横浜スローライフ -- My slow life in Yokohama

位置情報、地理情報に関するサービス、その他日常生活から思ったことを気ままに記す不定期のんびり日記

「オープンかクローズか」はトリッキーな選択肢でもある

2011年01月17日 00時33分01秒 | ビジネスetc
オープンかクローズか、という区別は、時としてトリッキーなものになる。それを思うのは、最近メディアでよく見かけるiPhone対Androidの論評だ。

 iOSはクローズドソース、Androidはオープンソースで、これは事実だ。だが、ソフトウェアのソースコードがオープンであるか否かで、両者の優劣や、はたまた善悪の判断に持ち込もうとする論調を見かけたりするのには、どうかと思う。

 ソフトウェアのソースコードが公開されていること、これはそのソフトウェアの発展のエコシステムを築く上で本当に重要な一歩である。しかし、それは一歩に過ぎず、そのソフトウェアのエコシステムを担っていく、よく統治されたコミュニティができあがらないと、そのソフトウェアは「オープンソースプロジェクト」にならず、単なる「ソースが公開されているソフトウェア」に留まってしまう。

 Androidは、スマートフォン向けのOSとして、最も勢いのあるオープンソースプロジェクトになっている。おそらく、このオープンソースプロジェクトは巨大化し、機能は複雑化し、バージョンは細分化され、いずれは過去Linuxがたどったような、複数の流派(ディストリビューション)によって統治されるようになるだろう。というか、スマートフォンメーカーからリリースされている機器を見ると、同じAndroidでもユーザーインターフェイスがバラバラになりつつあり、今後それが統一される期待はもはや持てない。

 一方、iOSは一つの企業、しかも個性の強い経営者の統治下で、一切の分派を否定することになろう。そこには、自由(Freedom)は認められない。では、それはAndroidと比べて邪悪なことなのだろうか。私は、そうは思わない。なぜなら、本来邪悪なものは、利用者が真に求めていないにもかかわらず、満足していないにもかかわらず、しかも不当に高価であっても、それを利用せざるを得ない状況に持ち込むようなもの(そう、私はWindowsやMS-Officeのことを言っている)である。iOSが利用者に高い満足を与える限りにおいては、クローズドで統治されるメリットの方が大きいと思うのだ。

 それでも、オープンかクローズか、という議論は”怖い”面がある。オープンソースが市民権を得るようになると、それ以外の視点が捨象され、皮相的な二者択一の善悪論が横行し始める。オープンソースは「運動性」を持っているので、冷静な議論が期待できない場合もある。

 ここでアップルのSteve Jobsは、「オープンかクローズか」という議論に対して、「統合か断片か」という別の視点を提示している。実に上手な議論の「すり替え」であると感心する。私はあえて、彼の議論運びに乗っかってもよいと思っている。

 最近、アップルの製品を次から次へと入手して使っている小生だが、それらの何が優れているかというと、高い統合性である。デバイス、OS、アプリケーションソフト、そしてiTunes等が、無理なく調和し、利用者に「強いる」「我慢させる」ことが滅多に無いような次元で統合されている。こういうことが可能となる背景には、かの経営者の卓越した能力ばかりではなく、ハードウェアやネットのインフラが高度に発達したからこそなのだろうと思う。

 ある論者は、Androidが急速に普及して、アップルはパソコンで犯した過ちを再び繰り返すことになるだろうと予想している。つまり、アップルは、パソコンシェアでマイナーしか取れなかったという過ちを、スマートフォンでも繰り返すというのだ。

 確かに、数の上ではそうなのかもしれないが、何か論点を取り違えているように感じる。

 私が思うのは、とりわけ今後の情報端末においては「オープンかクローズか」を超えて、「統合か分断か」の方が大事であるということだ。これは、オープンかクローズか、という議論が意味をなさなくなるのではなく、そこでの議論は今と同じように存在するのだが、そこが一番重要なポイントでは必ずしも無く、むしろ次第に、その重みが相対的に減っていくように思う。

最新の画像もっと見る

post a comment