の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

八坂社

2010年12月04日 15時14分40秒 | 近畿(滋賀、京都)
■境内■
(3rd November 2007)



★八坂社★ 京都府京都市東山区祇園町北側625

・二十二社の下八社の一。
・舊社格は官幣大社。

・祭は素盞嗚命、稻田比賣命、八柱御子。

・明治以前は、祇園感院、祇園社と稱したが、明治の佛分離に際し、八阪社と社名を改めた。

・創建年代は不詳で、現在地に鎭座した時期を示す史料がない。

・『八坂鎭座大記』は、齋明天皇二年(656)、韓國の調進副使用伊利之使主が来たとき、新羅の牛頭山の素戔嗚尊を祀ったとしているが、素盞嗚に關しては備後からの傳承があり、八坂社は、素盞嗚總本宮を自稱していることもあり、他の歴史的に認められている史書からの記事がない限り、その記述を信用するのは危険である。

・創祀傳承としては、貞觀十八年(876)、南都の圓如上人が祇園林に一堂建立し、薬師如來を祀ったとする『社家條條記録』の説、明石浦にあった牛頭天王が廣峯に移り、そこから山城北白川の東光寺、さらに元慶年中に感院へ遷ったという『二十二社註式』の説などがあるが、おそらく、後者が事實に近いのではなかろうか、と思われる。

・本來、祇園社は佛習合の社であり、元は奈良興寺の末にあり、理由は不明ながら、天延二年(974)、比叡山延暦寺の別院となった。しかし、その後も興寺が支配権を主張し紛争を起こしていることからも、あまり円滑におこなわれたものでなかったことがわかる。

・江戸時代の氏子圏は二條大路から五條大路までの京内中心部であったが、鎌倉時代後期の文書などから、鎌倉時代末期ごろから氏子圏はそれに近いものであったと思われる。

・日本三大祭の一つとされる例祭祇園祭は元元は祇園御靈會と呼ばれた。

・中世以降、多くの商工業座が當社を本所としたために、經済的に豐かであり、大掛かりな祇園御靈會の維持、運営を大きく助けることになり、今の祇園祭に至っている。


■拜殿■
(3rd November 2007)
 


■本殿■
(3rd November 2007)


 國重要文化財

・承應三年(1654)の建築物。
・祇園造と呼ばれる獨特な建築形式で本殿と拜殿を一つの入母屋屋根で覆った様式。


((コメント))

2007年11月3日

 夜ではあるが、燈りが点いていて、普通に參拜できる環境にあるようである。人の切れ間を見て、写眞を撮影したが、秋の夜間拜觀の時期ということもあり、かなり多くの人の姿が見られた。

豐國社

2010年12月04日 15時06分39秒 | 近畿(滋賀、京都)
■鳥居■
(3rd November 2007)
 


★豐國社★ 京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町530

・舊社格は別格官幣社。

・祭は豐臣秀吉。

・豐臣秀吉死去の翌年の慶長四年(1599)、遺體が遺命により方廣寺の近くの阿彌陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方廣寺の鎭守社として廟所が建立されたのに始まるとされる。

・後陽成天皇から正一位の階と豐國大明の号が贈られ鎭座祭が盛大に行われた。

・元和元年(1615)、豐臣宗家が滅亡すると、川幕府により号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされ、體は新日吉社にひそかに移し、祀られた。

・明治元年(1868)、明治天皇の大阪行幸の際、豐臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豐國社の再興を布告。

・明治十三年(1880)、方廣寺大佛殿跡の現鎮座地に社殿が完成、遷座となる。


■唐門■
(3rd November 2007)

 
國寶


■拜殿■
(3rd November 2007)
 


((コメント))

2007年11月3日

 殘念ながら、何かの作業中で、唐門から先へ入ることは出來なかった。特に、何かを感じるということはなかったが、立派な門であった。

耳塚(鼻塚)

2010年12月04日 14時57分58秒 | 歴史上人物の墓所
■耳塚■
(3rd November 2007)



耳塚(鼻塚) 京都府京都市東山区茶屋町

 國史跡

・豐臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役:1592~1598)において、戰功の證として討ち取った朝鮮、明國兵の耳や鼻をそぎ落とし持ち帰ったものを葬った塚。

・當初は「鼻塚」と呼ばれていたが、林羅山がその著書『豐臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼稱が廣まったとされる。

・二万人分の耳と鼻が埋められている。


((コメント))

2007年11月3日

 豐臣秀吉の傳記や日本史の教科書を通して存在は知っていたが、訪れるのは初めてであった。全く殘酷なことをしてきたものであった。豐臣秀吉はやはり、若いときから明るいイメージの裏側に非常に殘酷な一面を持っていったが、諌める事のできた弟小一郎秀長の死後は加速的にその裏の一面が表に出るようになってきた。その醜い彼の事業の一つがこの戰さであり、日本と韓國の間にしこりを殘す原因の一つとなっている。大阪では「太閤さん」といって人氣があるものだが、彼を慕う人間の氣持ちがわからない。