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山あり谷ありの国際結婚ブログです。

1か月かけ届いたカードとハワイに行く娘

2020-01-10 | 日本の家族

木曜日、イリノイの家に帰りつくと

日本の従姉からクリスマスカードが届いていた。

 

古い住所宛てだった事から日数をかけやっと到着。

 

 

カードの中には昭和34年に写された白黒写真が入っていた。

 

 

S34,4,5と書かれた年月日が父の筆跡に似ている

 

 

写真に写っているのは

私のいとこ3人とまたいとこ2人に2歳の私だ。

 

皆が見つめているのは誰なんだろう

人物写真を見るとその視線の先が見たくなる。

 

 

 

子供の頃の思い出には

彼らとの時間が大きな部分を占めているので

そんな思い出と一緒に懐かしく写真を眺めた。

 

面白い事に2歳半の私が今の自分と同じ雰囲気を持っている事

自分の心を素直に出した表情が何とも良くて安心する。

 

昔に想いをやりぼんやりしていると

コロラドに住むミックママ(姉)からスナップチャットで短いメッセージが届く。

 

 

”私たちハワイに行く事になったの”

 

えーーー

 

確かに医者から国内線での旅の許可は下りてはいるけど

おりたばかりだし

何も海を越えたハワイまで行かなくとも、、、

そんな事をまず思う私に

ミックママがハワイ旅行をする事になった事情を話し始めた。

 

旅の招待をしたのはミックママのお義母様。

 

ご両親の遺産を使いお義母様の母親が好きだったハワイに

家族15人で行く事になったらしい。

それも子供たちの春休みを利用して今年の3月に行くと言う。

 

 

 

 

この古い写真を送ってくれた従姉と数年前

ハワイで落ち合う計画を立て始めた事があったので

余りの偶然にその話も思い出した。

 

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5 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
61年前 (すみれ)
2020-01-10 21:26:22
私は、この家で8歳まで生活しました。田舎町でしたが、当時としては、大きな建物で生活も裕福でした。
明治生まれの祖父は、怖かったけど威厳がありました
毎晩、祖父だけ、お刺身を食べていました。日本酒も毎晩飲んでいました。
困っている親戚の世話をしたそうです。祖母も長女で兄弟姉妹の内1番長生きだったので、出里のことを気にかけていましたね
昔は、親戚どうしの、お付き合いがありましたね
祖父母の亡くなった年齢に近ずいてきました
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Unknown (小父さん)
2020-01-10 22:32:21
S34,4,5 の写真はとても懐かしいでしょうね~。
一番前の真ん中がイジーさんなんですか?

そうだとしたら、笑顔が今に繋がっていると思います!

>皆が見つめているのは誰なんだろう

それはカメラマンでしょう。
当たり前か(汗)
それが、誰か?ということですよね。

>”私たちハワイに行く事になったの”

ミックママも本当に元気になられましたね。
もちろん、出掛ける前には医師に許可をもらわれることでしょう!

>ハワイで落ち合う計画を立て始めた事があったので

奇遇ですね。
長い人生にはちょくちょくそんなこともありますね。
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本当に (ままちゃん)
2020-01-11 00:33:28
Synchronicityと一言で片づけられない類似性ですね。孫を見ていて、あ、これは幼い頃の私みたい!と思うことがよくあり、それはそれでDNAで説明できますが、Izyさんのは、DNA以外、DNA以上のことですね。ミックさんが、それほど快復なされて、ヴァィタリティにあふれ、お元気そうなのが何よりです。それにしてもなんと可愛らしいお写真でしょうか!
今年もみなさまに数多くの祝福がありますように。
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Unknown (ree)
2020-01-11 03:14:45
私の幼い頃もいとこ達と遊んでましたっけ。
でも写真に残ってないんですよ。
なんでだろう???

ハワイ、いいですね~。
返信する
氷が張って滑りやすい今日です (コメントありがとう)
2020-01-12 04:23:19
*すみれさんへ

ここはあの黒い塀の家なんですね
あの町であった天狗のお祭りは怖かったので記憶にありそれと一緒に黒い塀が思い出されます

8歳までと言うと 私たちが祖父母の家に移ったと同時に高知の家に引っ越されたんですね
高知の家の想い出の方が私には多いです。

祖父は私も怖がっていました
皮膚病をもっていた私の為黒い塗り薬をぬろうと追いかけて来た思い出があります
逃げる事が出来た自分はその分自由な気持ちでもあったんでしょうが

その怖い祖父が胃がんですっかり弱りタクシーのバックシートに横になり高知の病院に駆け付けた日の事や 畳にしかれた布団に横になった祖父には点滴の管が通っていた事なども 思い出されます

豆腐は身体に良いと言い毎日お豆腐を食べていた話も思い出されます  と言うのも 祖父が亡くなって暫くして天声人語に豆腐を作る時に使われる物に発癌物質が入っていると書かれていたからです

祖父母は貧しい家庭の患者さんを無料で診ていたらしく その患者さんの娘さんが祖母がなくなるまで毎年お中元とお歳暮を贈ってくれたことでした
そうそう 東大に入学できた優秀な青年の東京での暮らしの世話もしたとききます
チョコレート会社に就職した彼からチョコが送られてきていました
定年退職して高知で個人塾を開いた彼の所で無料で勉強を習った事でした 

黒い塀の家は部屋数も多くお手伝いさんが3人いたといいますが そうですか?
その中の一人は高知に住んでいた私たちを訪問してくれ 奥様 お嬢様と呼んでくれた事です 
じゅんこちゃんのお母さんだったと思います


*小父さんへ
一番前の真ん中が私です
歯抜け婆さんのような顔ですね  笑
でも素直な幸せそうな笑顔に安心します

この頃のカメらってどんなものなんでしょうね
こういった写真が何枚かありますが誰が撮っていたんだろうと思う事です

ハワイは5時間ぐらいで行けるんでしょうかね
狭い飛行機の中で長い時間いるのがよくないようで飛行機では一番前の席を与えてもらえます
この場合はファーストクラスにしてもらえるかも、、


*ままちゃんへ

母親方との付き合いなく育ち父方のいとこはこの3人のみ
伯母は親のいない私の世話をなにかとしてくれました。
高校時代は家に住まわせてもらいましたし、、。


ステロイドを取っている娘の顔は丸くなり身体はすっかり痩せてしまいましたが こうして旅行も出来元気にしている事に感謝です
臍帯血移植の医術も著しく進んできていますね。

癌は死の病ではなくなりつつありますよね

*Reeさんへ

年齢の近いいとことは子供の頃はとても仲が良かったです
悲しい事に彼は56歳で亡くなってしまいましたが






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