2020年11月11日(火)
先日、額田王の墓へと行った時、お墓の上で中原椿さんが、
「ここは誰の墓ですか?」と。
私は、「エッ!? ぬかたのおおきみ の墓です」と言うと、
「愛知県にも岡崎の近くに額田郡という地域があります」と教えてくれました。
「エッ!!」
・・壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が伊勢、伊賀、美濃、尾張、三河方面に援軍を求めたこと。
そして、これらの地の豪族たちの協力が得られたことが弘文天皇(大友皇子)側に伝わるや、弘文天皇側の従者たちは怯えて戦意を喪失したという。
私には、この謎がづっと頭の片隅にあった。・・「なぜだろう・・??」と。
その謎が、額田王の墓の上で椿さんが発した言葉で、「もしかしたら・・」と、三角法でその謎が解けるのではないかと後日、ネットで「額田郡」の歴史を調べて、地理院地図で調べると、やはり思った通り浮かび上がりました。
それが、下の図形です。 ここから謎の祢がたどれそうです。
額田郡を調べると京ヶ峯という山の存在が浮かび上がりました。
『峯』とは、へブル語でお墓の事ですから、額田王と大いに関わりの深い大部族の首長の墓なのでしょう。
そのような関係から三角法でのもう一点を求めると、安栖里が浮かび上がりました。
安栖里と言えば、卑弥呼の息子の嫁の里で、卑弥呼が岩戸隠れしたあとに応神天皇が幼少の頃に過ごした思い出の地でした。
まさか・・、もしかして・・、と安栖里(500m)の山(墓)と京ヶ峯との二点からタレスの定理で求めるラインを見ていくと、ズバリ天武天皇の墓が存在しています。
このことは、天武天皇と額田王は、濃い血縁関係であることが読み解けます。