はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

高野山へ…(続編)

2015-10-22 20:28:41 | 寺社めぐり
18日(日)の高野山参拝の続編です。
(高野山のシンボル根本大堂)

前回は高野山を開創した空海さんのことに少しふれましたが、今回は、高野山を訪れた旅する歌人と俳人のことです。
歌人とは、西行さんのことです。以前、「名残の桜をたずねて」(4/11)で弘川寺のことを書きましたが、桜をこよなく愛した西行さんです。西行さんといえば吉野山と思いがちですが、実は30年ちかく高野山に庵をむすんでいたのです。1147年から1179年のことです。(その間に、吉野にも住み、京にも出かけて行ったようです。)
高野の山中から、保元の乱・平治の乱とつづく歴史を眺めていたのですね。



ひとり住む 庵の月の 射し来ずは なにか山辺の 友とならまし (山家集)
高野の山の中で月を友とした西行さんの歌です。



そして、俳人とは我が芭蕉さんのことです。芭蕉さんも高野山を訪れています。奥の院への参道を歩いていると「芭蕉句碑」に出合いますよ。

ちちははの しきりにこひし 雉の声 (笈の小文)
この句は、行基さんの詠歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」をふまえているそうで、さすが物知りの芭蕉さんです。



ついでに?もう一人、与謝野晶子さんの歌碑も建っています。堺に住んでいた与謝野晶子さんは何度も高野山を訪れたそうです。今も南海高野線は堺市内を通っているので、高野線で行ったのかもしれませんね。ただし、高野線の開通は1928年なので…。
やわはだの あつき血潮に 触れもみて さみしからずや 道を説く君
高野山で修行する若い修行僧を見て詠んだといわれています。



私も大阪市内の中学生だったので、林間学校で高野山に泊まった思い出があります。夜は奥の院で肝試しをしたり、宿坊で枕投げをしたり…。あんまり文学的ではありませんね。




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