あの晩、誰もが喋るのを忘れていた。
誰かが何かを言えば、何かが壊れそうなほどの静謐な何かが
部屋の中に満ち溢れるように居座り続け、支配していた。
なんの物音ひとつしない静かな部屋の中は薄暗く、薄暗さの元の明りは庭に面した窓から斜めに降り注ぐ月光。
月の明かりは青白に近い白銀色だから、照らされた白っぽい影の部分っと、
窓下や床板の照らされない陰の部分、黒影色にとクッキリ切り分けられるように為っていた。
自分、黒い影の中で身動きもせず、静かに背中を壁にもたせかけ、闇に溶け込んでいればと。
聴きたくもなかった古い昔話から逃れられるかもと。
此の時、酔いが支配する、酩酊寸前の襤褸なお頭の中で、無邪気にもそぉ想っていた。
黒い影の中に、そぉっと紛れ込んでいたら、部屋の中の誰からも気づかれることもなく、潜んでいられると。
今に為ってあの時の出来事を色々と想い返せば、あの晩のバァさんの語り口調。
誰かに聞いて欲しい、言いたい、っと堪らなかったけど言えば如何なる事やらと想いながら、
随分と長い年月(トシツキ)、胸奥で我慢し続け、人に話すことも叶わぬことならば其の代わり、
永くと懊悩しながら反芻し続け溜めこんだもの、あの晩、あの医院の暗い部屋のあの場所でヤット人に喋れる。
だから早く喋ろうとして焦り逸る心を無理にと宥め鎮め、気持ちを抑えつけながら訥々と、静か語りしだしたんだと。
もぉぅ戻ることもできない今頃になって当時を振り返れば、漸くと気付くことばかりの、ダラケ心算。
自分、壁にもたれ繰り返し胸の中でゆうてました。
昔の終わってしもうた物事ぉ、ナンで今さら自分が聴かされなアカンねん。
バァさんの繰り言みたいになった言い方を、ナンで聴かなアカンねん。
ッテ想いながらコン時、ワイ顎を落とすように項垂れた首、小刻みに振ってたと想うねん。
ドッカ遠い所から聴こえるような、何回も自分を呼ぶ声がしたと想い顔あげた。
「チィフ、眠たいんかいな?」
医者が化けモンの寝転ぶベッドの向こうから話しかけてきたとき、
ロイド眼鏡の玉(レンズ)が月光を反射し、無機な白っぽさで閃くように瞬き輝いた。
「ワイ、帰るわ 」
自覚ない酔いは痺れた自分の脚を忘れさせ、途中までしか立ち上がれなかった。
その代わり、壁を背中で擦り伝いしながら床板にと、音発て真横に倒れてしまった。
音は刹那で止み自分が倒れても、誰も少しの身動きなどせず、無言で視線だけぉ注いできた。
為に部屋の空気は動かず、ユックリと棚引くように浮いてた煙草の煙。
斜め射す白銀色の月光の影の中、淡い静か銀色輝きで浮かんでいた。
暫く痛さを堪え横になっていたが、躯を動かした者はいなかった。
部屋の中でする音、自分の呻き呟きだけ。
自分、酩酊気分だけじゃぁなく、聴いてたバァさん語りのせいで気分は重くと滅入っていた。
呑み助の厭らしさで横に倒れても、咄嗟で両掌に掴んで庇ったグラスの中に残った酒。
首を持ち上げ喉の奥にと一息で流し込み嚥下させたら、露西亜の酒が喉で鳴る音がした。
自分では気にならないほどの微か音が、静か部屋内ではケッコウな音で鳴ったようで、
みんなの視線が改めて自分に突き刺さりながら集中してきたのが、酔いの肌でも粟立ち判った。
だから部屋の暗さな雰囲気は、瞼を閉じてても堪らないほど眩しかった。
部屋の中が真横に観える視界の目尻、上隅からバァさんが床板軋ませながら近づいてきた。
直ぐ傍らで立ち止まり佇んだバァさん、酔いの錯覚か、バァさんの若い頃なんか見たこともないのに、
屈託のない満面笑顔の若い娘姿で姿勢よく立ち、自分を見下ろしてくる。
旧大日本帝国陸軍将校の軍服を、華奢な細みの躯に纏い、乗馬ズボン姿で
銀の月の光を、艶を込めた輝きで反射させるほどに綺麗に磨きこまれた、
膝下までの革長靴を履いてた。
両手を腰に当て両肘を張り、右腰の手脂の滲み込んだバンド辺りには左肩から伸びた、
細い革帯に吊られた、デッカイ軍用拳銃の納まった蓋つきの革サックが装着されてるのが、
薄暗さの中でも窺えた。
艶な細い手指をしなやかに動かし、慣れた手つきで革サック蓋の留め金、微かに金属音響かせ外した。
ユックリとした動作で丸っこい軍用拳銃の銃床を握り、銃把に指を添えながら抜いた。
細い銃身の根元辺りから下に伸びた銃と一体型の弾倉が視え、銃後部の撃鉄に親指。
バァさん、 艶然と微笑みながら、革長靴の鞣(ナメシ)た皮革独特の音させながら、
爪先だけで両脚を相撲取りが蹲踞(ソンキョ)するように大きく開き、しゃがみ座りする
「ぁんたぁ知っとぅ、拳銃で人が撃たれるとぉなぁ、ホンマニな小さな穴がポッカリ空くんやでえ 」
誰かが含み笑いしながら、笑いを堪える断続的な息継ぐ音がした。
「知らんがな、ナンやねんっ!」
「小銃やったらなぁ、一発腹に喰ろうたらな、背中に柘榴みたいな肉割れすることもあるねん 」
「重機(重機関銃)なら、胴躯真っ二つになるなぁ 」 医者の嗄れ声やった。
「ダワイ、ダワイ、カバンッダワイッ!」 タドタドシイ大和言葉で露西亜の化けモンが。
自分キツク瞼を閉じ、奥歯を噛み締めていた。
我慢しようもなく、苦い汁が喉の奥から湧いて出てきそうやった。
瞼の裏が赤色輝きに染まると、若い女の声がした。
「なぁ、カッきゃん一服しぃな。 ホレ 」
促され目蓋を開けると直ぐ眼の前に、軍用乗馬ズボンの膝を大きく割り開き、
しゃがんだ若い見知らぬ女が居た。
開いた左太股の膝辺りに肘をついた手指先には、消えかけた燐寸の軸。
もう片方の此方にと伸びている腕の指先、火が点いた細巻きの煙草。
吹口には、真紅の口紅がベットリっとな感じで付着していた。
「ホレ、吸いぃ 」
女が喋るとき口から煙が漏れるように吐かれ、ワイの唇に無理やり煙草が刺しこまれた。
煙草を前歯で銜えたら、酔いで味が解らぬ舌先に、濃い口紅の味がした。
鼻腔の奥で、化粧の匂いも嗅げていた。
あの晩の慰めは女の口紅の味と匂いやったけど、其の味を再び眼を瞑り味おうてると聴こえた。
乾いた金属音が。
「ぁんた、撃ったろかぁ 」
乾いた音は、撃鉄が起こされる音やった。
自分、今でもハッキリと憶えています。 瞼を開けるのが辛かったのを。
開けると、取り返しのつかない事が起こるかもと。
瞳にクッツクほどの目前に、視界を蔽うほどの真近くで。
今わの際の瀬戸際の、招かれても逝きたくもない深遠な世界を覗き込ませそうな、
深くと黒い色の穴、銃口が。
自分、途轍もない恐怖に駆られ、キッチリ小便漏らしズボンの前を黒く濡らしながらやった。
両眼(マナコ)が、開きっぱなしの引き攣る上瞼に隠されながらやった。
止め処となく逝きたくもない闇にと、深くと、堕ちて逝きました。
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