昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―⑱

2017年03月01日 | 日記

翌日、晴れ上がった空には夏の太陽があった。朝刊を配り終わり、玄関脇の水道で洗ったTシャツを絞っていると、とっちゃんの顔が突然目の前に現れた。

「グリグリ、なんか悩んでへんかあ?」

「え?なんで?」

「顔に書いてあんで~~」

「別に、悩みないけど」

「ほんま?なら、ええけど」

薄ら笑いの顔が販売所の中に引っ込む。僕は濡れたTシャツを肩から掛け、後を追うように中へ入って行く。

前夜の銭湯での小一時間は、想像した以上に刺激的だった。販売所に帰ってきた僕たちは、満たされていない空腹感を補うように、大沢さんの部屋でそれぞれの印象を語り合った。

午後7時を回る頃には北山橋西詰近くの定食屋に移動。揃って定食を注文し、話を続けた。話題の中心は、三人がそれぞれに抱える問題意識や希望へと移っていた。初めての食事会だった。やっとできた本格的な自己紹介のようでもあった。

大沢さんは「弱い立場の人を助けたい」と繰り返した。僕は「人の役に立ちたい」と言って、「方法論は?」「どんな人の?」「どんな役に立つ?」と二人の質問攻めにあった。

桑原君は「世の中を変えたい」と意気込み、大沢さんが失笑するとさらに勢い込んだ。

「僕たちは、建設には遅過ぎ、破壊には早過ぎた世代なんや。建設か破壊、どちらを選ぶかどちらに付くかで、立場がえらい変わると思うんや。でも、選ばんとあかんねん」

桑原君は、自分を語るというよりも、二人を説得しようと試みているようにも見えた。

残ったままの定食はすっかり冷えていた。僕はお茶をかけて一息で掻きこんだ。

 

その夜は、しばらく寝付くことができなかった。長い時間天井を見つめていた。様々な言葉や想いが天井の木目や小さな穴を飛び交った。

自立することの意味を改めて考えなくてはならない、と思った。一人の世界から飛び出し新聞配達を始めたということだけでは、とっても自立とは言えないと思った。

確かに僕は、新聞販売所という小さな社会の一端には加わった。“おっさん”たちの話も耳にした。しかしすべては、僕の外側にある無縁のこと。ただ匂いを嗅いでいるだけだ。

すべてのことが、掴みどころのない、僕にとっては実体のない陰のようなものに感じる。

僕にとって確かなものは、一体何なんだろう。何にもないと思いたくはないが……。僕は自立を果たせるのだろうか。自立したその先には、一体何が待ち受けているのだろうか。 “おっさん”たちと同じ匂いのするものなのだろうか…………。

 

翌朝は、いつもの朝だった。いつものコースを、いつものポストに新聞を投げ入れながら走っていると、“な~~に、心配などいるものか。毎日は、日記の新しいページをめくるようなものだ。書きとめたことが積み重なり、確かなものとして残っていくんだ”と思えてきた。

変化や進歩の実感も必要ではない。それはきっと、積み重なったもの同士の化学変化によってもたらされるものなのだろう。淡々として見えるいつもの日々が積み重なった時、僕は突然、この空や塀や、塀の中に住む人たちや緑を、それまで感じたことのない感慨を持って見つめることになるんだ。それがきっと、自立するということなんだ。

いつものオルガンのメロディが耳に入ってくる。走る足を止める。いつもと同じはずのメロディが、いつもとは違って聞こえる。

いつもは柔らかく穏やかで、時には物憂げにさえ聞こえていた音に、今朝は棘がある。悲しみの色を帯びている。

“オルガンの少女”に何かが起きている。病気?諍い?それとも‥‥失恋?

しばらく耳を澄まし、立ち去る。再び走り始める。“オルガンの少女”と啓子が重なっていく。

啓子はもはや、僕にとって“オルガンの少女”同様、実体のない存在だ。実体のない存在に、僕は心を動かされ、気を揉み、身悶えしている。まるで、観客のない劇場で一人芝居をしているようなものだ。

自転車に辿り着き、販売所に猛スピードで帰る。

荒い息を吐きながら引き戸を開ける。大沢さんの救われたと言わんばかりの目とぶつかる。正面に咥えタバコのとっちゃんは見えるが、いつもの朝ではない。販売所の空気が張り詰めている。

階段下で、桑原君と山下君が額を寄せ合っている。

「お疲れ~~」

とっちゃんの出迎えの声にも気遣いを感じる。山下君を横に少し押しやり、とっちゃんの足元に座る。

「あんたら、どないしたん?仲良うせんとあかんえ」

お菓子のお盆を手に、おばちゃんが現れる。

「大丈夫です」

大沢さんが静かに応える。頭の上から、とっちゃんの大きな声がする。

「おばちゃん、心配せんでええ。何か考えとんねんて、みんな」

おばちゃんが奥に消え、お菓子のお盆はとっちゃんの背中に消える。

「なんで?なあ、なんでやねん?」

桑原君が山下君を覗き込む。山下君は押し黙っている。

「なあ、なんで?」

僕と一瞬合った目を山下君に戻し、桑原君の言葉は繰り返される。

大沢さんが横にやってくる。階段下に4人が横並びになる。とっちゃん一人が高みの見物の体勢。気分よさそうにタバコを吹かしている。

大沢さんがこっそりと経緯を教えてくれる。

発端は、桑原君が山下君に自衛隊の入隊動機を尋ねたこと。軽い質問だったのだが、山下君から明確な返答が得られなかったため次第にエスカレート。桑原君はとうとう苛立ちを覚え始めた。といったことのようだった。

「なあ、選んだのがなんで自衛隊やったん?」

桑原君はなお迫っていく。山下君は押し黙ったままだ。頑なにさえ見える

「なあ、もうええんちゃう?」

大沢さんが見かねたように桑原君に声を掛ける。

身を乗り出した大沢さんに押され、僕の身体が少し後ろにのけぞる。頭をとっちゃんにこつんと叩かれる。

「グリグリ~~、どうや?日記書いてんのか?」

とっちゃんの声とタバコの煙が頭に降りかかってくる。

「書いてるわい!」

場の流れを読まない質問に苛立ち、咄嗟にそう答えたが、本当は書いてはいない。書く気になどなれない状態が続いている。

「おお!書いてんのか。そら、感心や」

とっちゃんは僕の頭を撫でる。

「彼女はどうや?元気か?」

その言葉に、背中を悪寒が走る。立ち上がり、何も言わずに睨み付ける。

「なんや?元気ちゃうんか……」

とっちゃんは無表情に見返してくる。

「栗塚君。君、覚えてる?“ぽっこり”が言うてた言葉」

大沢さんが耳打ちする。頷くが、とっちゃんへの怒りは収まらない。

「弱いもんを助けよう思うたら、とことんやらんとあかんで」

“ぽっこり”の言葉を頭の中で反復する。“とことん”という言葉に込められていた意味がとことんわかったような気がする。

「お菓子でも食べて、仲良うするんやで」

おばちゃんがお茶を持って現れる。

「なあ、こっちにはいつ頃来るんやろう、台風」

突然とっちゃんが、カウンターのおっちゃんに大声で尋ねる。

「台風来てるなんて聞いたことないで。なあ、おっちゃん」

おっちゃんの隣でみんなの様子を窺っていたおばちゃんが、ほっとしたようにおじちゃんに目を向ける。

「聞いてへんなあ。なあ、みんな」

おっちゃんの言葉に、みんな口々に相槌を打つ。そして、それをきっかけに、とっちゃんの残したお菓子を食べ始める。途端に、販売所の緊張感が解け始める。みんなの顔も、いつもの表情を取り戻していく。

桑原君が投じた小さな一石から生まれた波紋は、お菓子を食べる音と共に消えていた。

                  Kakky(柿本洋一)

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