満州歴 康徳12年7月
大和歴 昭和20年7月
世界は 1945年7月
大陸の夏の始め頃、深夜に国境を超えた。
【はたしはあの晩】
漸くの想いで河を渡り終えた。
長い時間水の中に浸かっていたので、躯が冷え切ってしまていた。
酷い疲れを覚え、暫くは河原を埋め尽くすかと群生する背高い夏草に囲まれ、仰向けになって横臥していた。
濡れた裸の胸は夜の空気に曝され、肺が新鮮な空気を求め喘いでいたので、黒い影で大きく波打っていた。
激しかった心臓の鼓動、星を眺めながら休憩していると、次第に治まりかけていたが、
夜の漆黒な静寂の中に迸り出そうな、堪えようとしても出てくる悲鳴じみた喘ぎ息、
鎮めるのには暫くの時を要した。
酸素の希薄さに喘ぐ肺、鍛冶屋のフイゴみたいに大量の空気を求め続け、
喉奥の気道を何時までもと、勢いよく流れる空気の圧力で押し開け続けていた。
息が荒げるのを堪え、背高い草を濡れた躯で押し倒した隙間に横臥し、
其処から覗ける限られた視界で、夏の夜空の煌めく星々を下から眺めていたら
内地では見たこともない背高い草の生い茂る河原には、夜が緊張感で騒ぎ出し、
夜の漆黒な闇、煌めく黒色で輝きだし勢いよく奔りだすかとな、狂気な雰囲気が漂っていた。
耳の鼓膜は、緊張感に満ちた脳内に新たに溢れでる警戒心で、ナニか不自然な物音がしないかと、
静かすぎる暗闇の何処かに求める、不審音を捜し続けていた。
夜を静かに騒がし鳴いていた夏虫ども、叢に侵入した人間に驚き鳴き止んでいた。
暫くは夜の世界、人の喘ぐ息音だけのシジマな世界になっていた。
躯が動こうとする衝動が湧いてくると、次第に地虫どもの鳴き音が戻ってくるのを、欹てていた耳が聴きつけた。
耳元の直ぐ傍、草の根元辺りから鳴き声が聞こえ始める。
鳴き音(ネ)は、静かな夜では大きく聞こえ、未だ耳奥の水が抜けきらず、聞こえ難くなっていた鼓膜。
自分でも思わずな快さな音に、喜んだ。
夜が黒色で凍りつくかと張り詰めていた緊張感は次第になくなりかけ、柔らかさな星降る夜になってきていた。
姿が観えぬ虫たちの鳴く様は、無数の壊れかけのサイレンや鈴の音などが混じり合い、
互いに競いながら、暗さの中で忍び鳴きしているようだった。
国境の北側の夜は、現実逃避な穏やかさが満ちてきていました。
【回想】
ジッと身動きせず息を整えながら耳をソバダテ、辺りを警戒する。
黒色な群生する背高い草の谷間から覗ける夜空は、狭い視界の中だけで観える星が、
取り囲む草の先を仄かな影で見せるように、瞬くように白く煌めいて輝いていた。
目前に手を翳すと、峡さな視界で望める瞬く星影の中に、自分の手形の分だけ星が消えた。
胸の中では心拍鼓動が、馬橇馬場(バンバ)競争のときに打ち鳴らす、早鐘のように奔っていた。
此の時、こんな状況は何時もの事で慣れていて、
少しも怯えはなかったけど、その代りに想うことがあったそうです。
「巧くやれるさぁ、露西亜の教授教が教えてくれたからな 」
っと、ソット声を出さずに呟けば、これから先の計画事が巧く運ぶかもと。
「いつまでも、こんな馬鹿やってると、いつかは死にやがるなぁ 」 とも。
不覚にも、そぅシミジミ想えば人の胸の内では、我が身でも気づかない何かが生まれるんだわさぁ。
心細くはなかったけれど、はたしは此の時代に面白いように弄ばれているなぁ。
見知らぬ土地で、星を眺めるような深間な時刻、暗闇で反芻する教授と仰いだ知恵者の教え。
コンナ状況では、巧くいくかどうかは確かめようがないけれど、素直な気持ちで受け入れるしかないなぁ。
ッデ 此の世からオサラバすることがあれば、最後くらいはジタバタ足掻いたりしたくはないよぉ。
終わりがない、永い夜がいつまでも続けばいぃよねぇ。
夏の夜、寒さを覚えていた濡れた膚、乾き始めていた。
【The night when night is deep:夜が深い夜】