2024年3月7日(木)
小さいけど美しい愛宕山から月山(岩手県)までと、能登内親王の墓までは共に385㎞と同距離で二等辺三角形を描いています。
愛宕山の標高は、1174m・・「言いなよ」と迫られてくるものがありますが・・。
2024年3月7日(木)
小さいけど美しい愛宕山から月山(岩手県)までと、能登内親王の墓までは共に385㎞と同距離で二等辺三角形を描いています。
愛宕山の標高は、1174m・・「言いなよ」と迫られてくるものがありますが・・。
2023年7月21日(金)
愛宕山へ行った翌日は、滋賀県湖南市菩提寺にある廃少菩提寺石多宝塔と三体の石仏の調査へと行きました。
いや~実に暑い日でしたぁ。
行って現地案内板を読むと・・、そこには聖武天皇の文字が飛び込んできました。
私はコアロッドを取り出して、2ヶ所を調査しましたが、多宝塔の下に金、石仏の下に銀を検知しました。
いかにここが重要なポイントかを教えていました。
そして、三体の石物が見つめ教えている場所は、「伊島」でした。
又、多宝塔も伊島と、「金剛童子山」を教えていました。
多宝塔と伊島(徳島県阿南市伊島町)と、金剛童子山(京都府京丹後市弥栄町須川)の三点で直角三角形を描いています。
2023年7月20日(木)
愛宕神社へと行った翌日の夜に、「不審火で全焼した愛宕神社 再建したいと地元」のニュースを知って私は驚いた。
最初は頭の中でちょっと混乱気味だったが、愛宕神社違いでも何か私に訴えているようで・・。
放火された愛宕神社は、京都府福知山市前田の愛宕神社だった。放火は6月15日の夕方8時頃だと言う。
先月の中頃どんな事件があったかを調べると・・、「息子はそんなことをする子では絶対なかった・・」と言う「自衛隊小銃乱射事件」があった。
んん~~ん、愛宕山から下りてきて泊まった宿で、夕食の時間まで二時間ほど勝手にしゃべっていた私の会話の中に、「北海道で熱水が吹き上げてヒ素が含まれていて・・とか、すすきので首が無い遺体が・・とか、みんな深江浜の御姫様の古墳に関連しているんです。静岡の橋桁が落ちた事故も、自衛隊小銃乱射事件も安倍元首相暗殺も全て繋がっているのですよ、前田さん・・」と話しながら、私の頭の中には、「登り口の目印が首無し地蔵だしなぁ・・」と。
そして、食事の場所であった川床でも、「今日は、桓武天皇と和気清麻呂さんが皆さんを御もてなしされています。おお~前田さんには聖武天皇が憑いて来ておられます。横には光明皇后も・・」と、不思議な会話と光景をもう一度、思い浮かべていた私でした。
それで・・、その放火された愛宕神社のポイントを調べると・・、聖武天皇の墓と光明皇后の地下神殿と、卑弥呼の墓と深江浜の御姫様の墓と、役行者堂と愛宕山と・・、全てフェニックスコードで繋がる重要な場所でした。 あまりにも・・不思議なのです。それもこれも、愛宕山へと行って、翌日行った、廃少菩提寺石造多宝塔と三体の石仏も全て関わっていました。 これは・・全て関連しています!!
あの世とこの世が織りなす現象だと思えば、私は次どこに行って何をしなくてはならないかは決まります。急がねばなりません・・コアロッドを持って・・。
2023年7月19日(水)
集合は、7月16日(日)AM10:00 京都駅八条口タクシー乗り場だった。
事前に下見をしてその日の待ち合わせ場所とその時間でしたが、皆さんはキッチリとそのタクシーの場所にもう集まっていました。
そうやって・・、ありがたや、ありがたやの一日がスタートしました。
車は前回のタイムと全く変わらず駅から一時間ちょっとで愛宕神社へと歩き始める最も近いと思われる場所まで私達を運んでくれました。
その日は、一気に梅雨空が晴れ上がって行く天気でしたが、ほとんど木々の枝葉が直射日光を遮ってくれる気持ちのいいコースに感じました。
愛宕の秘密を教えられて・・、ありがたや、ありがたや・・。
328君、写真ありがとう!
2023年7月16日(日)
あまりにも単純ですが・・素晴らしい図形が浮かび上がりました!
卑弥呼と岳神と愛宕とP76です。祇園祭の宵山です。
ぎりぎり謎を解いて・・今日、光明皇后の地下神殿が向いている愛宕山に上ります。
2022年3月31日(木)
徐福の墓 秦河勝の墓(生島) 蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)の三点は二等辺三角形を描いています。
地図に表されている徐福の墓は、秦始皇帝を祀る地下神殿でした。 徐福の墓は新宮市の蓬莱山でした。(2023年1月2日加筆)
そしてその三角形の重心にはイルカの地上絵が造形されています。
竜石山は、蘇我入鹿=第35代皇極天皇を祀るために造営された前方後円墳でしたから、イルカと竜石山との中間点に何があるのかを調べると・・。
巨大なクジラの地上絵が造形されていました。
すぐその北には光明皇后の十字架の地下神殿が指し示していた愛宕山が在ります。そしてその北には、竜ヶ岳があります。
そして南のライン上には、星田妙見山(星田妙見宮)があって、もっと南に下ると・・、そこには、龍の立派な磐座がある竜王山です。
北には、高浜湾(若狭湾)に面する岩神(福井県高浜町)があります。
竜石山 竜ヶ岳 竜王山など竜 竜 竜と言う山の名前や、そこに立派な磐座が造形されていたりと、偶然ではあり得ません。
意味ある地名と、その十字架の中心近くに、愛宕山や星田妙見など信仰の拠点が重なったりすると、これはもう計画的配置であることの証明です。
その十字架の交点の近くに巨大なクジラの地上絵(造形物)があることも意味あるものです。
そして、この十字架の交点の近くには、第50代桓武天皇の墓や52代嵯峨天皇の墓が、愛宕山から全く同距離の場所に造営されていて三点は二等辺三角形を描きます。
いえいえ、その近くには、天智天皇や藤原不比等の墓もあったり、沢山の天皇家の方々の埋め墓も存在しています。
蘇我入鹿を祀る十字架が浮かび上がりました!
2022年2月14日(月)
聖武天皇も光明皇后も蘇我入鹿の天皇陵と詣り墓と埋め墓の場所の全てを知っていました。
そして二人とも、それらの重要な場所に連なるように墓を造ったり、祈りの地下神殿を造ったりしています。
光明皇后は蘇我入鹿のひ孫にあたります。藤原不比等に後妻として橘三千代が嫁いで子供を授かった子が光明子ですが、不比等さんの血は受け継いでいません。
DNAは誰かも空海コードで読み解けます。
光明皇后がキッチリ愛宕山に向けて十字架の地下神殿を造っているのもジ~~~ンと胸に来るものがあります。
不比等さんの複雑な思いも伝わってきます。
2021年5月7日(金)
神戸市北区で6日の夜、奇妙な事件が発生したと言うニュースを聞いた。
この事件現場と聖武天皇の墓とを結んだラインと、事件現場のすぐ東にある愛宕山と光明皇后の地下神殿とを結んだラインと交差するところに稚子ヶ墓山が位置している。
不思議なことは、この二つのラインが交差してできる二つの三角形が相似形を描くことである。
この奇妙な事件は、『稚子ヶ墓山』という奇妙な山の名前の秘密と、その山の西にある『シビレ山』という奇妙な名前の山の隠された真実を世間の人に、注目と注意と喚起を促すシグナルに映ります。
アドレノクロムとコロナワクチンともどこかでつながるような不気味な感じのする事件発生です。
下は、書写山とシビレ山と光明皇后の地下神殿と聖武天皇を結んだ図形です。事故現場は、まちがいなく奇怪な秘密を満たされない魂が必死に訴えかけているようです。
2021年4月16日(金)
過去、私が建築にたずさわっていた時代に大変お世話になった人に、尊敬する佐々木さんが居てる。
伏見山(ぶくみやま)の東にそびえる三岳山との間にある集落の『佐々木』の文字を見ていると、佐々木さんとの思いでが一つ一つ蘇ってくる。
大変頭が良く、思いやりもあり・・、でも仕事には厳格で絶対に妥協しない厳しさをもっていた人でした。
「私もこのような人になりたい」といつも思っていました。
その佐々木さんに数年前に再会する機会を得た時に、「私のルーツはサンカです」と言われて、「やっぱり!」と隠されている神様にやっと出会ったように思えた瞬間でした。
私は、10年ほど前、このかごめの謎解きを始めさせられたころ、「あなたはサンカの人達に早く出会わなければなりません。この本を読みなさい」と、サンカのことが詳しく書かれた4,5センチもあるような分厚い本を霊能者から突然渡されたこともありました。内容が難しすぎて読み切れず、でも‥サンカの人達は古代から天皇を支えてきた人たちであることをその本によって教えられました。
日本の本当の歴史を知っているサンカの人達は、いつか私の中で憧れの人達になっていきました。
私が小さい頃、お祖父さんが、「家は平家の武士だ!貧しくても誇りを持て!貧しくても他人に施しをせよ!!」と教えられたことと通じるものを感じていました。
ここにきてこの地域の地図を眺めていてそれらが非常にシンクロしてなりません。
この流れも、「私のルーツは秦河勝です。もっと秦河勝とそのルーツを知りたいのです」と、私を先日尋ねられた大倉正之助さんに出会ってからの流れでしたから、これもシンクロしているようなのです。
そして・・、「三岳山」の名前に、「思い出せ、思い出せ・・ミ〇ケ!」と、どこかで声が響くような・・。
「んん~~ん、どこで聞いたんだろう・・、どこか見覚えがあるような、聞いたことがあるような・・??!」。
・・!! 思い出したのが、応神天皇が子供の頃暮らした思い出の地であると教えられた安栖里を訪ねて宿泊した和知の駅前の「料理旅館 角屋」さんの部屋の名前でした。
そこで神様が、よ~~く 「見解け!」と言われたことを思い出しました。
泊まれる部屋の4室は、「長老」「愛宕」「三峠」・・そして「鶴亀」でした。
これらの4つは、全て謎解きの神様の暗号で、
「長老」は長老ヶ岳。
「愛宕」は愛宕山で、今までに謎は解けていました。
ここにきてやっと「三峠」の意味を神様は教えているようです。
「三峠」と「三岳」が私の頭の中で、パチンと重なりました。
ミトケもミタケも同じように思えたので、それでさっそく三峠山と三岳山と愛宕山の三点を結んでみると・・、! どうでしょう。
三峠山から三岳山、そして愛宕山まで共に32㎞と同距離で、二等辺三角形を描きます。
こうなれば、俄然マウスは勝手に動き出します。
「思い出せ、思い出せ! 聖武天皇の墓だ!」
「愛宕山に向けて十字架の地下神殿が造られている光明皇后の地下神殿の光明山だ!」
「結べ、結べ!」と聞こえてきます。
・・ので、結んでみると・・!
三岳山から大本の綾部本部の禁足地である聖武天皇の墓までと、光明皇后の地下神殿までの距離は共に21.6㎞と同距離の二等辺三角形を描きます。
偶然?
このようなことは偶然では起こり得ません。
空海コードは凄すぎる!のです。
2020年10月3日(土)
橘三千代の墓は、誰も来ない奥山に造営されていて、地下神殿の様相です。
又、三千代の子である光明皇后の十字架の地下神殿は、愛宕神社(愛宕山)に向けて造られています。
愛宕山と橘三千代の墓の二点から直角三角形を描く、しかもケプラー三角形を描くポイントである和束町にベンチマークポイントとなる巨大な磐座が存在しているようです。
その場所の情報は、ネット上にもどこにも何一つ存在しません。
そこで今日、その磐座調査に武部さんと行きます。
何があるのか、何もないのか・・、この目で確かめてきます。
2020年8月11日(火)
光明皇后の地下神殿がある光明山と、愛宕神社総本宮がある愛宕山の間には遮る山が無い。
二つの山は互いに光通信ができる。
地下神殿は、間違いなく愛宕山に向けて造営されている。
特製のゼロ磁場Lロッドコアがとらえた配置図と方位も1度の狂いもないことに驚くばかりである。
いつの日か全容が明らかになるときが来るのか来ないのかは分からないが、楽しみでもある。
2020年8月8日(土)
前日おじさんが教えてくれた場所から登り始めました。(8月2日)
林道から見上げる光明山です。
尾根から山頂へと先頭を行く武部さん。
山頂では簡単なお供えをしてご挨拶を。
頂上直下には、地下神殿が存在しています!
ピラミッドの様相です。ビックリです!驚きです!!
そして地下神殿は十字架の空間の中心に凡そ10m×20mの玄室が存在しています。
(メジャーを持っていなかったので、私の歩幅での凡その長さの数値です)
そしてその十字架の神殿は、京都府の愛宕山山頂にある愛宕神社総本宮に向けて築造されていました。
そして直角右手方向には光明山(ここも古墳である)があり、三点は40度 50度 90度の直角三角形を描きます。
特製のゼロ磁場Lロッドコアで計測した角度と1度も違っていない場所に同じ光明山と愛宕神社の総本宮があることに驚きを隠せません。
これはもう、計算されつくした図形であり、光明皇后の地下神殿には大きな大きな秘密が隠されていそうです。
2020年3月1日(日)
唐津東港~壱岐印通寺港 のフェリーから見た島で、ランドマークの島は馬渡島(まだらしま)であることが分かった。
あたかも巨人が寝ているような涅槃像である。調べると一つの島でなく、頭にあたる部分は、馬渡島で最高峰は番所ノ辻(237m)。
壱岐の郷ノ浦から出航した船は、佐賀県唐津市呼子の港を目指します。
千山から呼子まで基本的には福神さま達は、聖なる霊ラインを航行します。
壱岐から呼子に行くには、ランドマークとなる島は、間違いなく馬渡島。そして松島を目標に船は進みます。
遠くは、馬渡島の先に青螺山(せいらさん618m 佐賀県伊万里市)、松島の先に天山(1046m 佐賀県唐津市)
郷ノ浦の港を出てほどなくすると、遠くのランドマークの山々と島々が南東方向に見えます。
壱岐水道の潮の流れを計算すると馬渡島を目指して直進するとほどよいコースをたどって、馬渡島を右手に見ながら松島よりに馬渡島との間を縫うようにして加部島の天童岳(112.1m)左に舵を切って、弁天島を右手に手を合わせて右に舵を切ればそこが呼子の港です。
正面に愛宕山が迎えてくれます。
ここが、中国の千山から延びる聖なる霊ラインの終着港であり始発港でもありました。
邪馬台国へと行くには、必ず呼子で下船し、報告をしなければなりません。
決まり事なのです。
でも、ここで終わりではありませんよ。
舟の旅は、もう少し続きます。
許可書をもらったら、出航して正面の加部島を見ながらすぐに右手に舵を切ります。
そうすると書面に鷹島が見えます。
そして宝船は、土器崎の眼鏡岩を右手に見ながら東へと進むと神集島(かしわじま)。
神集島を過ぎるころ、ランドマークの島である高島が右手に見えます。
そうするとも目標の串崎が見えて、切り立った山々を右手に見て・・、
「山が海に迫り、沿岸にそって居住している」という意味を魏志倭人伝では書いている場所が途切れたところが、壱岐からの船の旅が終わり下船する地点です。
ここから陸路の旅の始まりである末盧国の福吉です。
やれやれ・・です。 これから急いで陸路の旅です。次また船に乗る地点である福津(福間)まで急がなければ、本が出来上がりません。
急がねば・・・。