イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

意訳という名のジェイウォーク

2007年02月06日 00時06分50秒 | 翻訳について
直訳か意訳か。翻訳にとっての永遠の命題ではないかと思う。
翻訳をしている限り、
常に目の上のタンコブのようにのしかかってくる問題だと。
誤解を恐れずに言えば
(というかこの話題になるとなぜか大きな恐怖を感じてしまうので
怖さを完全に捨て去ることはできないのだが)、
自分は意訳派だと思っている。

現実にはあまり「私は直訳派です」という人はいないのかもしれないが、
原文に書いていないことは一切訳さないしはみ出さない、
という概念としての直訳主義があるとしたら、
それに対するアンチテーゼとしての意訳主義である。

だから、理のある直訳理論あるいはその実践に対しては、
それを支持することも多い。

なんとなくそれは、政治的な保守と革新の対立にも似ている。
親方日の丸みたいなゴリゴリの保守(あえて直訳)主義は身震いがするほど
嫌いだけど、保守派のいうことにまっとうさを感じることも多い。

逆に、リベラルなものいい(意訳)に対しては、
だいたいそれに共感する方だが、それがあまりにも理想的すぎたり、
そこに自分の保身のためだけの権利主張を感じたりする
場合は、ハナジラんでしまうことがある。

ありていになるが、要はバランスが大切なのではないかと思う。
アクセルは、強く踏みすぎでもいけないし、弱すぎてもいけない。
ここはここまで訳してもい、あるいは原文にない言葉でおぎなってもいい、
そう思えるときは、だれもいないハイウェイを走っていると思って、
グッと足首に力を入れる。
原文がずさんだったり、直訳するとどうしても読み手に伝わりにくい
(背景や文化の違い、読み手のバックグラウンドの差があるときなど)
が、こういうときかもしれない。

逆に、歩行人が行き交う商店街をゆっくりと走っているときは、
かなりノロノロといかなくては、人を殺めてしまいます。
原文で使われている用語の定義や表現がとても厳密な意味を持っているときなどは
そうかもしれない。直訳しても、十分に読み手に伝わる。むしろそうしなければ
いけないような空気を感じるとき。

自分が意訳派だと思うのは、
やっぱりアクセル全開で走るのは気持ちがいいと思うときがあるからだ。
でも、翻訳に許されるのは交通法規を超えない範囲の高速移動だと思う。
原文から外れるときは、
やっぱりドキドキするし、罪悪感ににたようなものも少し感じる。
ただし、どうみてもこの意訳は読み手にとって読みやすいものになるはずだ、
と実感できる場合は、これは必要なことだと自分に言い聞かせる。
(そんなに原文と離れた訳文を作っているわけではありません。念のため)
そもそも、意訳と直訳というこの2つの言葉自体が、はなはだ抽象的で、
定義が難しいものであるし、僕の中ではもはやビビッドな概念としては
生きていないのだが。。

しかし、本当に自由に走りたければ、
翻訳なぞやめ、自分で文章を書き起こす以外にはない。

たとえていえば、ジェイウォークくらいであれば、
多少の翻訳の交通違反は許されるのではないか。
激しい交通の流れの中にも、瞬間的に車の往来が途絶える瞬間がやってくる、
そういうときが、意訳という名のジェイウォークのチャンスなのだ。
タイミングを見計らって、道の向かい側まで、ダッシュする
(良い子は必ず信号を渡ってください)

もちろん、失敗すれば、
ひき殺されても仕方ないという覚悟が必要だが。。。