人生は 五 七 五

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(by mother teresa)

自分が何をして生きていくか悩んだ時

2008-06-22 00:48:00 | Weblog
今日は面白いBlogを見つけた。これだ。

http://www.k-takuma.com/jibun.html

自分がカメラマンになった道を書いている人なんだけど、カメラマンそのものよりも、この自分探しのためのコメントが良いなと思う。

高校生とか大学生とかあるいは社会人でも、自分も微妙にそうだけど、何をして生きていくのか迷っているまたは現状よりももっと自分に向いた道があるのではと感じている人とか多いと思う。

そんなときに、このBlogを見てみるともう一度自分を見つめ、自分の道を見つけるための参考になるかも知れない。

何かするときは、好きか嫌いか、楽しいか楽しくないか、自分の感性というか感情というかそれに従った方が良いような気がする。損か得かとか、有名に成れるか成れないかとか、金持ちになれるかとかなれないとか、有利か不利かとか楽か苦しいかとかそう言う基準で決めると失敗する。

うーむ。自分の場合何をしているときが1番楽しいかな。文章書いているときかな。友達にメール書いているときとか、何か考えているときとか。そんな時が楽しい。書いているときと考えているとき、後は面白い小説読んでいる時、面白い映画見ているとき、人と(に)語っているとき、美人ちゃん見ているとき、美人ちゃん発見したとき、意外と色々あるな。良いもの発見したり、気に入る物を発見したときなんかも幸せだな。それがすぐに飽きちゃったりもするけど。

カメラマンがカメラマンとして熱く語っているとそれも良いなと思っちゃう。最も写真取るの楽しいかどうか、自問してみると、嫌いじゃないけど、いつもカメラ持って何か取りたいかというと良く分からない。

文章書いているときと、写真取っているときで、どっちが楽しいかなと言うと、文章書いているときに幸せだなと感じることはあるけど、写真取るときに幸せだなと思ったことはない気がする。写真撮るときは美しく撮りたいとは何時も思うけど、で撮れたりしたときは嬉しいけどな。

楽しいこと見つけるにはこんな感じで自問してみるのが良いのかな。

ってな感じかな

読まなきゃ文も浮かばない、外向的な人

2008-06-18 23:33:54 | Weblog
あー、何か読書に取り憑かれた。この衝動的に何かするってお多いんだけど衝動的だから割とすぐ冷める。

所で、衝動的に本屋に行って本読んでいるんだけど、実は本を読まないと文章は書けないという大発見をした。

どういうことかというと、文に触れないと文が思い浮かばない。今までの自分の図式で行くと、本を読むのは内向型、内向型は外からの刺激でなく内なる刺激によって力や創造が漲ってくる。自分は本を読むから内向型。本など読まずに内省することで何かを書きたくなる。

所が、本を読むから内向とか外向とか余り言えなくて、本を読もうが読まなかろうが外向は外向、内向は内向。多分内向の方が割と自然日本を読むかも知れないかもという傾向は言えるけれども、絶対とは言えない。

何れにしても、自分は外向的なので、上記の図式は全くの見当違い。1人で家でボケーとして朝から晩まで座禅を組んでアイデアのお告げを待っていても内なる自分からは何にも出てこない。そもそも内なる自分などと言うものはあるのかどうかも疑わしい。多分ない。

さて、外向的な人はどうやって文章をわき起こらせるかというと、読書活動しかない。入らなければ出やしない。極めて俗物的というか金がかかるというか、非経済的だけど仕方がない。楽しい本、理解できる本、そんな本を読むとなぜか読んでいる内に文章が自ずと沸いてくる。

と言うわけで、外向的な作家(果たしてそんな人がいるのかどうか疑問だが)と言うのは、書くために読んでいると思われる。最も外向的な文章書きは作家と言うよりもどちらかと言うと評論家かも知れないが、、、

ってな感じ

読書の梅雨 - 妊娠小説

2008-06-18 00:10:50 | Weblog
うーむ。最近どうも読書の梅雨になっている。

斎藤美奈子の「妊娠小説」古本屋で見つけたので、読んでみた。面白い。何しろ面白い。彼女の処女評論らしく真面目に面白い。(ちなみに「趣味は読書」を本屋さんで立ち読みしてみたが、こちらはちと軽い)

とにかく面白い。面白いとこのまま繰り返せるぐらい面白い。なぜ面白いのか書きたいのだが、どうやら自分は左脳で理解し右脳で表現するらしいので、論理とか分析するなどと言う大層なことは世界の平和のために辞めておく。

でも評論を評論して意味があるのだろうか。

自分も、左脳で表現して売れる文章が書ければ、今頃は華々しく文壇を飾っていたに違いない。今でも何時かは文壇に華々しく出てやるぞとか密かに思っているけど、何か思っている内にそのうちお迎えが来そうだ。まあ、恐らくお迎えが来る頃には、己を知り始めて諦めていると思うが。

人生は諦めるために生きているようなもんだ。

ちなみに物書きは外向的なのか内向的なのかどちらなのだろうか。

それにしても、上野千鶴子が落ち着いてきた頃に徐々に斎藤美奈子が出てきたように思うが、必ず何人かの世界を解く人(俗に言う哲学者)が必要なのだろうか。

でも、文壇に華々しくデビューできるのなら、やはり評論家でなく作家としてが良いな。


右脳と左脳、自分は何だ

2008-06-17 01:22:06 | Weblog


古本屋によって、「小心者が世界を変える」と言う本を見つけて
ついつい読みふけてしまった。

実は古本屋には、「パイナップルの彼方」という本を電車で前に立っていた人が読んでいて隣から盗み読みしていたら面白いので読んでみようと思ったから立ち寄ったんだけど。

昔から心理学には興味があって特に内向と外向に興味があったんだけど、自分は長い間内向的だと思っていた。いや内向的になりたいという単なる願望だった。それが最近何だか分かってきたんだけど、この本読んでやっぱり自分は外向的なんだなと確信が持てた気がする。

そもそも人と一緒にいたり人と話すことでエネルギーが出てくる感じがするので、こりゃどう見ても外向的だったんだな。どうも外向的な人は一日中机の前に座っているなんて耐えられないらしくて、すぐに近くの人と話したり歩き回ったりするらしい、勉強は1日でも机の前に座っていられる忍耐力がないと難しいので、道理で自分が勉強できないのも納得。ゲームでも動き回っているのが好きだしね。

さて内向と外向の自分がどちらかと言うことはクリアしたんだけど、次なる疑問が沸いてきた。右脳派か左脳派かだ。どうやら下記のテストの結果左脳で理解して右脳で表現しているらしい。

<http://luckybrains.zero-yen.com/shindan.htm>

妙に納得、なぜなら大抵明確に理解しているのに相手に伝わらないことがしばしばあるからだ。何でこうも単純明快に理解しているのに相手には伝わらないのか良くあるからである。

最も、右脳で理解して左脳で語る人とは相性抜群だけどね。何か賢い人間と妙にピント来るというか話がし安いなと思うのはこういう事だったのかも知れない。

また小説のように長い説明的なものでなく川柳なんぞという感覚的な物を書こうなんて思ったのも、右脳で表現しているからなのかなとふと思った。

論理的で長い文章または小説など書こうと血迷ったこともあるけど、右脳で表現しているんじゃ正に血迷ったとしか言いようがなかった。右脳表現でもテンポの良い短編などは可能なのだろうか。

また左脳で理解すると言うことは、右脳で書いてもそれを手直しすると言うことで、分かりやすい文章になると言うことだろうか。最も昔、自分で書いて何を言っているのか分からないことが結構あったけど、こりゃー右脳で書いて左脳で理解する自分の脳構造では当然と言えば当然だ。右脳で理解する人には理解できたりして。

でも左脳で理解していると言うことは、極めて平凡なことを理解しているだけであってその表現が如何に天才的でも、理解してみると表現された物は単なる平凡でしかないな。ちと悲しい。凄いこと言っていそうな哲学者って実はこのタイプだったりして。良く吟味して解釈してみると何のことはない、当たり前のこと言っているだけだったりするから。

やはり、理解が右脳で表現が左脳が天才になる気がする。

でも、文学や哲学など文系学問では表現の仕方で判断されるので、実は平凡でも斬新な表現ができれば天才で、右脳のなせる技か。

Nieztsche 何か正にそれだったりして、どう見ても詩的で感覚的な表現で何か美しい、ただ書いてあることもそれ程平凡でもないけど。理解も右脳で表現も右脳か。

右脳的表現だからかまとまり良く書けないけど、右脳表現派は余り長く書いてはいけないくて詩のようにテンポ良く軽く進まねばなるまいのか。

ってな感じかな。


赤坂真理のコラムを読んで 「好きな人居ないが結婚したい」

2008-06-15 15:41:01 | Weblog

日経新聞は、日本で1番売れている新聞だというので、余り貢献したくなくなるべく買わない。最も日経産業新聞はほぼ毎日買ってしまっているが。

でも土曜日のPlus ONEは面白いのでこの日はなるべく買うようにしている。

さて、今回のPlus ONEは結婚についてのテーマのようだ。
一番最後の面に赤坂真理さんが贅沢な悩み相談をしている、これが大抵面白い。

今回のテーマは、「好きな人がいないが結婚したいだ」

此処で著者は、人は誰でも自分を超えたものに触れたい、または役に立ちたいと思うものだと書いてある。(自分の越えたものとは神、国家、家族、信念など)

この文章を読んだとき、へーと思うと同時にマジかねとも思った。自分は触れたいとも役に立ちたいとも思わないと。でしばらく考えてみた。

どうやら、やはりこの意見は正しいような気がする。普段、日本を意識はしていないけれども、でも日本の経済が悪くなったとか、携帯産業で日本は負けたとか記事を読むと、何とかできないものかと無意味ながら考えてしまう。

人には、そう言う性質があるとははたまた何か不思議な気がする。

最も人には、触れたり役に立つだけでなく、成りたいと思うことも在ると思うが。

ついでに、自分も反省しなければ行けないなと思うひと言に、
「人生ぜんぶしようと思ったら1回じゃすみませんよ」
と言うのがある。

なるほどだ。自分はどうやら何でもかんでもしようと思ってしまい、遊びたいし勉強したい、でも勉強のようにしなければ行けないものは、大抵面白くないか大してやる気がないので後回しにするが時間がないので結局できないで、目的が達成できず後悔してしまったりしている。遊びの方はやりたくて仕方がないのでつい先にしてしまい、他に回らない。

人生はあれかこれか、キエルケゴールの本の題名の通りだ。