昨日に引き続き、今日も春なような暖かな陽気に恵まれました。ただ、午後からは風が強まってきていて、明日からはまた冬の寒さが戻ってくるようです。
ところで、今日2月17日は《蝶々夫人》が初演された日です。歌劇《蝶々夫人》(Madama Butterfly)は、

ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)によって作曲された3幕もののオペラです(見出し写真はミラノ初演時のポスター)。
長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く物語は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表した短編小説『Madame Butterfly』を原作にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した戯曲を歌劇台本化したものです。歌劇《蝶々夫人》は色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあって、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品です。
プッチーニは24歳で最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の《マノン・レスコー》で一躍脚光を浴びました。その後《ラ・ボエーム》(1896年)、《トスカ》(1900年)と次々と傑作を生み出したプッチーニが《蝶々夫人》を書いたのは、音楽家として脂の乗り切った時期でもありました。
《トスカ》を発表してから次のオペラの題材を探していたプッチーニは、1900年《トスカ》が英国で初演されるロンドンに招かれました。その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲『蝶々夫人』を観劇したプッチーニは感動し、次の作品の題材に『蝶々夫人』を選びました。
プッチーニはミラノに戻ると、《トスカ》の台本の執筆を手がけたルイージ・イルリカ(1857〜1919)とジュゼッペ・ジャコーザ(1847〜1906)に頼んで、最初から3人の協力で『蝶々夫人』のオペラ制作を開始しました。翌年には難航していた作曲権の問題も片付いて、本格的に制作に着手しました。
《蝶々夫人》作曲にあたってプッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励みました。当時のイタリア駐在特命全権公使であった大山綱介の妻・久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めました。
当時のジャポニスムの流行も反映してか《蝶々夫人》には同時期に作られたオペレッタ《ミカド》などよりはるかに日本的情緒のある作品に高めていて、日本人に好まれるオペラの一つにしている要因となっています。 《蝶々夫人》に引用、転用されたのは
「宮さん宮さん」
「さくらさくら」
「お江戸日本橋」
「君が代」
「越後獅子」
「かっぽれ(豊年節)」
「推量節」
といった曲です。
オペラを聴いていると、これらの旋律があちらこちらに使われているのが分かります。ただプッチーニはこれらの曲の歌詞の内容まで吟味したわけではないようで、長崎の話なのに「お江戸日本橋」が流れてきたりすると、何だか「江戸の仇を長崎で討つ」みたいな微妙な気分になるのは日本人だけでしょうか(汗)。
1904年2月17日ミラノ、スカラ座で行われた初演は、プッチーニの熱意にもかかわらず振るいませんでした。もっとも、プッチーニの作品は《蝶々夫人》に限らず、初演で不評を買うのが常ではあったのですが…。
初演では拍手ひとつなく、

その時に蝶々さんを演じたロジーナ・ストルキオ(1872〜1945)は舞台裏で泣き崩れ、それをプッチーニが抱きしめて励ましたといいます。それでもプッチーニは《蝶々夫人》の成功を信じ、自らの生存中はスカラ座での再演を禁じていました。
失敗の理由についてはいくつかの点が指摘されていますが、初演版では第2幕に1時間半を要するなど上演時間が長すぎたことや、文化の異なる日本を題材にした作品であったため観客が違和感を覚えたという原因が挙げられています。ひどく落胆したプッチーニでしたが、初演後すぐさま改稿に取りかかりました。
改訂版の上演は3か月後の同年5月28日、イタリアのブレシアで行われ、こちらは大成功を収めました。その後、ロンドン、パリ公演とプッチーニは何度も改訂を重ね、1906年のパリ公演のために用意された第6版が、今日まで上演され続けている決定版となっています。
《蝶々夫人》は抒情的なテーマを盛り上げる美しいメロディや複雑な和声効果の使用などプッチーニの音楽の特色が現れた作品であり、イタリアオペラを代表する演目の一つとなっています。プッチーニにとっては、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)によって完成されたロマン派オペラの後継者としての地位、イタリアオペラのマエストロの地位を確立させることになった代表的作品でもあります。
《蝶々夫人》には数々の名盤がありますが、今回は一風かわったオペラ映画をご紹介しようと思います。
1954年(昭和29年)にカルミネ・ガローネ(1885〜1973)が監督として、東宝とリッツオーリ・フィルム=ガローネ・プロの日伊合作でオペラ映画《蝶々夫人》が製作されました。所々ナレーションでつながれたダイジェストオペラ映画で、合唱には宝塚歌劇団員をはじめとした日本人俳優たちが登場し、タイトルロールである蝶々さんは

当時宝塚歌劇団在団中だった八千草薫(1931〜2019)が演じました。
この映画ではキャストは全て「口パク」で演じ、歌唱は全て吹き替えで行われていますが、吹き替えとは思えないほどキャストの口の動きが歌唱にピッタリと合っていて驚かされます。日本的なセットと美しい所作が魅力的なこのオペラ映画は、日本だけでなくイタリアでも大評判をとりました。
そんなわけで、今日はプッチーニの歌劇《蝶々夫人》を、日伊合同製作によるオペラ映画でお楽しみいただきたいと思います。二十代の八千草薫が演じる、輝くように美しい蝶々夫人を御覧ください。