の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

石切劔箭社上之宮

2011年11月12日 23時09分42秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■鳥居、社號標■
(16th December 2008)



★石切劔箭社上之宮★ 大阪府東大阪市上石切町1-10-24

・延喜式内社、河内國河内郡、石切劔箭命社二座。

・舊社格は村社。

・祭は上之宮に天照國照彦火明櫛玉饒速日命、下之宮(現本社)に宇摩志摩治命(可美眞手命)。

・上之宮が元は本社であったという。

・石切劔箭命社の二座、上之宮一座、下之宮一座なのか、どちらかに二座であったのかは不明。

・室町時代に社殿及び寶庫が兵火にかかり燒失し、社傳等は不明。

・上之宮背後の宮山と呼ばれる山腹の平坦地は當社飛地境内地となっており、土器などが多數出土し、かつては燈籠や手水鉢も存在したという。

・上之宮、下之宮ともに創建より鎭座地は同じである。

・天文五年(1536)に當社社家木積氏の祖藤原行春大人の記した『遺書傳來記』によると、よると、武天皇二年(紀元前659)、天から十種の瑞寶を賜り、天磐船に乗って河内の哮峯に降臨した饒速日命を宮山に祀り、さらに崇天皇の御代、下之社に可美眞手命が祀られたと記されている。

・明治五年(1872)六月、上之宮を下之宮に合祀、十二月二十五日に再び、分離した。明治四十年(1907)十一月、再び、下之宮に上之宮を合祀。昭和四十七年(1972)、上之宮舊社地に上之宮を再建。

・哮峯は一般に生駒山のことといわれているが、生駒山麓の下之宮(現本社)、山腹の上之宮、宮山を結んだ線のほぼ延長線上に生駒山頂があり、宮山が生駒山に降臨した祖神降臨の地として祭祀が行われた地と推定される。

・「武天皇蹴上石」という靈石を體とする。


■拜殿■
(16th December 2008)
 


■本殿■
(16th December 2008)
 


■石切の御瀧■
(16th December 2008)
 


■末社婦道社■
(16th December 2008)
 

・祭神は弟橘姫命。


■境内社石切登美靈社■
(16th December 2008)

 

・祭は三炊屋媛命(登美夜毘賣命)。饒速日命の妃で、宇摩志摩治の母。

・體は磐座。


((コメント))

2008年12月16日

 人の少ない寂しげなところであった。何か、殘念ながら何も感じない状態であった。宮山というところにいかねば何も感じないのかもしれない。登美靈社には大層に磐座が祀られていたが、近づけないし、大層に釀し出している雰囲氣作りが邪魔で特にいい印象は皆無であった。

長尾瀧

2011年11月12日 22時42分36秒 | 
■雄瀧■
(16th December 2008)



★長尾瀧★ 大阪府東大阪市東豊浦町

 東大阪市名勝

・吉野山の金峯山寺藏王堂大阪別院である天龍院境内にある。

・生駒山唯一の瀑布という。

・上下二段に分かれる。

・天正十一年(1583)、前関白近衞前久がこの地を訪問している。

・寶暦八年(1758)、佛復興を唱え、梵學者としても著名な慈雲尊者が雄瀧上流に雙龍庵を建て、修験、著作、詩歌に專念した。


■雌瀧■
(16th December 2008)



((コメント))

2008年12月16日

 近鉄額田駅の近くまで歩き、そこから山のほうへ住宅地を抜けて行き、そのはずれにて、長尾瀧の看板が見えたのでいくことに。噂には聞いていたが、修験道などの宿坊、お堂、建物ごとに宗法人が違い、荒廃した修行場、というか、どんよりとした氣がうねっていて氣分が惡くなるようなところであった。

 瀧に到着するも、雌瀧は「お前、これを瀧と呼ぶのか?」というような作り物となっており、雄瀧は小さな淨めの瀧であり、苦労して見に行った甲斐が明らかにない無駄な時間となってしまった。もう二度と行くまい。