かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

やっと卑弥呼の孫(姉)の墓へと行けた

2021-09-22 06:02:37 | かごめかごめの真実とは

2021年9月22日(水)

卑弥呼は男の子を一人授かりました。

そして年頃になって素戔嗚尊直系の里である安栖里からお嫁さんが埴岡の里に嫁いできました。

そしてお嫁さんは、二人の娘さんを授かりました。

卑弥呼の二人の孫娘誕生です。さぞかし可愛かったことでしょう。

卑弥呼61歳で初孫誕生でした。卑弥呼の子24歳の時の話でございます。

長女と次女は4歳違いでした。

下の娘さんには、女 女 男 と三人ができました。この男の子が応神天皇です。33歳の時の子供でした。

そして上の娘さんには、女 女 女 男 男 と5人の子宝に恵まれたが、長女と次男は子供の時に亡くなった。

上の娘の次女が20歳で朝鮮高句麗王に嫁いでいった。この姫君が賀志波比売大神である。嫁ぐまで『』で暮らした。

賀志波比売の直系の血を引いていたのが『ジュリアおたあ』である。このことを秀吉も知っていたし家康も知っていた。

高句麗王と賀志波比売との間に生まれた子が、応神天皇の代に19万の民を引き連れて日本にやってきた弓月君こと融通王である。

三女は天皇家に嫁いだ。上の娘の長男が大田田根子である。

 

18日(土)未明私は突然起こされたようであった。

朝鮮半島あたりで時間調整していたかのように停滞していた台風14号は、一気に関門海峡から瀬戸内に入り込んで、18日未明に朝鮮半島から数々の御霊たち御一行様方をお連れしたようであった。

そして前日まで予定していなかった場所を何者かが突然指定してきた。

「真っ先に卑弥呼の孫のお姉ちゃんの墓に行ってほしい・・」と。

今まで母の墓にはお参りして、お姉さん墓へは気になって気になっていましたが、やっとその時が来たと言うことでした。

いつものように朝方まで打ち水をしていたようだった。

それで、12時に武部さんと網干駅で待ち合わせしていたが、着くなり「急きょ予定変更です。真っ先に卑弥呼の孫のお姉さんのお墓に行かなければなりません」と、ナビにセットするための住所と電話番号を書いたメモを見せました。

そして、一泊二日の〇〇調査の旅がスタートしました。

上の図は、卑弥呼のお嫁さんの墓と卑弥呼の孫の姉の墓と妹の墓である。

見事に二等辺三角形を描いています。そして下の図形は、融通王の墓と融通王の御祖母さんにあたる卑弥呼の孫(姉)の墓と投馬国の王、彌彌の墓とが直角三角形を描いて一点が重なっている図形です。

これらは、意味ある二つの三角形です。

童謡赤とんぼのふる里には曼殊沙華の色を上空まで赤とんぼが飛ばしてくれているようでした。

一般の山とは違って重々しさといいますか、神々しく何とも言えない存在感がある山でした。

頂上より左手に〇〇2mキャッチ!しました。

お墓の磁北には目印の山も在りました。

下の写真は、今日、朝5時過ぎのお月さんです。

下の写真はいつだったかなぁ・・。月はいつ見ても同じ面しか見せてくれませんが、今日のお月さんと見比べると微妙に傾きが違いますねぇ。

それにしても月って不思議ですねぇ。

投馬国の首長、彌彌は、孝安天皇である(2024. 5.25加筆)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御霊さまたちの警鐘

2016-04-17 15:21:29 | かごめかごめの真実とは

2016年4月17日(日)

   

 昨日の関西日本サイ科学会には沢山の方々に集っていただきました。

用意されていた席数では足らなくて、急きょ椅子が運び入れられたということでした。

ですから、用意されていた資料も足らなくて、「後日発送いたしますので・・」ということだったようです。

皆さまには本当に感謝いたします。  ありがとうございました。

 

4月14日 21時26分に発生した地震は今もなお不穏な状態を繰り返しています。

一体何が始まったのでしょうか・・。

ヨイヨ フイフム とは何のサインでしょうか。

震源地域、益城町は、関ヶ原の闘いで敗軍の将となり、京都の六条河原で斬首されたキリシタン大名といわれた小西行長の思い出の地であり管轄地でした。

小西行長は秀吉の命を受けて朝鮮へ渡り、王家の血を引くジュリアおたあを救出しましたが、島原の乱でキリシタンの人達と共に戦った天草四朗と、その母であるジュリアおたあが人知れず眠りについた最後の地でもありました。

彼ら無念の御霊や、近くには国内最後の内戦となった西南戦争(1877年)の激戦地、田原坂もあります。

田原坂と言えば、間違いなく無念の御霊である西郷隆盛と、その勇士らの姿も亡霊のように浮かびます。

あの西南戦争のとき、熊本鎮台が西郷隆盛らが北上することを阻止することなく、逆に加勢していたら日本の歴史は大きく違ったものになったであろうと私は思っています。

朝鮮と言えば、西郷隆盛も日本と朝鮮との深い関わり合いを誰よりも知っていた一人だと私は推測しています。

でも・・知ってるがゆえに、欧米を視察し洋行から帰国した岩倉具視や大久保利通との権力闘争の中で、西郷隆盛が思うものとは全く逆の征韓論を押し付けられ、謀略にはめられたのだろうと私は思っています。

どうも異常なまでの余震やその震源域を見ると、日本と朝鮮との平和の架け橋になろうと命をかけた、その無念の御霊さま達が今、これから起こるであろう出来事を必至の思いで私達に警鐘を鳴らしている気がしてなりません。

早く気づきなさい!目を覚ましなさい!」 「世界の聖地は日本であり、生野、神河町ですよ!」 

豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失ですよ」と。

・・・どうも、時は迫っているようです。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不意踏む ・・ 不意不無 

2016-04-15 09:53:47 | かごめかごめの真実とは

2016年4月15日(金)

 4月14日は何かあるだろうと思っていましたが・・。

21時26分ごろ熊本県益城町を震源とする震度7の大地震が発生。

んん・・熊本は私の故郷です。

今日の朝のニュースを見ると、熊本城の石垣も崩れ、屋根瓦もずり落ちて無残な姿を見せていました。

熊本城は別名、銀杏城ともよばれていますが・・、銀杏!? 

何もなければ良いが・・、と思っていたことが思い出されました。

実は、聖地神河町にある卑弥呼さんの陵墓と、西のメノラーを繋ぐ霊ライン上にある重要な神社の御神木である大きな銀杏の木が無残にも切り倒されていたシーンが浮かびました。

そして・・、その神社から右手前方にこれまた重要な霊ラインにある山が無残にも崩されて痛々しい姿が重なります。

先日、寺前駅のホームに降り立ったときに飛び込んできた情景は、その無残な姿がもっとあらわになった情景でした。

それと・・、震源地が益城町!?  えっ、益城??!!  ジュリアおたあ!!

 秘密NIPPONの《超建国》裏返史  のP189に書いた 卑弥呼さんの血を受けついだジュリアおたあが亡くなった最終の地が下益城でした。

その息子の天草四朗の最後の地が宇土でした。   これらは震源地と言っても良い場所です。

誰にも祀られることなく、存在さえも消し去られている女王卑弥呼と、その血縁者の方々。

いえいえ、卑弥呼のご先祖さまである、この国の初代大王神武天皇=大国主命=イエス・キリストの墓がキッチリと聖地神河に存在するのに、だれも無関心で・・。

無関心どころか、その町の上小田という土地の山一帯にスキー場を造るとかで、トップリーダーも、「8億円ものお金が国や県からもらえるし、町にも負担はかからないから・・」との弁。

町の人も誰一人として異議を唱える人もいない様子で・・。

 

はたしてそれでよいのでしょうか。

「今年その山にスキー場経営ができるほど雪が積もりましたか?」と私が町の人に尋ねると、「積もりませんでしたよ」と。

私は若いころは、長野や新潟、それこそ近場では、兵庫県の神鍋やハチ北へと毎年行っていましたが、今、町が進めようとしているスキー場計画には首をかしげてしまいます。

雪が無いときは人工降雪機で云々???    

ま、お上からお金が降ってくるし、町民も大喜びの様子だし・・、よそ者には関係ないでしょうと言われれば、「そうですね」と言うしかありません。

ですが、このことは町だけでなく県や国、 国民の皆さんの誰かが知っておかなくてはならないことがあります。

今、計画されている場所は、それはそれは日本の中で最重要な場所なのです。

人間で言えば、おへそか、性器か、脳か心臓か・・目か。 それはそれは大切な場所なのです。

どうして・・、イエス・キリストの墓がその場所にあるのか、その方の血を受け継いだ女王卑弥呼の陵墓があるのか・・、それはそこが聖なる場所だからなのです。

 

この2:1:√3の図形は、モーセの陵墓葦嶽山交野山を結んだ聖なる三角形です。

そして・・、このピタゴラスの三角形の重心が神河町の暁晴山(ぎょうせいざん)です。

ここら辺にスキー場が計画されているようですが、この場所の土地をさわることがどのようなことを引き起こすのか・・、起こさないのか・・。

 

4月14日 21時26分 ・・ これは神様のメッセージです。

  よいよ  不意踏む   ・・  不意不無    

御神木をいとも簡単に切り倒したり、聖なるラインにある山をいとも簡単に崩したり、聖なる遥拝の山と磐座を破壊したり、聖なる重大な場所を勝手に掘り起こしたり・・と。

知らないとは・・それは非常に強みでもありますが・・。  

神様は存在します!仏様も存在します。 

フムフム・・仏仏・・ 地雷を踏んだら大変です!! 王家の人達の辛抱もこのあたりか・・。

 

 明日のサイ科学会の講演では、大変なことが飛び出すかもしれませんよ~~!!

Mura さん、あか色のメッセージ通りでしたよ!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

延命寺から堺へ

2015-09-24 12:43:20 | かごめかごめの真実とは

2015年9月24日(木)

23日 河内長野の三日市町にある延命寺さんに呼ばれているような気がしましたので、行ってみました。

建物の彫り物には、瓢箪 ハート ・・それはもうバチバチにモーセ イエス・キリストを表現する暗号の彫り物ばかりでした。

そして・・、門から一番奥で真正面にある毘沙門堂がどこを意識しているかを調べると・・、なんとぉ!!

298°・・その方向には、ズバリ、岡山の王山です。 そしその近くにマリア様のお墓。  

空海様は全てを知って居られて、  私にこのことを教えたかったのだと思いました。

それから・・、上にある蓮池に龍神様が・・・。

行ったときは、全てが死んだように止まっていましたので、テラファイト水を池にかけてあげると、一変に水面にあちらこちらから泡が上がりだし、ゲンゴロウやアメンボウも動き出しました。

不思議な光景がみてとれるようななりましたので、下の手水舎からまたまたテラファイト水を作ってきて、何度も池の中に撒いてあげると、生き生きしてきました。

それで上の段の池にも行くと、そこは全く死に絶える寸前のように悪臭も漂うような・・・。 それで今度は、そこに流れ込むほんのわずかな水を少しだけ溜めて、そこに置いたテラファイトを水が通過するようにしました。

流し込む間、その広場のところにある祠を覗き込むと、そこには空海様の父、母をお祀りされていました。

間違いなく空海様に呼ばれて・・と言いますか、私に空海様が乗って行かれたようでした。

池の水面も急に動きだし、閉ざされていた太陽の光がその水面だけに差し込み、雲が動き出して・・・、不思議な光景をまたまた見せていただきました。

                     

 

 

延命寺から三日市町駅までブラブラ歩きながら風景を楽しみました。

そして急に堺へと立ち寄ってみたくなって堺東駅で降りて観光協会へと行って、

「小西行長ゆかりの地はありませんか」と期待して尋ねましたが、私の期待を裏切るものでした。

それで真向いの市役所の21階展望ロビーから町並みを眺め、そこに居られたボランティアの男性に小西行長のことを尋ねると、

屋敷跡の石碑があるということで教えてもらってそこの場所へとブラブラ歩いて行きました。

「ここが行長氏が一時住んでいて、ジュリアおたあの思い出の地なのかぁ・・」と、テラファイトの水を石碑にかけて、横の植木にも水をやって、

その土に浸み込んだ後の土に手をやってご挨拶をしました。

・・そうしたら、偶然の産物か、風が一気に私に吹きました。爽やかな風が・・・。

なんとなく対面を果たしたような、晴れ晴れとした気持ちで帰路に着きました。

  

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分は貧しくとも人に施しをせよ

2015-08-10 14:44:54 | かごめかごめの真実とは

2015年8月10日(月)  

母方の御祖父さんのところの家紋は違い鷹の羽だった。 名前は小次郎さんでしたね。小さいときには、囲炉裏端でお爺さんの胡坐の中で燃え盛る炭の赤い炎を見ながら眠り込んでいた情景や、 昼の陽だまりに莚を敷いた上で、鳥籠や竹製品を作っていたのを思い出します。 子供心に凄い!と思ったことは・・、あるとき、「今から向こうの電柱の上に居てるカラスを撃ち落とすから見てろよ」と言ってすぐさまお爺さんが肩に下げていた銃を持つやいなや、ズドーン!とその瞬間、カラスは電柱から真っ逆さまに落ちました。 小次郎さんは近衛兵で戦争に行ったということですが、戦争が終わって15,6年経ってもライフルの腕前が衰えていなかったのは、その証明の現れだったのかもしれません。そのお爺さんの教えを少しだけ、今度の本の中に思い出として書いて見ました。

・・・

天草四郎はジュリアおたあと秀忠の息子だ  

家康は、おたあを天国の島にかくまったんだろう、と上森は思った。気候が良くて、いい風が吹いて、潮の流れがよい日には、神津島から江戸までは一日で渡れたようだし、おたあが若い時から死ぬまで、神津島から出なかったとは考えられなかった。  上品で美しく、周りの人々からもとても信奉されていたおたあを、家康の死後、2代目将軍秀忠が放っておくことはなかったのではないか、とも上森は考えた。  記録では定かにされていない、本当のジュリアおたあの人生は、どんなものだったのだろう。  上森の頭にひらめいたのは、島原の乱だった。祖父に聞かされた昔話を思い出したのだ。  「ウチは平家で、壇ノ浦の戦いで敗れて、山の中に逃げ込んできたんだ。ウチの先祖は。 そこで平和に暮らしとったけど、また島原の乱で、狩りだされて戦に行った。けど、また負けて、また山の中に帰ってきたんだ」 と祖父は上森の頭の記憶回路に刷り込むように、繰り返し、言っていた。  上森は祖父に、よく  「でも、ウチは平家の武士なんだ、だから、誇りを持て」 とか、  「自分は貧しくても人に施しをせよ」 などと言われて育ったのだ。  その島原の乱といえば、思い浮かぶのは誰だろう?天草四郎だ。上森の祖父は、   「ウチも天草四郎に大いに関係がある」 とも言っていた。  それについて詳しくは聞かなかったが、上森は熊本の人間だから、歴史音痴とはいえ、天草四郎という名前くらいは知っていた。  伝承によれば、天草四郎はわずか15歳で、大勢の人を引き連れて、キリシタンのリーダーとして戦をした、とされている。が、普通は元服したばかりの年の少年が、十字架の話をしたり、キリストの話をしただけでは、大勢の人がハイハイ、とついてきて、命を賭けて戦に行くようなことにはなるまい、と上森は考えた。  やはり、天草四郎は、ちゃんとした血筋、DNAを受け継いでいて、周りもそれを知っていたから、みんなが動いた。そのように神様が上森に告げていた。  ここからは上森の推測だが、神津島を出たジュリアおたあは、江戸は避けて、小西家の領地で幼少時代を過ごした堺にいったん戻っていたのだろう。さらに、その後、恐らく、人目を避けるために、小西家の領地だった熊本県の宇土に移ったのだろう。というのも、実際、宇土にはジュリアおたあの記録がいまでも残っているのだ。  上森の想像は膨らんだ。  おたあは、徳川の2代目将軍秀忠に見染められて、子どもを産んだのでないだろうか。  もしかしたら、それが天草四郎だったのではないだろうか、というのが上森の憶測だ。  天草四郎が実は宇土の出であるという説も実際にあるのだ。  後に上森は、天草四郎は島原の乱で亡くならずに、現在の熊本の下益城郡に行き、宇土にいたが、生涯未婚だった、とも知らされた。おたあは47歳で下益城郡で亡くなったという。  ちなみに、その頃の堺は貿易で潤った、ベニスのような港町だったそうだ。いくら戦していても、一旦、堺の城壁に入れば、みんながケンカをやめるような、独立国のようなところだった。小西行長が造った平和で、国際色豊かな、素晴らしい世界が堺だった。  そうした世界の再興こそが上森に与えられた新たな使命のひとつなのかもしれない。  「日本人こそが、争いの無い世界平和を実現させる重大な鍵を握っている。その為にも、真の日本の歴史を明らかにして、キリシタンの方々の御霊鎮めをやるように」  と言われている気が上森にはするのだ。

・・・

 今度の本は実に面白いですよぉ! 全て実話ですし、神様が「皆に伝えなさい」と言われた世間様が一切知らないことを書いていますから、気が狂っていると言われても仕方ないことばかりです。 でも・・腑に落ちる不思議さに、「あり得るかも・・」と思われる人もないこともないと思っています。 お楽しみに・・!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スケールが大きいですねぇ

2014-11-02 16:36:56 | かごめかごめの真実とは

2014年11月2日(日)

モーセのお墓と剣山と神津島の3点を結ぶと、きれいに2:1:√3の図形を描きます。

見事です!

モーセの墓を頂点とする三角形の底辺を神津島から西へ行くと、今でもグーグルアースから神社名が消された津峯神社があり、

西へと行って、剣山があります。これをもっと西へとラインを伸ばすと、四国で一番高い山、石鎚山を通って、佐賀県の神集島へと一直線です。

神津島も以前は神集島と呼ばれていたとのことですが、神津島から神集島を結んだライン上に、意味ある山や神社があるのが偶然ではないようです。

春に、東京都の神津島へと行って、物忌奈命神社と阿波命神社へと行きましたが、この二つの神社ともに、コンパスグラスを覗くと265°を示し、

なんとこの方角は、津峯神社の方角、つまり剣山、石鎚山の方角を向いてキッチリと造られていました。

古墳も神社も自分のルーツの方角を向けて造られていることを、現地に行って教わった大事なことがらです。

  

ジュリアおたあ と秀吉、家康の秘密を教えていたとは・・、ビックリです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうして神津島へ行くことになったのか・・

2014-04-27 19:24:51 | かごめかごめの真実とは

四国で一番高い山、石槌山(1982m)から二番目に高い山、剣山(1955m)を経て、徳島県太龍寺を通って津峰神社まで一直線で、それを東へ東へ伸ばして行くと、行き着くところが・・・、神津島です。

神津島には大変な・・、それは大変な秘密がありました。

ああ~~、詳しいことは、次ということで・・・、ごめんなさい

Photo Photo_2

201404271849560001_2 Photo_3

Dscf3940 Photo_4 Dscf3864

Dscf3893 Photo_5

前田さん、お世話になりましたぁ 感謝しています。

ヤ~~ッホ~~~~~!!!

201404271723230001

ジュリアおたあ に会いに行ったようでした。

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神津島は、天上の楽園の島のようです!

2014-04-22 12:03:02 | かごめかごめの真実とは

東京でご縁をいただきました皆様、本当にありがとうございました。

感謝申し上げます。

17日18日と、導かれるままに神津島へと行きました。

そしてこの島へと行かされて分かったのは、この我が国の本当の隠された事情を、その時代のトップリーダーの御霊が教えてくれたことでした。

最近特に私が思うことですが、その時、その日、その瞬間その場所でないとその本当のことは教えていただけないようです。

その瞬間に神津島のその場所に行かされた『ジュリアおたあ』の不思議なお話は、あまりにも膨大な情報量ですから、皆さんにご理解いただけるにはこのブログではなかなか難しいようです。

ですが・・、伝えられる範囲で書いてみたいと思いますが・・、とりあえず神津島のパンフを掲載します。

201404221140280001

 

201404221140590001_2 201404221141260001_2201404221141590001_2

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする