の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

切通瀧

2010年11月27日 13時22分46秒 | 
■切通瀧■
(12th June 2010)



★切通瀧★ 島根県松江市八雲町日吉

 江戸時代の初めまで、日吉村では意宇川が毎年氾濫し、多くの死者や田畑の損害を出して村は壊滅状態にあった。原因は意宇川がこの日吉地区で劔山という岩山に行く手を阻まれ、劔山の山裾を回る形で大きく蛇行しているためであった。村の大百姓周藤彌兵衛家正が、川がまっすぐ流れるように劔山を開削するようにと松江藩に陳情したが、「小さな村にそのような大工事はどうか」となかなか決まらなかったが、名君といわれた藩主松平直正が取り上げ、三年かけて劔山は切り抜かれ、意宇川はまっすぐ流れるようなった。しかし、切り抜かれた幅が狭く、その後も何度も氾濫が起き、切通しの幅を広げるよう藩に陳情したが、財政難を理由に取り上げられなかった。家正の陳情による工事のg五十二年後、当時五十六歳になる家正の孫の彌兵衛良刹は、藩の支援を待っていたら永久にできないと考え、私財を投じ、切通しを拡大することを決意して工事を開始、私財が底をついて人を雇う事ができなくなると、一人で鑿を持って岩を削るなどの苦労の末、四十二年かけ、延亨四年(1747)に切通しの拡張を完成させた。時に良刹九十七歳であったという。


((コメント))

2010年6月12日

 地図には「切通の滝」とだけ書かれている劔山山麓の意宇川の一部。劔山に鎭座の劔社に行くための目安となる位置にあるのだが、實は、村のために一人、命をかけて、工事をした方の遺した遺産ともいうべき所なのである。義民に相當する人である。


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