■鳥居、社號標■
(16th December 2008)
★石切劔箭社上之宮★ 大阪府東大阪市上石切町1-10-24
・延喜式内社、河内國河内郡、石切劔箭命社二座。
・舊社格は村社。
・祭は上之宮に天照國照彦火明櫛玉饒速日命、下之宮(現本社)に宇摩志摩治命(可美眞手命)。
・上之宮が元は本社であったという。
・石切劔箭命社の二座、上之宮一座、下之宮一座なのか、どちらかに二座であったのかは不明。
・室町時代に社殿及び寶庫が兵火にかかり燒失し、社傳等は不明。
・上之宮背後の宮山と呼ばれる山腹の平坦地は當社飛地境内地となっており、土器などが多數出土し、かつては燈籠や手水鉢も存在したという。
・上之宮、下之宮ともに創建より鎭座地は同じである。
・天文五年(1536)に當社社家木積氏の祖藤原行春大人の記した『遺書傳來記』によると、よると、武天皇二年(紀元前659)、天から十種の瑞寶を賜り、天磐船に乗って河内の哮峯に降臨した饒速日命を宮山に祀り、さらに崇天皇の御代、下之社に可美眞手命が祀られたと記されている。
・明治五年(1872)六月、上之宮を下之宮に合祀、十二月二十五日に再び、分離した。明治四十年(1907)十一月、再び、下之宮に上之宮を合祀。昭和四十七年(1972)、上之宮舊社地に上之宮を再建。
・哮峯は一般に生駒山のことといわれているが、生駒山麓の下之宮(現本社)、山腹の上之宮、宮山を結んだ線のほぼ延長線上に生駒山頂があり、宮山が生駒山に降臨した祖神降臨の地として祭祀が行われた地と推定される。
・「武天皇蹴上石」という靈石を體とする。
■拜殿■
(16th December 2008)
■本殿■
(16th December 2008)
■石切の御瀧■
(16th December 2008)
■末社婦道社■
(16th December 2008)
・祭神は弟橘姫命。
■境内社石切登美靈社■
(16th December 2008)
・祭は三炊屋媛命(登美夜毘賣命)。饒速日命の妃で、宇摩志摩治の母。
・體は磐座。
((コメント))
2008年12月16日
人の少ない寂しげなところであった。何か、殘念ながら何も感じない状態であった。宮山というところにいかねば何も感じないのかもしれない。登美靈社には大層に磐座が祀られていたが、近づけないし、大層に釀し出している雰囲氣作りが邪魔で特にいい印象は皆無であった。
(16th December 2008)
★石切劔箭社上之宮★ 大阪府東大阪市上石切町1-10-24
・延喜式内社、河内國河内郡、石切劔箭命社二座。
・舊社格は村社。
・祭は上之宮に天照國照彦火明櫛玉饒速日命、下之宮(現本社)に宇摩志摩治命(可美眞手命)。
・上之宮が元は本社であったという。
・石切劔箭命社の二座、上之宮一座、下之宮一座なのか、どちらかに二座であったのかは不明。
・室町時代に社殿及び寶庫が兵火にかかり燒失し、社傳等は不明。
・上之宮背後の宮山と呼ばれる山腹の平坦地は當社飛地境内地となっており、土器などが多數出土し、かつては燈籠や手水鉢も存在したという。
・上之宮、下之宮ともに創建より鎭座地は同じである。
・天文五年(1536)に當社社家木積氏の祖藤原行春大人の記した『遺書傳來記』によると、よると、武天皇二年(紀元前659)、天から十種の瑞寶を賜り、天磐船に乗って河内の哮峯に降臨した饒速日命を宮山に祀り、さらに崇天皇の御代、下之社に可美眞手命が祀られたと記されている。
・明治五年(1872)六月、上之宮を下之宮に合祀、十二月二十五日に再び、分離した。明治四十年(1907)十一月、再び、下之宮に上之宮を合祀。昭和四十七年(1972)、上之宮舊社地に上之宮を再建。
・哮峯は一般に生駒山のことといわれているが、生駒山麓の下之宮(現本社)、山腹の上之宮、宮山を結んだ線のほぼ延長線上に生駒山頂があり、宮山が生駒山に降臨した祖神降臨の地として祭祀が行われた地と推定される。
・「武天皇蹴上石」という靈石を體とする。
■拜殿■
(16th December 2008)
■本殿■
(16th December 2008)
■石切の御瀧■
(16th December 2008)
■末社婦道社■
(16th December 2008)
・祭神は弟橘姫命。
■境内社石切登美靈社■
(16th December 2008)
・祭は三炊屋媛命(登美夜毘賣命)。饒速日命の妃で、宇摩志摩治の母。
・體は磐座。
((コメント))
2008年12月16日
人の少ない寂しげなところであった。何か、殘念ながら何も感じない状態であった。宮山というところにいかねば何も感じないのかもしれない。登美靈社には大層に磐座が祀られていたが、近づけないし、大層に釀し出している雰囲氣作りが邪魔で特にいい印象は皆無であった。