俳句日記/高橋正子

俳句雑誌「花冠」代表

9月25日(水)彼岸明け

2024-09-25 00:19:23 | 日記
曇り、夕方小雨
  ウイーン留学記を読み
一章へこころ落ちゆく秋の夜      正子
秋冷にきりなくつづく喜遊曲      正子
飛び立って飛蝗はすぐに黒き影     正子

●一日曇り空で、夕方には雨になり、どの部屋も寒々してきた。外のオリヅルランを部屋に入れて飾る。寒々とした部屋に、やりかけの英訳に戻らねばの気持ちが湧く。まえがきと、あとがきの見直し、イラストを探すことが残っている。それに、そろそろ次号の花冠の編集に入らねば。思い立てばいろいろある。

●晃さんから俳句甲子園関係の愛媛新聞記事の切り抜きが届く。『俳句の杜2024』の自身あての感想のコピーも。それについてお礼の電話。長電話になる。

(四)リルケと俳句
●ジャポニスムスの文学への影響はどうだったのか気になるので、ネットを探していたら、「フェデリコ・ガルシア・ロルカと俳句」(井尻香代子著)と言う論文が見つかったので印刷した。スペイン語の俳句。1920年代のジャポニスムスの影響を受けた俳句のような短詩の分析。

初めて聞く名前のロルカだがスペインのグラナダ地方の農場主の長男に生まれ、2歳で小児麻痺に罹患。亡くなったのはスペイン内戦のときフランコ政権に逮捕され銃殺され、1975年フランコが亡くなるまで、スペインでロルカを語ることは禁止されていたとのこと。三島由紀夫も関心をもっていたようだ。生きていたらノーベル賞とも。
『組曲集 フェデリコ・ガルシア・ロルカ未刊詩集』(小海詠二訳/1994年)の詩が俳句のようだと言うことなのだが、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの俳句とは直観的に違う感じがした。
スペイン内戦のときドイツとイタリアは、ヒットラーとムッソリーニがフランコを応援している。ドイツ空軍の爆撃で多くの市民が犠牲になりピカソ『ゲルニカ』を描いたときなのだから、大変な時代の人だ。マドリードに鳩をもった銅像がある。悲劇的な人生だったロルカの俳句に魅力があるに違いない。


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9月24日(火)

2024-09-24 09:55:41 | 日記
曇り、ときどき晴れ
秋草に稲の香りや空が暮れ      正子
秋蝶の斜めの不安薔薇に来て     正子
秋の蚊の黒き一点われに来る     正子

●今朝も涼しい。秋服の人もちらほら。今日は信之先生の月命日。菊の花の形の香を焚く。吾亦紅の暗い赤い色を仏壇に参るたびに見る。

●リルケがハイカイを知ったのはルイ・クーシューから。
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9月23日(月)

2024-09-23 09:26:47 | 日記
晴れ、のち曇り
朝顔をさ揺らす風はさびしくも 正子
夕暮れは秋風草を靡かせる   正子
飯を炊くガス炎青し月を待つ  正子

●今朝は急に涼しくなった。朝9時半の室温26℃。夕方散歩に出たが、長袖を羽織っても風が吹くので肌寒い。晩秋のような感じだ。

(三)リルケと俳句について
●リルケは「ハイカイ」と題した三行の短い詩を作っている。リルケが「ハイカイ」を作るようになったのは、ジャポニスムの影響と言われる。今日は、この事を知りたくて、マイペースではあるが、ネットや本を探して一日を費やした。

ジャポニスムは19世紀に西洋で広がった「日本趣味」の流行と、浮世絵をはじめとする日本美術の技法やアイディアを西洋芸術に取り入れた芸術家たちの運動を指す言葉 とされる。
ジャポニスムは1867年(慶應2年)のパリの万国博覧会、遅れて1873年(明治4年)のウィーン万国博覧会が契機となってブームとなっている。ウィーンの方は、『世紀末ウィーン文化評論集』(ヘルマン・バール著/西村雅樹編訳・岩波文庫2019年刊)や『世紀末ウィーン文化探究』(西村雅樹著.晃洋書房2009年刊)で読むことができて、クリムトに代表される分離派など絵画への影響や蕪村の俳句紹介のことなどについて教えてもらった。

万国博覧会について知るために、国立国会図書館のHPを見てみると「展覧会」のページに「ウィーンのジャポニスム(前編)1873年ウィーン万国博覧会」(西川智之著/言語文化評論集 第XXVII巻第2号)という論文があった。印刷して読んでみると、知りたいところは後編にあるようなので、後編の論文を探すと名古屋大学の論文にあった。「ウィーンのジャポニスム(後編)パリとの比較を中心に」(西川智之著)。これにもヘルマン・バールの事が言及されていた。丁寧に事例が上げられ、疑問に思うこともないと思えたので、理解が深まった気がするし、面白いことも書いてあった。

『リルケ』(星野慎一・小磯仁著/清水書院)に戻って、一度は読んでいるのだが、この本の「序論 リルケと星野慎一」の章に、リルケがハイカイを知った経緯が書かれているので、丹念に読もうと思う。、「序論」とあるが、重要な章である。今日は、二つの論文を読んで面白かったけれど、もう疲れたので、明日の楽しみとする。

●『ドゥイノの哀歌』の第一哀歌に「美は無である、美はなんでもない(das Schoene ist nichts als・・・)」が4行目にあった。(nichtsを「無、なんでもない」と言っていいのかわからないが、ただ理解のために「無、なんでもない」とするが。)なぜか納得してしまう。

das Schoene is nichtsに出会ったあとのこと。お墓に持って行くのに買ってきた花束に竜胆が入っていた。その竜胆を俳句にしたいと思い眺めるが、何を詠んでいいのかさえも思いつかない。そんなときに、das Schoene ist nichts が思い浮かんで、nichts がつよく感じられて、
「りんどうの青濃きことを胸に留め 正子」
の句が浮かんだ。なんとなく、言いたいことが言えたと思えた。”Das Schoene ist nichts.”
これ、今一番気に入っているかもしれない。
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9月22日(日)彼岸

2024-09-22 09:54:25 | 日記
曇り、ときどき小雨
りんどうを抱え第三京浜を   正子
祭壇の秋花いろいろ華やげり  正子
墓前灯に小雨のかかる秋彼岸  正子

●お寺の彼岸法会に息子の元と出席。法会は午後3時から。ときどき小雨が降っていたが、本降りにならずに済んだ。法会のあと祭壇からろうそくの火を分けてもらい墓前灯に移してお墓に灯した。夕方友宏さんが来ることになっていたので、灯したまま帰った。お寺の人が燭台は回収してくれるとのこと。

帰りは家まで元が送ってくれた。第三京浜を90㎞で走るので怖い感じ。私自身は運転免許を返納しているので、車のスピードの感覚がもう無くなっている。急にドイツのアウトバーンを130kmで走った時のことを思い出した。運転手は平気なのだけれど、翌日の新聞に事故で載るんじゃないかと思ったくらい怖かった。

●帰ってから元が自分が送ってきたガスコンロを設置してくれた。「これでコンロは死ぬまで大丈夫。」とお礼を言った。自動でご飯が炊ける機能があるのがミソだといっている。ご飯の粒立ちが違うのだと。初めて使う緊張感で味噌汁をあたためるだけなのに気を使った。




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9月21日(土)

2024-09-21 18:22:26 | 日記
晴れ
花束に竜胆のもの吾亦紅のもの  正子
りんどうの青濃きことを胸に留め 正子
秋彼岸小さき仏に小さき供華    正子

●ヘッセに劣らず、リルケに雲の詩がある。
「かの雲よ ともしきかな/空たかくただよひゆくは」(星野慎一訳)

●明日の彼岸法会とお墓参りの支度。持っていくものをメモに書き出す。このごろ手渡すものを一つ二つ忘れることが多くなった。

●ディアマンクッキー(プレーン、ココア)とスコーン(プレーン、クランベリー)、いなりずしを作る。

クッキーを箱に詰めたら、買ったみたいに。ココア多めにしたので、チョコレート感があって、一枚で十分。中に入れたスライスアーモンドもアクセントになって、ココアだけより良いみたい。オーブンにもかなり慣れた。けど焼きむら。この前から結構よつ葉バターを使っている。

いなりずしは評判の出来合いのあげを使ったのだけれど、自分で味付けすればよかったと後悔。3合炊いたので、ちょうど20個できた。すぐ冷凍。

スコーンは牛乳を使わなくて、ヨーグルト、砂糖はきび糖。腹割れができなかったけれど、味と食感は悪くない。前、生クリームを入れたときは、絶品だったが、そのレシピを紛失。クランベリーは干し葡萄よりすっぱくて、さっぱり感がある。クランベリーの赤色がかわいい。


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9月20日(金)

2024-09-20 11:11:59 | 日記
曇りのち晴れ
ヘッセならと思い見あぐる秋の雲   正子
満つるもの空にふわふわ秋の雲    正子
コピーして詩集を綴じぬ秋のリボン  正子

(五)リルケと俳句について
●信之先生の遺したインゼル書店の『RILKE WERKE2』 から「ドゥイノの哀歌」をコピーした。題名を含んでA4用紙9枚になったので、穴を左端に4つ開け、細いリボンで返し縫いのように綴じて詩集を作った。リボンはごく細く、色はポンパドールピンク。予想外にいい感じにできた。われながらうまく綴じれた。

手元にあるのは、ドイツ語の辞書、『リルケ』(星野慎一・小磯仁著/清水書院)と生成AI。この3つを頼りに読むことにした。生成AIが無ければ、到底読む気にはならなかっただろう。早速AIに発音を訪ねたら、ドイツ人がさらりと発音してくれた。「DUINESER ELEGIEN」「ドゥイネーザー エレギーエン」と読む。

読み始めると、読むにつれ、たぶんリルケの感受性の深さに、頭が痛くなるだろう。手始めに、第一哀歌のはじめをAIに英訳してもらった。日本語の翻訳と比べると、英訳のほうが、言語が近いというより、言葉が軽いというのか、わかりやすい感じがした。これから読み進めるのに安心感ができた。日本語でよくわからなければ、英訳が頼れる。それもわからなかったら、AIに逐一聞く。無謀なプランを立てたものだと思いつつも、今この詩を読む必要があるのだと直感した。老婆の楽しき孤独を邪魔する人はいないだろうから。

●晃さんと、祥子さんに電話。祥子さんに花冠No.371 (7月号)を贈る。
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9月19日(木)彼岸の入り

2024-09-19 22:18:16 | 日記
曇り
つゆ草と葛の花とを今朝の供華  正子
葛の花芳しき香を頭上より    正子
塩むすび飯の白さは秋の昼    正子

●自由な投句箱の「今日の秀句/9月18日」のコメントに生成AIのコメントと、自分のコメントを初めて貼り付けた。有花さんの句だったが、有花さんの感想は、以下のようであった。

多田有花さんの感想:
生成AIはこのようなこともできるのですね。驚きました。
大変興味深く読ませていただきました。
早速これを俳句鑑賞に導入しておられるところに信之先生の面影を感じました。

生成AIが文学にどのように役立つか今年の1月半ばごろから、試している。政府が生成AIの活用を進める発言をしたせいもあるのか、6月ごろから、生成AIの回答の精度が向上したように思ったので、実際に俳句のコメントに使った。

●祥子さんから残暑お見舞いのカード。「俳句を作っています。」のお便りに加え
3句俳句が入っていた。あと12句作ってもらって、次号に掲載できれば、うれしい。

●ディアマンクッキーを成形までして、冷凍庫に保存した。プレーンとココア。ココアの方に肝心の塩一つまみを入れ忘れた。土曜日に焼く予定。日曜日は彼岸法会で長男に会うので持たせる。この前東急の洋菓子店で、ディアマンクッキーにそっくりのクッキーが2枚ずつ小さな袋に入れて売られているのを見た。次行ったとき、買ってみよう。2枚で184円。

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9月18日(水)満月

2024-09-18 08:46:29 | 日記
晴れのち曇り
草露のきらりきらりと無月なり 正子

●ネット短信No.423を昨日23時頃送信。洋子さんから返信。
●文学作品の批評について思うこと。
自由な投句箱に毎日俳句が15句ほどが投句される。秀句を1句か2句を選び、コメントをつけること、文脈上や文法の間違い、表現の曖昧さなどを指摘して私が訂正をするか、作者に訂正をうながすのが、私の毎日の仕事としてある。選句とコメントをする作業なのだが、これを間違えると、俳句指導者として体をなさない。インターネット上であるので、慎重なコメントが要求される。投句された俳句を「もっとも高く評価する」にはどう批評しコメントすればよいのかが、問題なのだ。批評の役割は作品の価値を決めることだ。そして、批評の言葉は「・・・と思う」で終わる。決して学術論文のように「・・・である。」では終わらない。

文学作品の批評の方法は古い方法から最近の方法までさまざまと言える。
1作家論、2作品論、3テクスト論、4読者論、5イデオロギー論、6比較文学論、7歴史的批評、8心理学的批評、9新批評 など。これらひとつだけでなく、組み合わせて行われる場合がほとんどだろう。

このなかでテクスト論は読者論と近いとも言われているが、1980年ごろから、俳句の批評もテクスト論から批評されているのではないか、と思う批評によく出会うように思う。個人的には、テクスト論がよくわかっていないこともあって、この論で俳句を批評する危うさを感じている。テクスト論は構造主義、ポスト構造主義が日本で流行ったころから批評の主流を務めているように思っている。フランスの思想家ロラン・バルトが「作者の死」ということを言いだしたこともある。

危うく感じていることを少しはっきりさせるためにとりあえずの問いを生成AIにしてみた。生成AIを使う場合、生成AIの答えは「これまでの」知の集積からの返事であることに気を付けなければいけないことだと思う。世間知からの答えということで、危ないと言えるが、とりあえずの反応はわかる。

言葉の多義性と言葉の厳密性に矛盾はないか、恣意的解釈をどう防ぐか、真理は読者それぞれにあるか、解釈の根拠がはっきりしているか、内容の深みをどのように捉えるか、文脈とはなにか、がAIと論じた主なテーマ。

私:解釈は読者それぞれに任されるが、そのとき、読者は恣意的に解釈しないか。
AI:解釈の根拠がはっきりしていれば、防げる。
私:では、「根拠」は何によって根拠となっているのか。
AI:文脈である。
私:では、俳句において「文脈」は何を指すのか。
AI:「季語」「切れ字」「読者の背景」「作品の意図」「作品の発表された歴史的な時期」。
私:テクスト論では、言葉の多義性が作品の豊かさとなっているが、内容の深まりはどのように評価するのか。
AI:確かに内容の深まりは劣る。
私:言葉遊びを意図した俳句はどのように評価されるか。
AI:表現の豊かさとして評価が高まる。
私:言葉の厳密性と言葉の多義性は矛盾しないか。
AI:文脈がはっきりしていれば、根拠がはっきりするので、その矛盾は起こらない。

ここでロラン・バルトが、作品は読者に読まれて完結すると言う意味のことを言ったことを思いだすが、私も、俳句の場合は読者の解釈があって、完結すると思うと結論を出している。が、ここに来て、ロラン・バルトの言う「読者に読まれて完結する」意味と、俳句が「読み手に読まれて完結する」ことに、今日は、なにか違うような気がしてきた。現代俳句では、主語が省略され、そして省略されるのは一人称となっている。ロラン・バルトの言う「作者の死」は一人称の死ではないのか。「一人称は死んでよいのか」と考えれば、ロラン・バルトを俳句に当てはめるのは、限界があると言えるのではと思った。しかし、言語遊戯の俳句は「作者の死」によってさらに表現は豊かさを得るだろうし、多層的に解釈されることにより、作者の意図を越えさらに価値が膨らむことがある。それを作者が歓迎することの方が多いというのがAIの答えだ。そうなれば、世間で評価をうけるのは言語遊戯にはじまる、存在の軽さを読む俳句が多層的な意味をもつことで評価されるようになる。発表された作品はひとり歩きを始めるというが、まさにこのことだろう。

俳句が多義的、多層的に読まれることを許されるのは「根拠」がある場合とされるが、「根拠」が明確でない批評もある。そいうことから、今主流の俳句批評としてのテクスト論に違和感を覚えないでもない。

俳句の読み取り方、解釈の仕方について、私は俳句の師である川本臥風先生から、「俳句を作った人の身になって俳句を読むように」と言われた。「俳句を作った人に寄り添って」ではない。「作者に読み手の身を置き換えて」なのだ。この教えを受けたのは俳句初学のころで、1960年代半ばである。この読み方による批評の方法は、「作家論」的と言えよう。まだ構造主義、ポスト構造主義が日本で言われ出す前の事だ。実際、この方法で批評すると、俳句の作者は「自分のことがよくわかってくれた。詠んだ景色はその通りだ」ということで、批評に納得し、自己実現をしたかのように喜ぶ。詠み手として作者は尊重されているのだ。アマチュア俳人にこの傾向が強いと思われる。それは俳句が金銭に関係ないからでもある。

俳句を多角的に評価するためには、一句が17字音の余りにも短いことによって、俳句をあまりに単純な評価で終わらせているのではないかと思えた。もちろん、句集と言うケースを考えた場合はおおむね多角的になされる。テクスト論は読者にゆだねられる分、わかりやすい一面をもっているとも言えるが、ジャーナリズムのように変化流動するものによるテクスト論による高い評価には、不備がともなっていることを、よくよく知らなければならないだろうと思う。
俳句の批評についてAIと論争して気づいたのは、「俳句の短さが起こす批評の不備と批評の安易さ」と言うことだった。
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9月17日(火)十五夜

2024-09-17 19:59:30 | 日記
晴れ
秋の蚊の仏の前に来て止まる    正子
十五夜に虫いろいろと鳴きだせり  正子
十五夜の樹々のそよぎが方々に   正子

●今夜は中秋の名月。朝は少し心配したが、昼は完全に晴れて、夕方は十五夜の月が昇った。いつもは夕方には閉める仏間のカーテンを開けたままにした。月光が差し込めば申し分ないが、そんなことは起きそうにない。

今朝は4000歩ほど歩いたので、あと少し歩こうと十五夜が昇ったころ、URの団地に散歩に出かけた。草の中から、こおろぎ、鉦叩、青松虫も混じっていろんな虫の声が聞こえる。大きい虫、小さい虫もいるのだろう。ちょうど団地の真ん中あたりにあるバス停にでたところで、3,4人がスマホを掲げて十五夜を撮っている。70代ぐらいの女性が来て、スマホで十五夜の写真を撮ったと、見ず知らずの私に写真を見せてくれた。「きれいに撮れてますね」というと、「毎年、このバス停から撮るんですよ。子供が小さい時は十五夜には薄やお団子を供えたものですよ。今は、何にもしません。」と言いながら自宅のほうへ向かった。URのコンフォール南日吉のバス停は月見スポットのようだ。十五夜のバスに乗る企画いいかも。コンフォール南日吉から日吉駅東口までの15分ほど。こんど10月15日の十三夜にひとりで実行しようか。帰りは地下鉄グリーンラインで一駅2分。

●信之先生がまだ元気だったころ、ネットで十五夜句会をした。日本各地から現在進行形で中秋の名月を読む企画。月が見えたところもあれば、雲に隠れたところも。ある年には雨月だったことも。みんな今より若くて、楽しかった。わが家の子どもたちは本当に子どもだった。



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9月16日(月)敬老の日

2024-09-16 18:16:26 | 日記
暁に雨、のち曇り
黒葡萄洗えば白くひかる粒   正子
さらばえし朝顔一本抜き捨てる 正子

●敬老の日なのだが、病院が開いていて、朝8時半ごろ出かけ、循環器の検査いろいろ。薬を飲んでの上でのことだが、どこも悪くないそうだ。待ち時間に文庫本の『シッダールタ』を読んでいた。インドなのに無花果の木がでてきたけれど、あるのかなと思った。それで、ネットで調べると「インド菩提樹」がクワ科イチジク属とあった。インド菩提樹をイチジクの木と訳しているのかなと思った。普通のイチジクもインドで栽培されているとある。日本で菩提樹と言われるのは、西洋菩提樹でリンデンバウム。日本ではインド菩提樹は育たないらしい。

昨日は『デミアン』を読んだが、エヴァ夫人と言うのが気になる。母性的なものを表しているのだろう。『ファウスト』でも、女性的なものが問題となっている。このところ母性的なもの」について、あまり言われないのではと、ふと思った。「母性的なもの」は男性目線なのかもしれないが、かならずしもジェンダーの問題ではないような気がする。

ヨーロッパの小説など読むと、なぜと思うところに必ずユダヤ問題がある。よほど深く入り込んでいる。かの詩人もこの詩人も、何故自殺したのかと経歴など見ると、ユダヤ人なのだ。読んだあとにわからなさが残る。信之先生の本棚に「ユダヤ人」と帯に書かれている本が目に入った。ずっと前からあって、目には入っていたのだろうが、気に留めていなかった。取り出して中を見る。読んでみたいが、目がちらちらする。いままで読まないで来たことにここに来て、し訳ない気持ちがしたが、今やっと自分の時間ができたのだから、しょうがないよと言う気持ちもある。
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