人生は 五 七 五

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神の祝福がありますように
(by mother teresa)

神を信じた方が、より自分に適した選択ができたんじゃないかなと、、

2008-11-28 23:11:25 | Weblog
愛がいっぱい。うーむ、どうも宗教化してきた。

所で、自分の能力って言うのは大して変わらないから、どんなに反省してもできことは変わらないだろうなって思うんだな。

でも神を信じた時と信じない時とでは、できることは同じでも、したことあるいはすることが違ってくるんじゃないかなって思うんだな。

より自分に適した選択が、できたと思うんだな。神を信じないととかく損得とか、何か別の条件で色々なことを選択してしまうような気がするんだよね。だけど、神を信じて神と交信すると、ある意味自分とも素直に向き合える気がするんだな。

だからそこから生まれてくる発想とか動機とか希望とかは自分に適した物が生まれてくる気がするんだな。まあ、神を信じた場合は自分でなく神の望むことをすることなんだけどね、でもそれは実は自分に適したものなんじゃないかなって思うんだない。

どうかな。若い人で、何か苦しいな、毎日自分が生きている心地がしないな、もっと良いことないかななんて考えている人は、神を信じてみても良いんじゃないかな。蹴っ飛ばされたり苛められたり、何か不愉快なことが起きても、神が身近に感じられ、神の愛が身近に感じられた時、温かい気持ちになり、癒されるんじゃないかなって気がするんだな。もっと苦しい場合は、ちょっとどうすれば良いか分からないけどね。

ってな感じだな

仏教の愛とキリスト教の愛はこりゃ、完全に違うな、、

2008-11-27 23:59:50 | Weblog
仏教とキリスト教、何だか決定的な違いを見つけた。

愛に対する考え方だ。

仏教では愛は、やがて苦しみになると考えているんだけど。キリスト教は、苦しくても愛は愛であり大切なものだって考えているんだな。愛の苦しみから逃げては行かん、例え愛により苦しみが生じたとしても、それでも愛せと言うんだな。

ちと凄いな。

仏教は愛はやがて苦しみになる、愛というのは長く続かないとか、どんなに愛しても死別という物が来るから、そんな物に執着するなって言うんだな。苦しみからはことごとく避けようというか、逃れようというか、諦めるというか、納得するというか、そんな感じだな。まあ苦しみの現況は煩悩ってことになるらしいからな。

まあ、どっちが自分に合っているかだな。どっちも結局楽しく行きよう、今を生きよう、悩まずに生きようってことだからね。あるいは生きていることの幸せって言うのかなそんなのを感じようって言うことだからね。

ってな感じだ

人生って悩むよな、、より高くより成長したいよな

2008-11-27 23:48:28 | Weblog
若い時は特に、色々な可能性があるので、努力次第でより高く、より強く、より美しく何て思うんだな。

これは欲なんだけどね。そういう風に、理想の自分と本当の自分の中にギャップがあればあるほど、苦しむんだな。また、世の中そんな人達の話ばかり溢れているから、誰でも理想になれちゃうんじゃないかなんて、感じちゃうんだな。

成れるかも知れないし、成れないかも知れない。それは誰にも分からないんだな。

でも、大体今自分がいる場所、いる所からそんなかけ離れた所に行くことはできないんだな。だから努力したとしても、せいぜい数メートル行けるぐらいだと思った方が良いな。

今は、理想的な人、ヒーローが神になっちまっているけど、彼らは人間だ。君に愛も注がなきゃ、見守りもしない。彼らは君らに見守られているけど、君を見守ることはしないよ。何か頼れる物が必要なら、神を頼るのが、信仰を持つことが1番良いと思うぞ。

最も若い内、理想のあるうちはそのヒーローが自分の安心であり夢であり希望であるかも知れない。彼らのお陰で生きる力が沸いてくるかも知れない。しかしそれはその可能性のある若い内だけの希望で、生きる力であるんだな。

生きる希望と力を末永くもらいたかったら、神を感じるのが良いぞ。そうやって感じると、多分少し楽に、また楽しく生きていけると思うんだな。この神を感じて、毎日生きること、此が等身大の自分になれて、等身大の生き方ができると思うんだ。

苦しい時は神にその苦しみを語るんだ。何か理想があったら、神とその理想について語ってみるんだ。この神との対話が祈りで、神を自分で感じた時に、その祈りが成就されるらしい。

自分もまだ良く分からん。Beginnerだな。若いときに信仰を持っていないので、若いとき持つとどのぐらい、良いのか残念ながら分からん。もう一度若くなれたら、まず初めに信仰を持ちたいと思うよ。

まずはマザーテレサがお勧めだ。

ってな感じだ

祈りってのは、神と1つになることらしいぞ、、マザーテレサ

2008-11-26 22:26:56 | Weblog
あれだよね。キリストは愛の宗教だから、愛だらけなんだけど、この愛ってのが結構難しい。

所で、祈るって言うのをなんなのかなって思うと、マザーテレサによると、神と1つになることらしいんだけど、神と一つってどういうことなのかな。これが中々難しいよな。

神を自分の中に感じるとか言うけど、自分の中になんにも感じられないんだよな。まあ、まずは神が自分をいつも見守っていてくれて、愛を注いでいてくれるんだなって、信じることなのかな。マザーテレサはもうかなり先に行っちゃった人だから、Beginnerにはちと難しいな。

ってな感じだな

au pair ってオペアって読むんだけど、

2008-11-25 13:47:13 | Weblog
au pairッてフランス語で、オペアってよむんだけど、此って、外国人がするベビーシッターのことだったのね。

有名どころでは、antonと点子ちゃんの点子ちゃんの所に来ていた女性だね。
au pairって言うのは、Baby sitter全般を指すのかと思った。

自国の女の子が、自国の子を面倒見るのは、BabysitterとかNannyとか言うんだな。

日本じゃ外国人の女の子(男もありかな)を住まわせるだけの広さなんてないから、基本的には、Au pairなんてないな。でも此導入できると、結婚して子供産んでも問題ないよな。要検討だ。

うーむ。何か勉強になった。

ってな感じだ

未来と過去ばかり気にしていた人生ってのは、、

2008-11-24 19:55:56 | Weblog
今までは、未来の夢と過去の反省ばかりで、現在を生きていなかった。

最も未来のためにそれに見合う努力というのはできるのかというと、到底できるわけはなく、過ぎ去った失敗の過去に後悔ばかりだったな。

良く考えてみるとだな、自分って今以外の妄想で生きていた気がするんだな。でもこれってあんまり良くないな。まあ今は何か動かなきゃならないけど、未来と過去は思う悩むだけで良いでしょ、だから今を置き去りにして生きていた気がするんだけどね。今を意識して生きなきゃ行かんって感じてきたんだな最近。

今を楽しめ、今を生きろ。今楽しむために頭つかえ、今を生きるために頭つかえ、こんなのが大切だって感じ始めてきたな。

ただどうやって今を楽しんだり生きたりするのか良く分からないから、過去に後悔したり、未来に夢を持ち過ぎたりしなければ、残った所が今になるので、それで今を生きるのかなって気がするんだな。

例えば志望校を決めるなんてのは、未来に考えすぎだ。そんなものは最後に考えれば良い。また、計画立てた通りに全然できないなって言うのは、いつまでもうじうじ反省していてもしようがない。そんなことも止めてしまった方が良い。できないのなら減らすしかないんだからな。それだと志望校に受からないなんて思ったら、受からないんだなという現実を受け入れると同時に、受からなくても良いんだと、肯定的に捉えられるのがとっても大切。難しいけど、試してみるしかないな。

ちなみに未来と過去に囚われた人生だと、現在がおざなりになり、結局現在を自分のできることもしなくなってしまうんだな。これが過去と未来ばかりに囚われすぎる人の、罠だ。未来は夢で気持ち良い。過去は過ぎ去ったことなので、安心だ。しかしそこにいつまでもいては行けない、今を見て今を生きないと。

夢におぼれず、過去に囚われず、今を生きろ。今を楽しめ。こんな風に、これからは生きたいなって思うよ。もうちょっと、説得力があるように書きたいけど、ちと無理みたい。

ってな感じだ

今日はちょっと、カトリックの教会に顔出してみた、、

2008-11-24 01:52:02 | Weblog
いやー、ミサに出るのは、人生の中で2回目ぐらいと思いますが、面白いですね。

ただ座って説教聞いているだけかと思ったら、立ったり座ったり歌ったりと、やったら色々なことするんですね。眠っている場合じゃないって感じです。

基本的に、若い人よりお年を召した方の方が多かったですね。で説教ももう少し色々聞けるのかなと思ったら、何かあんまり聞けなかったですね。

人生について語ってくれるのかなと期待していたんですが。

でも、キリストが唯一の神とか、キリストを王とした国をってのはどうなのって思いましたね。ちと排他主義のような。御国はキリスト王国だけじゃないでしょって感じですね。イスラム王国もあるし、仏教王国もあるでしょってな感じです。もう少しGlobalに考えて欲しいですね。

でも宗教って人の気持ちを良くする気がするので、今後も行ってみようと思います。あの何気ない不安とか、生きることの絶望感とか、キエルケゴールが死に至る病とか言ったものがあるんですが、あれってやっぱ、自分にある程度の宗教感を持たないと、減少されないのかなって気がしますね。

だから若い内に、世界的に有名な宗教に属して悟るというか自分なりの宗教観を身につけるって言うのは良いことだと思います。ただ与えられる物でなく、自分が必要になった時に、扉を叩いてみるのが良いですが、若い内に、色々なことを知った方が、行く道を狭めないためにも良い気がします。

殆どの人が、弱者としてしか生きていけないので、ひろさちやの本でも読んで、スーパースターになる夢は夢として、現実的な生き方、等身大の生き方を知るべきだなって思います。

弱いもの、苦しいもの、希望通りにならないもの、そんな人のために宗教というのは、生きてくるんですね。これは、理屈じゃないんです。どんなに論理的に考えても、何故か分かりません。体験して経験して初めて分かる物なんです。

まあ、そんなことが言える歳になってしまいましたね。

何となく仏教も良いし、キリスト教も良いし、、どうすっかな。

ってな感じですね

良く言われていることだけど、文章力って、、

2008-11-23 00:37:42 | Weblog
やっぱ文章力って、大切だよな。

同じこと言っても、じーんと来る文章もあれば、何か物足りないなって思う文章もあるからな。

でもこの差って、天性のもんなんかね。まあ、日本語できるぐらいは、誰でもできるけど、その操り方となったら、天性としか言えないよな。

つまり足し算ぐらいは誰でもできるけど、数学者になるにはやっぱ天性って物が必要だもんな。

無理に努力してできるものでもないな。天性のある人が天性に従って努力して、それでできるようになるようなもんだな。

つまり努力というのは、能力の付属物であって、努力が独りだけ独立しているもんでもないんだな。努力すれば能力如何に関わらず、到達できるかというと、全くそんなことはなくて、能力に導かれて努力すると、到達できるんだな。

能力がありゃ努力もするけど、努力だけじゃ到達できんのだな。

まあ普通は、凡人な能力しかないので、自分の性格に合うように生きていけるように、神の導きに従って生きたいもんだね。

そう言えば、村上春樹が何かで書いているんだけど、何で彼の本を色々な人に読まれているのか彼としては、疑問らしいな。そりゃ嬉しいだろうけど、それを狙って書いているわけではないと言うことだな。書いたらみんなに読まれちゃう、ってな感じなんだろうな。まさに天性のなせる技って奴だよな。

ってな感じだ

倉田真由美って言う漫画家いるけど、、

2008-11-21 13:25:01 | Weblog
倉田真由美って漫画家、面白いな。

何が面白いって、東京新聞に載ってるコラムが面白い。だめんずの漫画の方はまあまあかな。

毎週木曜日のコラムに書いているんだけどね、今回は、夢を追うことについてだった。まあ、普段僕が言っているようなこと書いているんだけどね。赤坂真理も似たようなこと言っているしね。最近、受け入れられる話なのかも。

無理して夢追うなよって感じで、ひろさちや師匠なんかと似たようなこと言っているんだよね。もうちっとマイルドではあるけどさ。

毎日ほどほどの努力、つまり良い加減と言うことで、自分にあった努力だな。やり過ぎずやらな過ぎず。此が一番大切。これ以上はいくら夢見たってできないんだよ。生まれが違うの。昔は目に見える生まれだったけど、今の世は誰にでも平等に、目に見えない生まれってのが支配的。

まあ、宗教的に生きることだ。此、高校生の頃に知っていればなぁ。もうちっと楽しい生き方ができた気がするけどなあ。運命だったんだな。ひろさちや師匠だってずいぶんの歳だから、昔から同じこと言っているんだけど、見えてなかったんだな。

スマナサーラ長老の言っていること、眉唾だから。顔も眉唾だけど、言っていることも微妙。例えば壱千万の年収も、無心で無欲に努力すればそれが五千万になるとか何とか、そんなこと言っているけど、そういう風に物だの金だの、何だのかんだのが増えるなんて言っているのは、もう新興宗教。新興宗教はまやかしだとか言っているけど、いつの間にか新興宗教になっちまっているのは要注意。もっともこの教えが正しい人もいるから、そこが難しい。

何が自分に取って正しいのか、合っているのか、本は増えども、教えは増えずってな感じで悩む世の中だよな。マジで釈迦みたいな人出てきて欲しいよ。

ちなみに、家族も先生もみんな何だかなぁで、本しか頼れる物がない人は、ひろさちや師匠を薦めるよ。あとは教会にでも行ってみるのが良いかも。

ってな感じだ

悟るって言ってもね、、夢とか追うのも良いけどさ、、

2008-11-21 01:14:27 | Weblog
やっぱ、自分で悟らなきゃならないんだけど、悟るにはある程度年齢が行かないと、難しいんだな。

そこで、若い内に生き方を学びたかったら、数ある宗教の本でも、ひろさちや師匠の本が良いんだな。今色々仏教の本読んでいるけど、現代を生きる日本人には、彼の本が良いぞ。何故良いかというと、彼は自分が悟ったことをもとにして、仏陀が言ったからって何でもかんでも盛り込まないで、大切だとか実感したとか大切だとか思ったことを言っているからだ。

もっともこんなの読んでも、なりたい自分になれるわけではなく、欲望が充足されるわけでもないんだな。今の自分を肯定し、何でもかんでも欲しがらないってことだな。

長田幸康の「仏の教え」っ言う本も面白いんだけど、これは自分が悟ったことと言うより、今まで仏について語られたことを紹介している感じで、学としてはいいかもしれないけど、宗教そのもの、自分が生きると言うことに関しては微妙に弱いと思う。そもそもできないことも釈迦はこう言ったとか言って書いてあるんだけど、無理な物は無理だよな。

ただ彼のダライラマ入門は良いぞ。

語る時は、自分が本当に悟ったこと、大事だと思ったこと、できることだけ語るのが良いし、そういう風に書いている本を読むのが良いじょ。実現できそうだけど、無理なことが書いてあるのは、全て異端だと思った方が良いな。最も自分には無理でも著者には可能だったりするから、中々選ぶのは難しい。

まあできるかできないか分からない場合は、まずしたいことを何十回か試してみることだな。例えば毎日5時間勉強するとかってことだな。

1年ぐらい経ってもできないことだったりしたら、自分にはできないとそろそろ気付いた方が良い気がする。そしてやり方を変えるとか、やる量を変えるとか、何か変えるしかないな。毎日できる量を設定するのが、楽しい生き方。

無理して頑張るとだな、毎日できる量さえもできなくなるんだな。できることをやらないのは、怠慢だ。できることに集中せずにできない夢みたいなことに燃えるのは、はっきり言って気違い。まあ、10年ぐらい経てば分かることだけどな。

もっとも、こう言う人生の方法を読んで、若い内にどのぐらい、なるほどと悟れるのか分からないな。できるとき時間のある間に色々努力したりしてみて、その結果から人は色々悟れるのかも知れないからね。

仏陀も両極端に身を置いた末に、悟ったわけだしな。

でも若い内に、ほどほどとか、中道とか、楽しく生きるとか、そう言うことを実践した方が、後々良いような気がする。

人生を生き抜いてきた人が近くにいて、相談できれば良いんだけどね。教会にでも行って、牧師さんとか神父さんに相談するのが良いかも。あるいは、お寺に行って、尋ねてみるのも良いかもしれないけどね。この辺はまだしたことないから良く分からん。

取り敢えず、自分の運命は生まれたときに決まっているんだって思って、
毎日生きた方が楽しいし、幸せになれると思うよ。

人が歩んだ道や、巷に氾濫している事実を収集しても、それは自分じゃないから、役に立つことは殆どないんだな。努力?資本主義の幻想だよ

ってな感じだ