雨の術後。
ベンチに戻り腰を下ろすと、恥ずかしさは自分に対する怒りへと変わっていった。ベンチと膝を交互に拳で殴る。次に、「そうだ!」と小さく口に出し、3階の踊り場からホテルに電話。事情を説明すると、快くキャンセルを承諾してもらう。
手術室の前で、親父が出てくるのを待つ。ベッドの動く音が聞こえ、次いで扉が開く電気音。足から出てきた親父の表情を見て取ることはできない。
「部屋に行きますからね」。ベッドを押す看護師の一人が、僕に声を掛ける。執刀医に寄り添っていた看護師だ。彼女の僕を一瞥した目に軽蔑の色を感じ、身をすくめるようにして親父のベッドの脇に張り付く。
昏々と眠っているその顔は、青ざめた仮面のようだ。小さく開けた口から、息が吐き出されているようには見えない。しかし、なぜか幸せそうに見える。ゆっくりと眠ることのできない日々だったのだろうか。
麻酔が切れるのは、2時間後。覚醒すると同時に、親父には現実の痛みが襲いかかってくるのだろう……。
病室に入る。ベッドサイドのソファには、既に枕と毛布が置かれている。僕に声を掛けた看護師が、ベッドからソファへとやってくる。羞恥心に目を伏せる僕に、事務的な説明が覆いかぶさってくる。
「3時間おきに、交代で薬の点検と交換にやってきます。緊急時には、遠慮なくナースコールを使ってください。ナースコールは、ここにありますから。では、お父さんに使用されている機械の説明をします。あ!その前に、機械には絶対に手を触れないでください。お願いします。では説明を……」
機器一つひとつの説明に、「はい。わかりました!」と小学生のように応える。
「お大事に」。看護師二人の、きれいに揃った無表情な声に「よろしくお願いします」と一礼し、改めて親父に繋がれた機器を順に見る。やっと息をしている顔になってきた親父を無機質な機器たちが支えているのかと思うと、どこか痛ましい。
折りたたみ椅子をベッドサイドに引き寄せ、布団の中の親父の左手を左手で握る。そっと握った手を、親父が強く握り返してくる。僕は急に、胸が詰まってしまう。枕元のティッシュを取ろうと少し動くと、親父の手に力がこもる。その手は熱く、小さい。
我慢できず、僕は嗚咽する。空いた右手で鼻と目を拭いながら、親父が意識を取り戻すまでこうしていようと思う。
窓外に目をやると、細かな雨の糸の向こうは既に夕闇。辺り一面が灰色に濡れそぼっている。
看護師が検温にやってくる。僕は手を離し、ティッシュを片手にソファから見守る。
「40度超えてますねえ」。看護師の渋い表情に身を乗り出すと、「もうすぐ下がり始めると思いますけどねえ」と、微笑む。親父の手を、また握る。熱い手が握り返してくる。
「またすぐ、様子を見に来ますからね」と出ていく看護師に会釈をすると、その身じろぎをなじるように、親父の手に力が入る。
握る手と手が汗で湿り、皮膚の感覚が薄らいでいく。ぬるりとした薄い皮膜で、親父と僕は隔てられているようだ。その微妙な距離感を縮めようと、手に力を込める。と、親父が握り返してくる。そのやりとりが、うれしい。そして、切ない。
覚醒が近付いたのだろうか、親父が呻き声を上げる。やがてそれは、断続的なものになっていく。その度に手を握る力を強めながら、僕はただただ親父と手をつないだままでいる。
午後5時半過ぎ。「う~~ん」と軽く唸り、親父覚醒。いつもの朝を迎えたような横顔だ。握り続けていた手を慌てて離し、中腰で顔を覗きこむ。ぼんやりと宙をさまよう親父の目が僕を見つけるのを待つ。ついつい微笑んでしまう。
細めた目で僕を発見した親父が、首をもたげる。
「ひょおひひ~。ひぃふぇふぁふぉ~。ひぃふぇふぁふぉ~、ふぉっふぇひぃふぇふぅへ~」。
思わず笑いながら、「何?何なの?」と応える。
真顔の親父の手が口へと動く。点滴の管も一緒に動く。僕は「あ!わかった!わかったから、動かないで!」と、急いで洗面台へと向かう。入れ歯の収められたコップを手にする。と、親父の顔と言葉を思い出し、笑いが哄笑に変わる。
親父の目の前で「洋一~。入れ歯を~。入れ歯を持ってきてくれ~って言ったんだ~」とやっと言いながら、大袈裟な手つきで入れ歯を取り出してみせる。
親父の口が精一杯開けられ、入れ歯を待っている。ゆっくりと挿入しながら、今度は餌を待ちわびていた小鳥を連想し、笑いがぶり返す。僕の身体を柔らかな安心感が浸していく。
「洋一~。入れ歯を~。入れ歯を持ってきてくれ~って言ったんだ~」。含み笑いをしながら、僕はわざともう一度言う。
「そう笑うなや。歯がないと、そりゃあ、どうにもならんで」。装着した入れ歯をもごもごと調整しながら、親父は小声で言い、少し笑って顔をゆがめる。
大手術の直後、笑いは禁物だ、気を付けなければ、とは思うものの、どうしても笑いが漏れてしまう。病室を親子の和んだ空気が満たしていく。
なんとか笑いを噛み殺し、ベッドサイドから親父を覗き込む。装着した入れ歯のおかげか、その顔には心なしか生気が漂ってきている。安堵の色も窺える。
「親父の癌、見たよ。全部、見たよ」。と子供の僕が報告すると、天井を見たままの親父が「そうか。……全部取れてたか」と呟く。「取れてた、取れてた。僕、見たもん」と、頭を撫でると、「あの先生、自信家じゃけえ」と親父が微笑む。「大変だったねえ。…でも、手術は完璧だったみたいだよ。よかったね」と、また頭を撫でる。
安心感が拡がっていく。すると、「そうか…、完璧だったか」と呟き、親父の微笑みが真顔に変わる。「そりゃあよかったが、これからじゃ。術後があるけえ。まだ安心はできんけえ」。自らに言い聞かせる言葉に力が籠っている。
「そう、そう。まずは、今夜だからね」そう言って僕は、突然思い出す。そうだ!早くホテルに行ってチェックアウトだ!
「親父。30分待っててくれる?」「ん?わしなら、大丈夫じゃが、何かあったか?」「チェックアウトしてくるから、さ」「いやいや、完全看護じゃけえ、大丈夫じゃ。夜まではいて欲しいんじゃが、わしが寝てしもうたらもうええで。お前がいてもしょうがないじゃろう」「ううん。ここに泊まるよ」「ええて。きついで、ソファで寝るのは。お前も疲れたじゃろう。ホテルでゆっくり寝た方がええんじゃなあかい?」
僕は、かえってやや焦り気味になる。「まあ、まあ。とにかく30分ね。待っててね」と親父の頭を撫で、ベッドから離れる。
「わしは大丈夫じゃけどのお」という声を後にして病室を出ると、足が浮き立っているのがわかる。1階の公衆電話からタクシーを呼び、雨の玄関で待っている間も小さく足踏みをしてしまう。
10分も経たずにタクシー到着。僕の急く心が見えた運転手がすっ飛ばしてくれて、ホテルまで10分で到着。待っていてもらってチェックアウトする。
乾いた下着をバッグに捩じり込み、益田市出身だということと親父の病気で帰省していることを知った支配人の細かな配慮に感謝して、ホテルを飛び出る。
病院へ。急ぐタクシーのスピードに合わせるように、雨足の強さが増していく。窓を打つ激しい音にも、心は浮き立ってしまう。
病院に到着。足音を潜めながら、階段を急ぐ。階段と廊下には、夕食の喧騒の余韻がまだ漂っている。病室にそっと入る。親父は、小さく口を開けて熟睡中だ。病室の奥、ソファの上にポーチを置き、ベッドの左側から親父を覗き込む。
入れ歯のおかげで、親父はいつもの親父の顔に戻っている。厳格でお人よし、照れ屋でプライドが高く、どこか甘えん坊な親父の顔だ。
ひとしきり親父の顔を見つめた後、一晩を過ごす準備に入る。文庫本はTV台の上に。ラジオは枕元に。枕の位置、形。毛布の収まり方……。一度潜り込んでみる。よし!
親父はまだ起きないと見て、売店へ。夕食、夜食の準備をしておかなくてはならない。夜は長くなるはずだ。
店じまい寸前の売店で、たった一つ残った弁当と、缶入りの緑茶と紅茶を購入。夜食用の軽食は諦める。休憩コーナーに立ち寄り、立て続けにタバコを2本吸う。雨音を聞きながら、ゆっくりと病室に戻る。
病室に入ろうとすると、中から人の気配。ドアを開け中を窺うと、主治医と看護師がいる。なぜ、わずかの間病室を出ている間に……。と思いつつ、弁当と飲み物の入った袋を後ろに回してしまう。
「順調ですね。まだ熱はありますが、あまり心配はいらないでしょう」と、主治医はにこやかだ。看護師も主治医の言葉に頷きながら微笑んでいる。
「そうですか。ありがとうございます」と、頭を下げる。背中に回した袋ががさつく。そっと前に回しソファの上に置き、再開された診察を見守る。ガーゼの下から現れた親父の手術痕が目に入る。大きく、痛々しい。
よりよくなるためには、時には傷つかざるを得ないこともあるんだなあ、と思う。それにしても、親父は78歳。払える犠牲にも限度がある。親父が摘出したのは肝臓癌だけでは、きっとない。貴重な残りの生命の一部も摘出したんだ、と思う。
診察が続く中、親父に近付き、そっと額に手を置いてみる。親父の目が一瞬僕を捉え、すぐに天井の一点に向けられる。厳しく、強い目線だ。気力まで奪われたわけじゃない、と言っているかのようだ。
「後は看護師がやりますから…。大丈夫です。順調です。何かあったら、できるだけ早く連絡してください」「わかりました」「じゃ、お大事に」「ありがとうございました」と、主治医と看護師を見送る。
と、突然「洋一!」と親父の声。「何?」と応えると、「お前、晩飯は?食ったんかい?」ときた。「弁当買ってきたから大丈夫!」と面倒くさそうに応えると、「弁当じゃあ、足りんで。足りゃあせんじゃろうが」としつこい。「平気、平気!」と言うと「いやあ、足りん、足りん」と粘る。「足りるって!」とうるさそうに言って、ふと気付く。
過分でうるさいまでの気遣いの言葉は、ひょっとすると、自らの内にある不安と闘うための方便かもしれない。だとしたら、いやそうではないとしても、今はともかく眠ることだ。
「もうええから、飯食ってホテルで寝りゃあええのに」とまだ呟く親父の頭を、黙って撫で続けることにする。「弁当じゃあ、お前、腹が……」と、目をつむりながらまだ喋ろうとしていた親父の言葉が急に止まる。それが、2~3分で寝息に。さらに2~3分でいびきに変わっていく。思わず心配になるほどの大きさだ。
そっと手を離すと、雨の音が一段と強くなっていることに気付く。静かに窓を開けてみる。尋常な降り方ではない。病院の壁に雨粒がぶつかり、砕け散っている。2階の小さく突き出た屋根の窪みは大きな水たまりになり、次々と降り注いでくる大きな雨の一粒一粒に、激しく揺らめいている。
“親父の“やらずの雨”だなあ、きっと“と思いながら、僕はしばらくただ茫然と、暗く激しい雨の景色を眺めていた。
しばらく暗い窓外を眺める。激しく落ちてくる雨が巻き起こす風が心地よい。病室の中には雨音しかなく、むしろ静謐を際立たせている。
穏やかで平和な時間を共に慈しむように、毛布の脇から手を忍び込ませ、親父の手を握る。熱に火照った手が握り返してくる。身体の芯から“感謝”の気持ちが湧いてくる。
そのまま手を握り続けていると、突然親父が「晩飯、食ったんか?」と起きる。そのはっきりとした声に驚き照れくさく、少しだけ手を引き寄せながら「大丈夫だよ。食べたよ」と言って、手を離す。
「仕事は?せやあないんかい?」「弁当じゃ、足りんじゃろう」「ホテルに泊まりゃあよかったのにのお」「風呂に入れや」……。断続的な言葉が続く。言葉と言葉が次第に間遠くなる様は、まだ完全に覚醒しきっていないことを窺わせる。寝言?譫言?と、顔を覗き込むと、薄く開けた目と合う。「退屈じゃろう。テレビでも見いいや。イヤホンは…」と首をひねる。目線を追うと、イヤホン発見。「わかった、わかった」と、親父の側を離れる。
親父を休ませるために、風呂に入ることにする。看護師が交換したバスタオル2枚を持って「じゃ、風呂に入ってくるからね」と告げると、「そうせい、そうせい。…石鹸は…」と、また首をひねる。「いいから、寝てなさい」と、親父の汗でぐっしょりのバスタオルを脇にする。親父の汗が僕のシャツに浸み込んでくる。
バスタオルの洗濯から始める。さすがに、下着1枚のようにはいかない。踏み洗いをし、力の限り絞る。換気扇の音が睡眠の邪魔にならないか確認し、少しドアを開けて干す。
汗をシャワーで流しそっと出て見ると、親父はまたすっかり眠りに落ちている。時計を見ると、午後9時。雨音はまた、強さを増しているようだ。
弁当を食べ、ラジオと文庫本を枕元の手の届く位置に揃え、灯りを調節。親父の顔を覗き込む。頭を撫でたい衝動は抑える。この安寧が続けばいいなあ、と思う。と同時に、欠航を望んでいる自分に気付く。
そっと、小さく窓を開けてみる。無数の雨の糸が、病院の窓から漏れる灯りに幽かにきらめいている。やっぱり、親父の“やらずの雨”なんだ、と思う。
その一晩、半身浴のような満足感に浸ったまま、僕はほとんど眠ることはなかった。久しぶりに聴いた深夜放送、静寂の中で読んだ文庫本、激しさを増す雨音、そして、薄暗い光の中に確かに感じる親父の気配……。
3時間おきの看護師の見回りに引き戻されながらも、僕は思い出の淵に沈んだり、思惟の岸辺に佇んだりしていた。自由で静かな一晩だった。
*次回は、明日(9月12日)です。
注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験したことが元になっています。第三章は、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。
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