植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

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加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-④ 完

2018-10-18 05:29:49 | 日記


加賀藩ゆかりの地を訪ねる 富山県その3-④ 完(No.1404)

9月29日(土)金沢市ボランティアガイド「まいどさん」16期生の「よりまっし16会」で毎年1回は加賀藩ゆかりの地を訪ねる勉強会を行っている。昨年に続き富山県の松倉城、愛本跳ね橋、富山城を訪ねた。

◇富山城址(富山市)

〇富山城

佐々成政や富山藩主前田家の居城であった富山城。この城跡が富山城址公園として整備され、市民の憩いの場となっています。公園内に残る石垣や濠から当時の威容を見ることができます。また、富山城内は郷土博物館として、400年以上にわたる富山城の歴史を、模型や映像も使いながら分かりやすく紹介しています。

■写真は本丸鉄門石垣の鏡石



1)神保長職(じんぼながとも)期(1543~1560)
富山城は、天文12年(1543)に新川郡へ進出を目論む越中守護代・神保長職が、家臣の水越勝重に命じて築城したといわれている。近年の発掘調査では、室町時代以前の遺構も発見されており、実際の築城時はもっと以前だと考えられている。

■写真は天文12年(1543)頃の勢力図(富山市郷土博物館より)



2)上杉家期
神保長職は増山城にに逃れて敵対するが、永禄5年(1562)に7月と9月の2度に渡って侵攻を受け、能登畑山家の仲介で降伏する。結局、神保長職は神通川以東を失うが、本領の射水(いみず)・婦負(ねい)2群の支配は安堵され、富山城は上杉氏の支城となる。

3)神保長住(じんぼながずみ)期
信長の元に逃げていた神保長住は、天正6年(1578)上杉謙信急死をきっかけとして、織田軍の先鋒として越中に侵攻し、富山城を奪還し、神保家を再考する。

■写真は笑積石垣



4)佐々成政期(1582~1585)
天正10年(1582)神保長住は、上杉景勝についた神保氏の旧臣らによって急襲され、城を奪われ一時捕らわれてしまい、織田軍の反攻で助けられたのの、失脚し追放されてしまう。

5)前田利長期
慶長2年(1597)前田利長が、守山城から富山城に移ったが、翌年、前田家の家督を継いだために、金沢城に移った。

6)前田利長第2期(1605~1609)
慶長10年(1605)前田利長は、44歳の若さで利常に家督を譲り、富山城を隠居所として大改修をした。その時の大手側入口の石垣に5つの鏡石組み込まれた。金沢から640人の家臣を引き連れてきたとされる。



■写真は本丸側より鉄門石垣と看板



7)富山藩成立期(1639~1660)
寛永16年(1639)加賀藩3第藩主利常は、次男・利次の10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。利次は富山城を借用して越中に入り、婦負郡百塚に新たな城を築城予定だったが、財政状況から断念した。

8)富山藩確立期(1660~1869)
万治3年(1660)の加賀藩との領地交換により富山城周辺を自領とした上で、富山城を居城とした。幕府の許可を得て、富山城を本格的に修復し、あわせて城下町を整え、以降前田家13代の居城として明治維新を迎えている。

■写真は安政元年(1854)富山城下絵図



■写真は万治絵図の富山城縄張り



9)明治以降(1871~)
明治4年(1871)に廃城となり、翌年から建築物は払い下げられ、本丸御殿は県庁舎、二の丸二階櫓御門は小学校に、千歳御殿は解体され売却された。昭和29年(1954)旧本丸鉄門跡に模擬天守(彦根城、犬山城をモデル)が建築され、現在の富山市郷土博物館に。売却されたいた千歳門は平成19年(2007)に寄贈され本丸東側に移築、平成27年(2015)本丸内にの本庭園が整備されている。



■写真は天守より見る



■写真は佐々成政歌碑





■写真は千歳門と石垣

□富山城ホームページ(富山市観光協会)

□富山市郷土博物館


住所:富山市本丸1
TEL: 076-443-2111(富山市公園緑地課)

参考資料:インターネット、宮武氏資料

撮影日:2018.9.29

(つづく)


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