2022年11月14日(月)
イエス・キリストの墓とイエスの長男である綏靖天皇の墓との二点でタレスの定理から、直角三角形となる地点に何があるのかを見ていくと、日本武尊陵、応神天皇陵、仁徳天皇陵が存在しています。
これは偶然でしょうか。 そんなことはありません。 それらの天皇陵を造営したときに最大に意味ある場所にポイントを求めたということになります。要するに、イエスの墓と、その長男である綏靖天皇の墓を知っていたということです。
2022年11月14日(月)
イエス・キリストの墓とイエスの長男である綏靖天皇の墓との二点でタレスの定理から、直角三角形となる地点に何があるのかを見ていくと、日本武尊陵、応神天皇陵、仁徳天皇陵が存在しています。
これは偶然でしょうか。 そんなことはありません。 それらの天皇陵を造営したときに最大に意味ある場所にポイントを求めたということになります。要するに、イエスの墓と、その長男である綏靖天皇の墓を知っていたということです。
2022年6月9日(木)
瀬戸内海に浮かぶ弓削島の古法皇山は、弓削の道鏡を祀る山だともう10年前になるでしょうかぁ・・私は教えられていました。
その古法皇山と、応神天皇の代に弓月の国から19万の民を連れてやってきたという弓月王の墓と、道鏡の墓は、2:1:√3の直角三角形を描いています。
孝謙・称徳天皇の墓との関係性も見事に空海コードで成立します。
大西さん、メールに書かれていた推理は正しかったですよ。
そして・・道鏡の父親も分かりました。
武部さん、道鏡さんの墓参りに行って、それから孝謙天皇の墓へと道鏡さんをお連れせねばならないようです。
重要な任務です。よろしくお願いいたします。 ・・つづく
2022年5月4日(水)
「安栖里に来ているんですけど・・、笠福神の場所が分かりません」と言われる方、多々あります。
昨日も小谷さんから椿さんの携帯にメールがあったとのことでしたが、メールに気づいたのは1時間後だったので、小谷さんは笠福神に会えなかった御様子。
目標は先ず、安栖里にある道の駅「和」ですね。
そしてそこから、南に大きな交差点があって、南の突き当りの壁際の道を右(西)へと上って行って左にカーブして狭い狭い踏切を渡ります。
ちょっと注意が必要です。そして渡って左にカーブして行きます。そこから三叉路が二つありますがまっすぐ進みます。すると右手に大きな住宅の右手前に消火栓標識が立っています。
祠と消火栓の標識の間に、微笑ましい笠福神は立っていま~~す。
そこまで行かれましたら、「十倉先祖塚」までも手を合わせに行きましょうかね。
安栖里は応神天皇の思い出の地でしたよ。
消火栓が目印になりそうですね。
2022年4月8日(金)
いつも私のブログを見てくれているnmmy328さん。
それでnmmy328さんのブログを覗いてみると、『八桙神社は凄い!』というタイトルなので、神社の由緒を読ませていただいた。
するとそこの祭神は、「大己貴命」と「少名彦命」となっているので、地理院地図でその神社の上にある古墳と思われる場所にポイントを打って、大己貴=大国主=イエス・キリストなので、イエス・キリストの墓にポイントを打って、線で繫いでみた。
そして空海コードで教えるポイントを導き出すと・・、「大旗山(揚柳山)」を教えた。そのポイントの3点で見事に2:1:√3の絶対基本形である。
私にはその場所のコンターラインからそこは女性の墓と響いてきた。
それで今度は、イエス・キリストの墓とその場所とを結んでそこから空海コードで次のポイントを探すと「仲津姫皇后陵」が導き出された。
それで仲津姫皇后陵がどこに向けて造営されているかを見ると、阿波三峰(あわさんぽう)の一つの『中津峰』にピッタリ向けて造営されている。
これはもう、疑う余地はありません。応神天皇の皇后となった仲津姫の思い出の場所は阿波の中津峰だと申して居られます。
そして仲津姫は大己貴=大国主=イエス・キリストの血を引いているとおっしゃられていますよ。
nmmy328さんありがとうございました。
明日のセミナー、楽しみにしています!
津峯神社へも行かされました。 中津峰山如意輪寺にも行きましたね。
2022年2月15日(火)
謎の継体天皇は、投馬国の首長であり初代出雲(伊投媽)の大王、弥弥(彌彌)の血や、応神天皇の血を受け継いでいると言ってますね。
そして・・、蘇我入鹿は継体天皇の血を引いていると空海コードは教えています。
継体天皇の墓から蘇我入鹿の墓までと比叡山延暦寺までの距離は、共に18.56㎞とピッタリ同距離です。
空海コードと申しますか、天台宗系と真言宗系、修験道達の恐るべし世界があるようです。
天皇たちは、恐るべし掟の世界に亡骸を委ねました。
2021年9月22日(水)
卑弥呼は男の子を一人授かりました。
そして年頃になって素戔嗚尊直系の里である安栖里からお嫁さんが埴岡の里に嫁いできました。
そしてお嫁さんは、二人の娘さんを授かりました。
卑弥呼の二人の孫娘誕生です。さぞかし可愛かったことでしょう。
卑弥呼61歳で初孫誕生でした。卑弥呼の子24歳の時の話でございます。
長女と次女は4歳違いでした。
下の娘さんには、女 女 男 と三人ができました。この男の子が応神天皇です。33歳の時の子供でした。
そして上の娘さんには、女 女 女 男 男 と5人の子宝に恵まれたが、長女と次男は子供の時に亡くなった。
上の娘の次女が20歳で朝鮮高句麗王に嫁いでいった。この姫君が賀志波比売大神である。嫁ぐまで『栗』で暮らした。
賀志波比売の直系の血を引いていたのが『ジュリアおたあ』である。このことを秀吉も知っていたし家康も知っていた。
高句麗王と賀志波比売との間に生まれた子が、応神天皇の代に19万の民を引き連れて日本にやってきた弓月君こと融通王である。
三女は天皇家に嫁いだ。上の娘の長男が大田田根子である。
18日(土)未明私は突然起こされたようであった。
朝鮮半島あたりで時間調整していたかのように停滞していた台風14号は、一気に関門海峡から瀬戸内に入り込んで、18日未明に朝鮮半島から数々の御霊たち御一行様方をお連れしたようであった。
そして前日まで予定していなかった場所を何者かが突然指定してきた。
「真っ先に卑弥呼の孫のお姉ちゃんの墓に行ってほしい・・」と。
今まで妹と母の墓にはお参りして、お姉さん墓へは気になって気になっていましたが、やっとその時が来たと言うことでした。
いつものように朝方まで打ち水をしていたようだった。
それで、12時に武部さんと網干駅で待ち合わせしていたが、着くなり「急きょ予定変更です。真っ先に卑弥呼の孫のお姉さんのお墓に行かなければなりません」と、ナビにセットするための住所と電話番号を書いたメモを見せました。
そして、一泊二日の〇〇調査の旅がスタートしました。
上の図は、卑弥呼のお嫁さんの墓と卑弥呼の孫の姉の墓と妹の墓である。
見事に二等辺三角形を描いています。そして下の図形は、融通王の墓と融通王の御祖母さんにあたる卑弥呼の孫(姉)の墓と投馬国の王、彌彌の墓とが直角三角形を描いて一点が重なっている図形です。
これらは、意味ある二つの三角形です。
童謡赤とんぼのふる里には曼殊沙華の色を上空まで赤とんぼが飛ばしてくれているようでした。
一般の山とは違って重々しさといいますか、神々しく何とも言えない存在感がある山でした。
頂上より左手に〇〇2mキャッチ!しました。
お墓の磁北には目印の山も在りました。
下の写真は、今日、朝5時過ぎのお月さんです。
下の写真はいつだったかなぁ・・。月はいつ見ても同じ面しか見せてくれませんが、今日のお月さんと見比べると微妙に傾きが違いますねぇ。
それにしても月って不思議ですねぇ。
投馬国の首長、彌彌は、孝安天皇である(2024. 5.25加筆)
2021年7月29日(木)
私たちの先祖を辿ると、「藤原家に繋がります」と今まで私は皆さんに告げてきました。
もちろんそれは正しいのですが、もうお一人スゴイ方が居られました。
それが、応神天皇の代に弓月の国から19万の民を引き連れて日本にやってきたという『秦河勝』です。
「秦河勝が私の先祖なのですが・・」と言われる方も、「秦河勝のことを教えてください」と突然事務所に来られたりもしましたが、
私たちの先祖を辿ると、間違いなく秦河勝にもたどり着くと私は思っています。
どうして奈良、京都の造営に尽力した秦河勝の墓が、兵庫県赤穂市坂越の生島(いきしま)にお墓を設けたのかを不思議に思っていた私でしたが、ここにきてハッキリと理解できるようになりました。
それで・・、生島にこそ上がることはできませんが、行基、空海様も手を合わせ眺めたであろう宝珠山妙見寺から同じように手を合わせようと思い、日帰りツアーを企画しました。
ご賛同いただける皆さまと共に、我が国の礎を築かれたご先祖様に手を合わせたいと思います。
2021年5月25日(火)
二年前に、法隆寺若草伽藍の向きを調べたことがありましたが、もう一度確かめてみることにしました。
すると・・何故か、以前の角度には違いがありました。
正確には338度のようです。
すると、下記のような図形が浮かび上がりました。
今はなき法隆寺若草伽藍の配置は、丹後半島にある徐福の墓秦始皇帝の地下神殿に向けて造営されています。
その反対は、鬼の俎・鬼の雪隠がある場所です。
若草伽藍と徐福の墓 秦始皇帝の地下神殿と応神天皇の墓の三点は、ケプラー三角形を描きます。
又、若草伽藍と徐福の墓 秦始皇帝の地下神殿と淡路国分寺塔跡の三点は、正五角形の一部をなす直角三角形を描きます。
このことから、乙巳の変の真相と蘇我入鹿の無念の御霊を開放できるのではないかと私は思います。
今のこの世の不条理な現象を解こうとすれば、やはり蘇我入鹿の無念の御霊に手を合わせ入鹿の汚名を晴らさなければ絶対に解決しないと常々思っています。
蘇我入鹿は、卑弥呼の流れも受け継いでいます。
日本の歴史の中で、無念で無念で仕方ない邪馬壹国の女王卑弥呼と蘇我入鹿の無念の御霊を開放しなければこの国の、そしてこの世の平安は遠のくばかりです。
一刻の猶予もないようです。 (2024年2月9日加筆訂正)
2021年4月16日(金)
過去、私が建築にたずさわっていた時代に大変お世話になった人に、尊敬する佐々木さんが居てる。
伏見山(ぶくみやま)の東にそびえる三岳山との間にある集落の『佐々木』の文字を見ていると、佐々木さんとの思いでが一つ一つ蘇ってくる。
大変頭が良く、思いやりもあり・・、でも仕事には厳格で絶対に妥協しない厳しさをもっていた人でした。
「私もこのような人になりたい」といつも思っていました。
その佐々木さんに数年前に再会する機会を得た時に、「私のルーツはサンカです」と言われて、「やっぱり!」と隠されている神様にやっと出会ったように思えた瞬間でした。
私は、10年ほど前、このかごめの謎解きを始めさせられたころ、「あなたはサンカの人達に早く出会わなければなりません。この本を読みなさい」と、サンカのことが詳しく書かれた4,5センチもあるような分厚い本を霊能者から突然渡されたこともありました。内容が難しすぎて読み切れず、でも‥サンカの人達は古代から天皇を支えてきた人たちであることをその本によって教えられました。
日本の本当の歴史を知っているサンカの人達は、いつか私の中で憧れの人達になっていきました。
私が小さい頃、お祖父さんが、「家は平家の武士だ!貧しくても誇りを持て!貧しくても他人に施しをせよ!!」と教えられたことと通じるものを感じていました。
ここにきてこの地域の地図を眺めていてそれらが非常にシンクロしてなりません。
この流れも、「私のルーツは秦河勝です。もっと秦河勝とそのルーツを知りたいのです」と、私を先日尋ねられた大倉正之助さんに出会ってからの流れでしたから、これもシンクロしているようなのです。
そして・・、「三岳山」の名前に、「思い出せ、思い出せ・・ミ〇ケ!」と、どこかで声が響くような・・。
「んん~~ん、どこで聞いたんだろう・・、どこか見覚えがあるような、聞いたことがあるような・・??!」。
・・!! 思い出したのが、応神天皇が子供の頃暮らした思い出の地であると教えられた安栖里を訪ねて宿泊した和知の駅前の「料理旅館 角屋」さんの部屋の名前でした。
そこで神様が、よ~~く 「見解け!」と言われたことを思い出しました。
泊まれる部屋の4室は、「長老」「愛宕」「三峠」・・そして「鶴亀」でした。
これらの4つは、全て謎解きの神様の暗号で、
「長老」は長老ヶ岳。
「愛宕」は愛宕山で、今までに謎は解けていました。
ここにきてやっと「三峠」の意味を神様は教えているようです。
「三峠」と「三岳」が私の頭の中で、パチンと重なりました。
ミトケもミタケも同じように思えたので、それでさっそく三峠山と三岳山と愛宕山の三点を結んでみると・・、! どうでしょう。
三峠山から三岳山、そして愛宕山まで共に32㎞と同距離で、二等辺三角形を描きます。
こうなれば、俄然マウスは勝手に動き出します。
「思い出せ、思い出せ! 聖武天皇の墓だ!」
「愛宕山に向けて十字架の地下神殿が造られている光明皇后の地下神殿の光明山だ!」
「結べ、結べ!」と聞こえてきます。
・・ので、結んでみると・・!
三岳山から大本の綾部本部の禁足地である聖武天皇の墓までと、光明皇后の地下神殿までの距離は共に21.6㎞と同距離の二等辺三角形を描きます。
偶然?
このようなことは偶然では起こり得ません。
空海コードは凄すぎる!のです。
2021年4月6日(火)
昨日、4月5日(月)朝9時前に、宮崎君から電話。
「今日は、山ですか?」・・と。
「今日は、事務所です」と私。
「昨日は赤穂に泊まることになりまして、どうしても上森さんにお会いしたいという方が居られまして・・、お連れしてもよいですか」・・と宮崎君。
「良いですよ」
・・と言うことで、お昼過ぎに宮崎君がやってきた。
それからほどなくして、ご夫妻がやって来られた。
出された名刺には、『大倉正之助』。
やってこられて、挨拶もそこそこに、近くの焼き肉店へと昼食に。
すぐさま事務所にもどり、話は勝手に進んでいました。
昼食の時もそうでしたが、事務所でも、
「あなた!失礼でしょう・・」と奥様。
何度でも、ご主人様は、シータ波に近いスローα状態で・・。
「良いんですよ、今、神様が来て居られますから・・、私はいつも事務所に来たら眠らされるんです。失礼でもありませんよ」と私。
気遣う奥様に何度となく同じ言葉を言う私でした。
んん~~ん、ドラマは急展開の模様です。
大倉さんが見せてくれた家系図の始まりには、『秦河勝』の名前が書いてありました。
丁度一週間前のブログに、秦河勝の墓である赤穂の生島と、聖武天皇の墓と弘法大師廟と卑弥呼の墓のことを書きましたが、そのことから話が始まったようでした。
大倉さんは、昨日4日、日曜日に大避神社での和楽の奉納演奏に来られたとのことで、生島へも渡られたとのことでした。
間違いなく、ルーツを辿れば「秦河勝」のようでしたから、私はいろいろと伝えてあげました。
「秦河勝のご先祖様である弓月王のお母さんの母の墓はどこにあるかご存じですか」
・・「知りません」。
「弓月王のお祖母さんの妹さんの陵墓は、宮内庁が管理しています」
「その方たちの母親の墓は、ここです。2:1:√3の直角三角形を描きます」
「その方は、安栖里から卑弥呼さんの息子の嫁に嫁いで来られました」
「卑弥呼には男の子が一人居ました。そこにモーセの直系の家系であるお姫様が嫁いでこられまして、女の子が二人できました」
「下の娘さんには、女、女、男が生まれまして、その男の子が応神天皇です」
「上の女の子には、女、女、女・・」もう話はついていけませんよね。
「上のお姉さんの子供が、高句麗の王様に嫁がれまして、生まれたのが弓月王です」
「弓月王の母方は、卑弥呼に繋がりイエスの四男で第四代懿徳天皇に繋がり、父方もイエスに繋がり・・」
・・このような話・・、到底、話についていけません。
意識はもう、もうろうとしてしまいます。
当然至極の状態なのでした。
私はこの時、秦河勝と、そのご先祖様である弓月王とを混同して喋っていました。
それをきっかけに次々と大きな発見へと繋がっていきました。
昨日の会話を綴ると、小冊子一冊が出来上がる内容でした。
でも、話の内容から分かったことは、間違いなくバチカンは、イエスの直系である人物たちのことを知っているようです。
本人が知らなくても、バチカンは知っていますね。
だって、ご夫妻は、バチカンの大事な節目の年に、日本代表でバチカンに呼ばれています。
ご本人様たちは、「どうして私たちが招待されたのか分からない」と言って居られましたが、私には十分にそれは理解できます。
八木さんの数霊の予告、当たってますよ。
藤田さん、メールありがとうございます。
藤田さんのルーツにまで話は行きつきました。
私との会話からすぐにその方へ電話して居られました。
「電話が通じませんので、メールを入れておきました・・」と。
皆さん、かごめのドラマの中で、台本通りに演じて居られますねぇ。
鎌足公古廟から移し替えられた藤原鎌足の墓の話から、「赤十字山って!?・・あるんですかぁ・・」と驚いておられましたねぇ。
「長老ヶ岳では、宮崎君は不思議な体験をしています。四天王寺で手を合わす先は、その長老ヶ岳です」と。
この国の長老って藤原鎌足であり、その子孫が赤十字と大いに関わっていることを教えています。
2020年11月11日(火)
先日、額田王の墓へと行った時、お墓の上で中原椿さんが、
「ここは誰の墓ですか?」と。
私は、「エッ!? ぬかたのおおきみ の墓です」と言うと、
「愛知県にも岡崎の近くに額田郡という地域があります」と教えてくれました。
「エッ!!」
・・壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が伊勢、伊賀、美濃、尾張、三河方面に援軍を求めたこと。
そして、これらの地の豪族たちの協力が得られたことが弘文天皇(大友皇子)側に伝わるや、弘文天皇側の従者たちは怯えて戦意を喪失したという。
私には、この謎がづっと頭の片隅にあった。・・「なぜだろう・・??」と。
その謎が、額田王の墓の上で椿さんが発した言葉で、「もしかしたら・・」と、三角法でその謎が解けるのではないかと後日、ネットで「額田郡」の歴史を調べて、地理院地図で調べると、やはり思った通り浮かび上がりました。
それが、下の図形です。 ここから謎の祢がたどれそうです。
額田郡を調べると京ヶ峯という山の存在が浮かび上がりました。
『峯』とは、へブル語でお墓の事ですから、額田王と大いに関わりの深い大部族の首長の墓なのでしょう。
そのような関係から三角法でのもう一点を求めると、安栖里が浮かび上がりました。
安栖里と言えば、卑弥呼の息子の嫁の里で、卑弥呼が岩戸隠れしたあとに応神天皇が幼少の頃に過ごした思い出の地でした。
まさか・・、もしかして・・、と安栖里(500m)の山(墓)と京ヶ峯との二点からタレスの定理で求めるラインを見ていくと、ズバリ天武天皇の墓が存在しています。
このことは、天武天皇と額田王は、濃い血縁関係であることが読み解けます。
2020年3月13日(金)
新型コロナのパンデミック宣言は、神様からのイエローカード。
五十六歳と七か月目の日に宗像大社で私を待っていた神霊に動かされて10年。
その間、出口王仁三郎も私についてきた。
そして、アブラハムの墓にも日月の山にも一緒に上った。
「時間がない、急げ!一日遅れればどれだけの命がなくなるか、お前は分かっているのか!」と、言われているような気がして、言われるままに山々のお墓へと行った。
そして、ここまで来れば、神様方が何を言っているのかも理解できる。
ずる賢い人間、平気でウソをつく人間にウンザリしておられるご様子です。
人間は好き放題に水を汚し、空も汚し放題。
そして誰もそれを止めない。
イエス・キリストの名を活用して、世界統治までやってしまおうと企む蛮行にイエローカードが出されました。
私は常々、
水は光であって、水こそが神様 だと言ってきました。
そして、
お金はエネルギーであって、神様の血液 みたいなものと言ってきました。
ウソを棚に上げて、自分の身を守らんがために、専門家の意見を云々・・、
人間は、息を止めることは数十秒しかできません。
経済の流れを止めることは、死活問題です。
長は、少なくとも神様に嫌われないような行いを持って、任務を遂行せねばなりません。
全てはお見通しの世界があるのです。
そして、ご先祖の墓守が大事です。
今、国の長は、この一番大切な国民のご先祖の神様の墓守と祀り事を怠っています。
これでは、現人神たちはご立腹です。
大国主命=イエス・キリストの墓が神河町南小田の山頂にあります。
そして・・その東、5㎞の地点に卑弥呼の墓があります。
応神天皇の墓 仁徳天皇の墓、藤原不比等の墓、桓武天皇の墓・・長が行って手を合わせねばならないところが沢山あります。
この一番真っ先にやらねばならないことを何もせずに今のまま行けば・・、もっと大変な状態へと進みます。
この世は、この世の人と、あの世に行った人たちとで共に築く光の世界なのです。
魂を浄め、水の回転力を強めなければ、これから夏に向けて、又は、来年再来年へと向けて新たな種のパンデミックが待ち受けています。
レッドカードが出されてからでは・・、あまりにも犠牲が伴いすぎます。
14日(土) たくさんの人たちで成し遂げた、『世界の歴史の真実』を語らなければなりません。
それが、『邪馬台国オリオン座説』なのです。
一人でも多くの人に聞いてほしいと思います。
上森三郎
もう春です!
2020年1月4日(土)
伊奢能麻和迦王の陵墓を私はこれから竜石山古墳と呼ぶことにしました。
竜石山古墳の大きさは、応神天皇陵とほぼ同じ大きさの古墳です。
そしてこの古墳の主の故郷なり、伝え残したい場所は、尾張、三河方面を教えています。
この方向には、名古屋港がある名古屋市港区です。
一点を示すなら港区の「龍神社」です。龍神社は竜石山古墳との関係を教えています。
そしてこの龍と竜を結んで1:1:√2になる場所に、邪馬壹国の女王卑弥呼が絶対的に信頼し頼りにしていた「一大率長官」の墓があります。
一大率の墓は、出雲大社と内子のピラミッドと2:1:√3の地点に造営されました。
出雲大社と宇佐八幡宮と内子ピラミッドは2:1:√3で、出雲大社と内子のピラミッドと馬路の八杉森も2:1:√3です。
「女王国より以北、特に一大率を置き諸国を検察しむ、諸國はこれを畏(おそ)れ憚(はばか)る。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史(しし)如くあり」
卑弥呼が一大率長官に特に目を光らせていた地域が、敦賀であり琵琶湖であり伊勢湾でしたね。
そして一大率長官は、船で移動する海神でしたね。
下の地図のピンクの部分が、邪馬壹国です。
卑弥呼は、女王国より以北、特に一大率を置き諸国を検察しむなのです。
琵琶湖と日本海の拠点が敦賀・若狭湾であり太平洋が伊勢湾・三河湾、伊良湖水道です。
一大率は、現代で言えば、自衛隊の海軍を率いる国防大臣でしょうかね。
イエス・キリストの血を引く卑弥呼を女王とし、オリオン座を下ろして設計された邪馬壹国の国土は、外敵から重要ものを絶対的に守るための国土設計になっています。
その重要なものとは・・、イエス・キリストの墓です。女王卑弥呼は、イエス・キリストやその王家の人達の墓守が務めでした。
畿内説を悩ませてきたひとつの記述が「女王国の東」である。
女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。
畿内説では、東に海がないからである。
上森説の邪馬壹国の版図は、日本海岸まで達しているので、東へ海を渡ることができる。千余里は1里=77mの短里で計算すると、77km余なので、80kmくらいか。
この距離は、丹後半島の伊根、あるいは宮津、舞鶴から出発して、敦賀湾の奥の敦賀までの距離に相当する。ここには気比(けひ)神宮という神社があって、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)というこの神社特有の神様だ。この神様の降臨の地、「土公」と呼ばれる塚には、大きな木が生い茂っているが、卵型の岩が八角形に並べられていて、最澄さま、空海さまが7日7夜の祈祷をされたというから、ただ事ではない。
また、気比神宮の摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)があり、『日本書紀』に垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祀られているのも注目に値する。
聖地神河には、猪篠(いざさ)という地域があります。そしてその奥に卑弥呼の陵墓が一番きれいに見えるところに奥猪篠と言う集落があります。
そしてこの奥猪篠の上に白岩山(973m)があり、この山を私は七福神の一人、毘沙門天の墓だと教えられています。
んん・・・ん、全て繋がってきますよ。
壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が尾張に援軍を要請したことで、大友皇子の陣営が戦意を失う意味、その謎が解けてきましたよ!