昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第三章“石ころと流れ星”(短期集中再掲載)    9.夏美さんの真の初恋

2012年10月27日 | 日記

夏美さんの真の初恋

夏美さんは、連日連夜、学生たちに勧められては二級酒を飲み、青春の渦に飲み込まれていた。店が終わる12時頃には、学生たちの言葉や想いと、それに対する夏美さんの戸惑いやざわめきが身体の芯まで浸していた。

一時間ほどで店を片付け、アパートまで20分の道程を歩いていると、夏美さんが身を置く二つの現実の幅広い境界線を横切っていくようだった。「どっちやろ?どっちや~~!」と深夜の東山大路で2~3度叫んでみたが、「自分の生き方、自分で決めたことないもんなあ」と呟いて家路につくのがおちだった。

師走に入ったある夜、アパートに帰ると、夫が狭い玄関に仁王立ちになっていた。

「お前、男できたんやろ~!…好きな男おるやろ~!」と大声を上げた夫の、これみよがしの腕組み、酒で勢いをつけたと思しき顔色と覚束ない足元に、夏美さんは思わず笑った。

「いきなり、何言うてんの?あほちゃう?」

とりあう気もなく靴を脱いでいると、「やっぱり、そうや!もう、あかん。我慢できひん!」と夏美さんを押しのけるようにして、夫は出て行った。裸足だった。

「寒いよ~~!靴履き~~!」と靴を片手に追いかけたが、夫の姿はもうなかった。

それから三日間は素知らぬ顔をして店に出ていたが、四日目の夜、少し早めに店を閉じた後、お母ちゃんに「ちょっとだけ飲もか?」と言われた。お母ちゃん、おばちゃんにはすっかり気取られていたことが分かった。

「男と何かあったら、気いつけてても顔に出るもんや」とお母ちゃんは言った。

何人かの学生からも、お母ちゃんとおばちゃんは「夏美さん、何かあったんですか?」と尋ねられていた。

「どうもすみません。ご迷惑をおかけし…」。夏美さんは黙っていたことを謝罪した。

しかし、夫が出て行った夜のことを話し始めると、途中で二人は目くばせを交わし笑い始めた。

「やっぱりやわあ。そんなことやろう、言うてたんえ。あんたを追い出すタイプやないし、追い出されたんやったらウチに来るやろうし、言うてなあ」

そう言うおばちゃんに、明るく笑ったお母ちゃんは、「あんたは、私らの娘やわあ、やっぱり。同じような道歩いてきてるしなあ。一緒に仲ようやっていこう、な。……ほんで、ええ人見つけて……」と言った。

「学生さん、ええ子は一杯いはねんけどなあ。結婚するか、言うたらなあ。それはそれでなかなか、なあ」。

おばちゃんの言葉にお母ちゃんは大きく頷き、意味ありげに笑った。

夏美さんは「これからも、よろしくお願いします」と頭を下げながら、この二人をずっとお世話していこうと心に誓った。

 

何の音沙汰もないまま二週間以上が経ったクリスマスイブ前のお昼、突然夫は現れた。「どや。うまいこといっとるか、新しい男と。……一緒に暮らしてる思うてたんやけどなあ。……これでも、気い使うてたんやで」

目を逸らすようにして喋りながら部屋の隅に片付けてあった自分のものを抱え上げる夫を、夏美さんは他人を見る目で見ていた。ほとんど何も感じなかった。ほとんど何も感じないことが悔しかった。

「離婚届は?」という言葉を出て行こうとする夫の背中に投げつけると、「それやねん」と振り向いた。

「用意しといてくれへんかなあ。……一週間後くらいまでに。……また、同じくらいの時間に来るし。ええやろ?」

「わかった。ええよ」と夏美さんは即答した。その言葉にピクリともせず、夫は出て行った。

夏美さんは、確信した。“夫に女ができたんだ!それが、発端だったんだ!”

そして、“きっと、今いる!近くにいる!”と思った。が、畳に座ったまま動かなかった。

「じゃ、元気でな~~」という声が玄関のドアの閉まる音と同時に聞こえてきた。

 

夏美さんの話がここまで話が進んだ時、二人の客が帰っていった。スナック“ディキシー”にいる客はカウンターの我々だけになった。

「夏美さんに新しい恋はなかったんですか?」

勘定を終え、一服している夏美さんに、僕は尋ねた。

「別れてから2年は、ね。それからよ」

「年下の人とか……」

「小杉君のこと言うてるんやろうけど、残念。彼は、その後」

「そう、その後!」

両手に顎を乗せて話に聞き入っていた小杉さんが、僕を見る。酔いが回ってきているように見える。

「私も登場してくると思うわよ。ねえ、夏美さん」

横から和恵の声がする。右を向くと、僕の頬にくっつきかねない距離に顔があった。ストゥールを運んできて座っていたらしい。まるで気づかなかった。

「これからがおもしろいんやから~~」

左肩に和恵の手が回ってくる。右肩に乳房が触れたような気がした。

「おもしろいかどうかは別にして、私は変わったわ~。ほんまに、なんでやろう?て自分で思うくらい…」

上村は小杉さんを小さくしたような形で、夏美さんを見つめている。和恵の左手が2~3度僕の肩を叩く。密かに共有した親密感を確認しているような動きだ。

「恋の話、早く、聞かせてください」

僕は夏美さんを促した。

 

20歳の年の暮れ、大晦日の東大路をリヤカー一つで夏美さんは引っ越した。店の二階の納戸に住まわせてもらうことにしたのだ。

「柿本君、私の部屋覚えてるでしょ。納戸言うてもねえ、あんな感じやと思うわよ」

和恵が横から注釈を入れる。

「まあ、そやろなあ。家の造り、ほとんど一緒やから、京都の町屋は。三畳くらいの部屋で私には十分やったし、安アパートいうてもなあ、一人住まいにはもったいない思うてたから、“ウチの二階に来たらどうや?”言うてくれはった時は、助かった~~~、思うたなあ。私の心の空白のことも気にしはったんやろうけど、それは実は、そうでもなかったんやけどな」

九州の実家に帰るよりも恵まれていると思いながらリヤカーを引いていた夏美さんは、店に着くなり「ただいま~~~」と言ってしまった。

「姉ちゃ~ん、出戻り娘やで~~」とおばちゃんが店の奥に声をかけると、お母ちゃんが「お帰り~~~」と顔を出した。紅白歌合戦の音が、漏れてきた。一歩店に足を入れた夏美さんは、思わず大きく安堵の溜息をついてしまう。腰から崩れ落ちそうだった。

「僕も、今20歳なんですけど、住み込みしてるんです」

自分の鼻先を指さしながら、僕は身を乗り出した。胸が少し熱くなっていた。

「だから、こんな話、できるんや思うわ。君、田舎者でしょ?違う?」

「そうです。山陰です」

「私みたいな集団就職、いっぱいおるんやろねえ」

「後から、……高校入ってから、そうだと知りました。ずっと、恥ずかしい話ですけど……」

「貧しさとくっつけてイメージしてるから違う?恥ずかしい話なんて言うの、こちらからしたらええ迷惑よ」

「そうですか。……そうかもしれませんね」

「口減らしで売られた訳やないし。勉強したいとも思わへんかったし。早う家出たかったし……。私は、……そう、脱出する気分やったなあ」

「自分で飯を食っていくんだって、…自立するって…脱出かもしれませんねえ」

「私ら夫婦がそやったもんなあ。脱出に疲れてたからやろなあ、お母ちゃんの店に着いた時、ほんまに腰抜けたもん」

お母ちゃん、おばちゃんと三人で観た紅白歌合戦の、“上を向いて歩こう”が心に沁みた夏美さんは、微かな除夜の鐘をしっかり聞こうとテレビのボリュームを絞ろうとした。「ちょっと除夜の鐘……」と小さな電気炬燵で身を寄せ合っている二人に声をかけた。お母ちゃんとおばちゃんは二体の寄り添う木像のように、静かに眠っていた。

「それまでの人生で一番いい元旦やったなあ、その翌朝は。……でも、ちょっとだけ嫌なこともあったんよ、お母ちゃんが……、愚痴言うの嫌いなお母ちゃんが、“あかん!初詣行かれへんかもしれん。腰があかんわ。情けない話やなあ”て、2~3回言うたんよ。……私という娘に甘えてくれてはるんや、思うたりもしたんやけど……」

やがてお母ちゃんは、冬休みを終え顔を出し始めた学生たちをうれしそうに迎え、しきりに「夏美ちゃん、ウチの娘になったんから、やさしゅうせんと勘定高うなるからな。気い付けるんやで」と言っていた。

学生たちはあまり事情を詮索することもなく、一様に「よかったなあ、おばちゃん。せやから、元気ええんや」と微笑んだ。

気をよくしたお母ちゃんは、少し無理をした。おばちゃんが用意した丸椅子で休憩することもほとんどなくなった。

「夏美ちゃ~~ん!大変や~~~!」

成人の日の夜、おばちゃんの叫び声に階段を駆け下りると、お母ちゃんがキッチンで倒れていた。

「明日は、成人になった学生さんにサービスしたらんとなあ」と鮓飯を作り、団扇であおぎ続けていた時のことだった。加齢によるものと思っていた腰痛は、硬直性脊椎炎だった。

以来、店の奥の六畳は、お母ちゃんの病室と化した。

「気落ちしてなあ、おばちゃん。店のことにもあまり手が付かんようなってなあ。“お母ちゃんの世話は任せて”言うたら、お母ちゃんも“そうしてくれるか。あの子には店を頑張ってもらわんとから”言うて、喜んでくれはってな」

買い物、片付けが夏美さん。おばちゃんは、料理。という店の役割分担をはっきりと決め、夏美さんは買い物に行く途中に近くの大学病院に行って、介護のイロハを習うことになった。

その手配、サポートをしてくれたのが、店の常連の一人、医学部の学生だった。

「なんでも相談してください」と言ってくれた彼、ガクさんは、底が抜けているのではないかと疑いたくなるほど人が良く、やさしく、誠実だった。2才年上のガクさんに、夏美さんは次第に惹かれていった。

                               Kakky(柿本)

次回は10月29日(月)となります。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。

*第一章:親父への旅 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7

*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981


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