成させた。

■写真は普門閣・宝物館



■写真は前田利常肖像画



■写真は親鸞聖人肖像画



■写真は参道



□大悲閣(だいひかく 本殿)

一向一揆の兵乱で荒廃しましたが、前田利常公の庇護により寛永19年(1642)に再建されました。本殿は「大悲閣」と呼ばれ、岩壁に寄って屋根を造らず唐木造、向拝、柿葺となり、四方の欄間に山上善右衛門作の透かし彫りが施されています。昭和16年(1941)に国宝指定を受け、昭和24年(1949)に解体修理昭和25年(1950)に重要文化財に新指定。大悲閣拝殿・唐門・本殿の3つの重要文化財建造物を総称して本殿と呼んでいます。

■写真は奇岩遊仙境



■写真は大悲閣(本殿)



■写真は三重塔



■写真は展望台より奇岩遊仙境を見る



□松尾芭蕉句碑

元禄2年(1689)俳聖・松尾芭蕉が参詣し、「奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造り、かけて殊勝の地なり。」と「奥の細道」で那谷寺を表現しました。句碑は天保14年(1843)芭蕉150回忌に建立したものです。

「石山の 石より白し 秋の風」

石山の解釈が二つあり、一つは、石山を近江の石山寺と解して、「近江の石山より白い那谷の石山に秋の風(白風)が吹き渡って、さらに冷やかに感じる」とする解釈。もう一つは石山を那谷と解して、「那谷の石山に吹きつける秋の風(白風)は、那谷の石山より白々として冷やかに感じる」という解釈がある。

(参考資料:那谷寺ホームページ、宮武利男氏資料)

■写真は芭蕉句碑

□那谷寺ホームページ

(つづく)