■堀内氏善墓所■
(1st March 2009)
★堀内氏善墓所★ 三重県熊野市有馬町 安楽寺境内
熊野市史蹟
・有馬榎本家を乘っ取った楠若こと堀内氏善の墓所。
・天文十八年(1549)生、慶長二十年四月十日(1615.5.7)沒。
・父は堀内氏虎。
・通稱安房守。
・はじめ、熊野を領し堀内氏と對立していた熊野有馬氏が、内紛により衰退、當主有馬孫三が子なく死去し、弟はいたが、乘っ取るような形で氏善は養子に入った。孫三の弟有馬中務はその後、九鬼目代となり、その後、この一族は九鬼氏を名乘るようになった。
・天正二年(1574)、父氏虎の死後、早世した兄氏の蹟を繼ぐかたちで、新宮城主となる。
・天正四年(1576)、北畠信雄と當時志摩國であった三鬼城、紀伊長島城を巡って爭ったが(『勢州軍記』)、天正九年(1581)、織田信長から知行として熊野社領分を與えられ、織田氏に仕えるようになったという。
・信長の死後、天正十年(1582)の山崎の戦いにおいて、柴秀吉に屬して七千石を加されたという。その一方で紀伊國北部に侵攻し、中村山城などを攻め落とした。また志摩國英虞郡の荷坂峠以南を紀伊國牟婁郡に編入したため、現在の尾鷲市と紀北町、大紀町の錦地區が紀伊國の一部となった。
・秀吉の紀州征伐に對して當初、抵抗の姿勢を示したが、天正十三年(1585)、降伏して本領を安堵。紀州平定後の檢地に反對する地侍や農民の一揆には、秀吉方として一揆の討伐に參加している。
・秀吉の四國攻めや小田原征伐、文祿慶長の役の晋州攻めや蘇州古城守備に五百七十四人の熊野水軍を率いて從軍し活躍、天正十九年(1591)には、熊野惣地に任命された。
・慶長五年(1600)、關ヶ原の戰いでは、石田三成の勸めで牟婁郡八萬石と引き換えに義父九鬼嘉と共に西軍に屬し、約三百五十を率いて伊勢へ侵攻するが、味方主力の敗報を聞き逐電、同年十月には居城新宮城も東軍に屬す和歌山城主桑山一に攻め落とされ所領を失い、天正十六年(1588)の北山攻めの際に築いた京城に落ち延びたが、その後、紀伊國加田村に蟄居。
・西軍への加担は消極的であったとの理由で許され、熊本藩主加藤正に仕え二千石を知行、宇土城の城代(慶長十七年に城が破却され任を解かれる)となったが、慶長二十年(1615)に熊本城で病死。
((コメント))
2009年3月1日
私にとれば、先祖の敵とも言うべき御仁であるが、それもまた戰國の習い。しかも、有馬忠親の自滅だけになんともいえない。しかし、關が原で敗れ、改易になり、死を迎えた後も新宮ではなくこの地にて弔ってもらったとは、實は人望のある人であったのかもしれない。
(1st March 2009)
★堀内氏善墓所★ 三重県熊野市有馬町 安楽寺境内
熊野市史蹟
・有馬榎本家を乘っ取った楠若こと堀内氏善の墓所。
・天文十八年(1549)生、慶長二十年四月十日(1615.5.7)沒。
・父は堀内氏虎。
・通稱安房守。
・はじめ、熊野を領し堀内氏と對立していた熊野有馬氏が、内紛により衰退、當主有馬孫三が子なく死去し、弟はいたが、乘っ取るような形で氏善は養子に入った。孫三の弟有馬中務はその後、九鬼目代となり、その後、この一族は九鬼氏を名乘るようになった。
・天正二年(1574)、父氏虎の死後、早世した兄氏の蹟を繼ぐかたちで、新宮城主となる。
・天正四年(1576)、北畠信雄と當時志摩國であった三鬼城、紀伊長島城を巡って爭ったが(『勢州軍記』)、天正九年(1581)、織田信長から知行として熊野社領分を與えられ、織田氏に仕えるようになったという。
・信長の死後、天正十年(1582)の山崎の戦いにおいて、柴秀吉に屬して七千石を加されたという。その一方で紀伊國北部に侵攻し、中村山城などを攻め落とした。また志摩國英虞郡の荷坂峠以南を紀伊國牟婁郡に編入したため、現在の尾鷲市と紀北町、大紀町の錦地區が紀伊國の一部となった。
・秀吉の紀州征伐に對して當初、抵抗の姿勢を示したが、天正十三年(1585)、降伏して本領を安堵。紀州平定後の檢地に反對する地侍や農民の一揆には、秀吉方として一揆の討伐に參加している。
・秀吉の四國攻めや小田原征伐、文祿慶長の役の晋州攻めや蘇州古城守備に五百七十四人の熊野水軍を率いて從軍し活躍、天正十九年(1591)には、熊野惣地に任命された。
・慶長五年(1600)、關ヶ原の戰いでは、石田三成の勸めで牟婁郡八萬石と引き換えに義父九鬼嘉と共に西軍に屬し、約三百五十を率いて伊勢へ侵攻するが、味方主力の敗報を聞き逐電、同年十月には居城新宮城も東軍に屬す和歌山城主桑山一に攻め落とされ所領を失い、天正十六年(1588)の北山攻めの際に築いた京城に落ち延びたが、その後、紀伊國加田村に蟄居。
・西軍への加担は消極的であったとの理由で許され、熊本藩主加藤正に仕え二千石を知行、宇土城の城代(慶長十七年に城が破却され任を解かれる)となったが、慶長二十年(1615)に熊本城で病死。
((コメント))
2009年3月1日
私にとれば、先祖の敵とも言うべき御仁であるが、それもまた戰國の習い。しかも、有馬忠親の自滅だけになんともいえない。しかし、關が原で敗れ、改易になり、死を迎えた後も新宮ではなくこの地にて弔ってもらったとは、實は人望のある人であったのかもしれない。