人生は 五 七 五

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(by mother teresa)

海色の午後 唯川恵 を読んだ 面白い、

2008-07-31 22:19:26 | Weblog
連続本。

海色の午後を読み終わった。この本は1日で軽く読める本だ。まあ軽いタッチの恋愛小説かな、という気がする。面白い。もう少し長い方が良いかなと思ったけど、面白い。結婚に関心のない20代前半の女性の気持ちが微妙に書かれていて、しかしそれに対して答えを出していないところが、余韻を残して良い。

これなら自分でも書けそうだと思うけど、どうなんだろう。自分でも書けそうだと思う手の届きそうなところが著者の天才性かもしれない。

この後、燿子はどうなったんだろうと先が気になる。

この本を文庫本で読んだんだけど、著者の後書きが面白い。この本ができるまでの著者の思いが語られていて、へーと言う感じだ。

一寸作家にでもなりたいなと思う自分には、少し励みになる。いきなり賞を貰えたのでなく、何度も挑戦して貰えたとか、20代には色々試してみて、どれもこれも続かなかったけど、いつからか始めた日記だけは続いているとか。

幾らベテランの作家になってもやはり新しく書き始めようと思うと新人の時のように悩むとか、、

作家に憧れている人には為になる話が綴られている。ある意味作家になろうとしている人に励みになる文だ。等身大で書いてあり格好つけていないところが為になる。

作家になろうとしてなるのでなく、文章書くの好きで小説を書いている間に作家になったそんな感じだ。英雄とかヒーローとかそう言うのを目指しちゃ行けない、自分の好きなことを続けているとそこから英雄になれるかも。そんな感じか。

作家を目指している人はこの後書きは読む価値有り。

集英社文庫 「海色の午後」

うーむ、何か雰囲気が湿ってしまった。

そんな感じ

物事が、頭に入るとは、記憶、学習とは

2008-07-29 21:59:45 | Weblog

それにしても、上昇志向、勉強志向強いね。本屋でHOW TO もののコーナーに行くと、年収伸ばすにも何するにも、勉強がキーポイントだ。

そんなこんなだけど、頭に入る、つまり記憶について考えてみた。

結論を言ってしまうと、頭に入るって言うのは、頭に入るときが来たから頭に入るのだ。頭に入る時期が来ていないのに、頭には入らないのだ。

頭に入れようとしても、すぐに入らなかったり、今一良く分からなかったり、そんな経験をしたことがあると思う。丸暗記で何かしっくりこない、丸暗記ができないそんなことがあると思う。

その理由は、覚えるための準備ができていないからである。これは、技能と全く同じだ。例えば、ちびまる子ちゃんが自転車乗れなかったらしいけど、いつか乗れるようになった。このように何かできないけれども、ある時期が来たらできるようになる。それと一緒だ。

ずーと練習し続けたらできる、時々練習しただけでもできる、余り練習しなかったけど、時期が来たらできるようになった。できると言ってもこんな感じで色々だ。

勉強でも一緒。偉く難しい大学の入試問題をいきなり初めからは解けないし、解答見ても頭に入らない。英語の単語も、易しい単語と難しい単語がある。歴史も然りだ。中学生がいきなり高校生の教科書見て暗記するなんて難しすぎてできない。できるかも知れないけど、覚えてもすぐ忘れちゃうし、覚えるのにも時間がかかる。

易しいもの簡単に分かるものは憶えられるけど、難しいもの、なかなか理解できないものは憶えられない、そんな経験を誰しもがしていると思う。和田秀樹という人がいて、
「暗記に難易はない」
言うことを言っている。最初っから難しいものを憶えれば良いのだと言っていた気もするけど、この方法は効率も悪いし、そもそも続かない。

もちろん、天才は別。彼は天才なのでその方法も可能だったかも知れないけど、とてもじゃないけど、偏差値50以下に真似のできる方法ではない。

ではどうするか。

実に簡単。もちろん簡単でなきゃ行けない。自分が簡単に憶えられるもの、簡単に解けるものを繰り返しすることだ。何故か分からないが、この簡単なことを続けている間に、それより少し難しいものを、憶えたり解けたりする実力が、いつの間にかつく。此処には能力の飛躍があるんだけど、事実だから理屈抜きに認めるしかない。

人は憶えられる可能性というものがあるらしい。レディネスとか言うのか。これはあるものを憶えようとするときに、それを憶えるための準備が整っているのかどうかと言うことらしい。どういう訳か分からないが、簡単なことをしているといつの間にか、水槽に水が溜まっていくように覚えるための何かが貯まっていく、その水が満杯になったとき、この何かも満杯になり、難しかったものが理解できたり、憶えられたり、解けたりする。

勉強するときは、この点に考慮して学習するのが良いと思う。

難しいものをいきなりするのでなく、自分のできるもの簡単なものを繰り返しすることだ。それがやがて難しいものを解くための準備になる。

「楽をしないと成果が出ない」とか「フォーカスリーディング」なんてまさにこの秘密に焦点を当ているんだと思う。まあやるしかないんだけど、その「やる」についてもう少し、掘り下げてみた。

ってな感じかな。

通信簿が5の人は何しても5なんだな

2008-07-28 23:21:07 | Weblog
自分に言いたい。頑張れ。死ぬまで頑張れ。

最近、気がついたことがある、題名にも書いた通り、生まれつきだ。

大体、世の中の試験とかなんとかは、上手く標準偏差通りになるようにできていると思う。あまりにも簡単でみんなが取りすぎると、難しくして、逆に難しすぎると易しくして大抵、標準偏差通りになるようになっている。

さて此処で、学校の成績で大体4とか5とか取っている人がいるとする、この人達は他の試験でも英検とかでも大体4とか5になる。試験なら資格試験だろうが、学校の試験だろうがみんな一緒で、成績の良い人は難しい試験に受かるし、良くない人は易しい試験に受かる。

だから、試験に強い人はどんな試験にも強いし、弱い人はどんな試験でも弱い。そう考えてみると、例えば英検で3級を取るというのは、2とか3の人にとってはすごく素晴らしいことなのではないかと思えてくる。4とか5とか取っている人の1級とか2級に等しいぐらい素晴らしいことなのではないかと。

一般的に社会の中で生きていくとなると、3級を取った人が2級を取った人より、努力していたとしても、2級の人を優遇するだろうけど、努力という意味で言ったら両者は同じぐらいしているのだ。だから努力という意味ではどちらも素晴らしい。

社会の評価なんて信じる必要はない、確かに1級の人は凄いだろうけどそれは社会の評価で凄いんであって、個人の評価ではない。学校の成績が3の人には3級だって凄いのだ。

成績が3の人は努力して3なのである。世の中は5とか4の人は努力していて、2とか1の人は努力していないと思っているけど、そう言う人もいるかも知れないけど、本当にそんな一意な決め方で良いのだろうか。

僕はそんなことないと思う。努力しても3の人は3なのだ。だから、学校の成績が3で英検3級取ったとしたら、それはすごく素晴らしいことだ。(すごく)努力した証拠なのだ。まあでも、3でも英語が好きなら2級ぐらいまでは取りたいね。

余談だけど、幸せを感じるためにはあるいは気楽に生きるためには、社会の評価(相対評価)でなく個人の評価(絶対評価)で自分を判断した方が良い気がする。お試しを、気楽になるよ。

ってな感じかな。

好きなことで生きていこうと思っても、外向的でそれが見つからない人へ 気弱な助言 

2008-07-27 19:41:41 | Weblog
好きなことを見つけろ。好きなことで生きていくのが良い。面白いもの好きなことが大切。そんなことを、以前書いたと思う。

能力のない勉強するよりも、好きなことを見つけてそれに勤しむ方がよい、と言うようなことを書いた気がする。

ちびまる子ちゃんだって、好きなことで生きている。何も勉強だけが生きる道ではない。

ってなことを書いたような気がする。しかし、何ヶ月経っても、何年経っても、何が好きか分からない人とかいると思う。好きなことを見つけられた人はラッキーだ。

特に外向的な人で、何か好きなことしている人を見るとまたはそんな人の生き様を見ると自分までそれが好きなのではないかと錯覚することもある。

やはり見つけたくても、見つからないことはある。世の中何でもあるのだ。

さて、この時の打開策。

興味のあること、好きだと思えることを、色々試してみる。これしかない。何でもかんでも試せるわけではないけど、可能な範囲で色々試してみる。これしかない。

恋人選びと一緒か。

しかし、これはそんなに簡単なことでもなく、色々試しても何が好きなことか分からない場合もあるし、ずーっと後になって10年後ぐらいに好きなことが見つかることもある。もしかしたら、取り立てて好きなことのない性格と言うこともある。全ては、在りうる。

こんな場合は、どうするか。どうするのだろうか。うーむ、自分も人生途上なのでこの点に関しては悩んでしまう。1つ、可能性を提示すると。運命に身をゆだねることだろうか。自分に与えられた、または自分が進んでいる道をそのまま続けることかなと思う。

続けているうちに、自分にとって好きなことが見つかるのではないだろうか。

何れにしても、好きなことを見つけるのって、喜びだ。是非好きなことを見つけよう。

うん?、そう言うおまえは好きなこと見つけたのかって、鋭い突っ込みだ。取りあえず突っ込まれたままにしておこう。

ってな感じだな。

ゲームの面白さ、ストーリーそれともSystem?

2008-07-27 19:19:28 | Weblog
もうゲームやめようと、思って1ヶ月ぐらい経つんだけど、ついついゲームコーナとか、ゲーセンとかあると立ち寄ってしまう。でも殆どしない。

ゲームの面白さを一寸語ってみると、ゲームを続ける面白さとは、先に何があるか知りたいという物語的な面白さなのか、それともゲームそのものなのかつまりシステムなのか。他にも経験値増やすとかアイテム入手とかグラフィックが格好良いとか色々あるんだけど、取りあえず上記の2点。

自分の場合、ゲームの面白さを考えたとき、どうやら物語りまたはストーリに惹かれてゲームしていたようだ。もちろんシステムそのものも面白くて、キャラが動いたり、色々なことができるのは面白い。でも決定的な要因は物語あるいはストーリだったようだ。

この物語重視派のゲーマーは、体力的にか精神的にか System と物語とのバランスが崩れたときゲームから離れていくような気がする。つまり System の方が複雑にあるいは hard に成り過ぎて物語りの先を知りたいという気持ちよりも、ゲームする上での疲れの方が勝ってしまう場合だ。

この物語好きゲーマーは、もともと読書なども好きなはずだ、そこでゲームすることから徐々に遠のいていき、物語のみと言える読書に傾倒していくのではないだろうか。読書への回帰、出版社万歳

最もこれは自分の今の現状なんだけれども。

まあ、ゲームするのとゲームの紹介記事読むのとどっちが面白いのかというと、紹介記事とか攻略本とか活字読んでいる方が楽しかったのかも知れない。活字読んで面白そうだと洗脳されてついついゲームもしていたタイプなのかもな。

宮部みゆきとかどんなんだろう。ゲーマーで作家だよな。

ちなみに、System が面白くてゲーマーな人はと言うと、これが純粋なゲーマーで本当のゲーム好き。一生ゲームしていく人だと思う。こういう人もまあ特殊だね。

ってな感じかな

陰山メソッド やっぱ親なのか

2008-07-24 00:09:36 | Weblog
週刊ダイヤモンド読んでいて、大人の陰山メソッドというコラムがある。

これマジで面白い。何が面白いって、教育の責任は詰まるところ親だと言っているんだよね。確かにそう、かなり金がない限り、子どもに心に伝わる助言や効力を与えられるのは親だよ。(最も親が賢くないと悲劇)

でもねぇ、国が学費削ったり、教育費削るのはこれとは別の問題。未来を築いて利益を得られるのは国とか社会な訳で親じゃないよ。彼らは未来にはいないからね。だから、国が支出する教育費は大切。教育の仕方を考えるって言うのも大切。

詰まるところ、何が好きか見つけるために人は教育を受けるんだと思う。勉強して1番になるために受ける教育は各家庭には大切だけど、国全体で考えたら無意味。

50歳で年収250万ぐらいだとする、その時好きなことでそのぐらいならまだ幸せと思えるけど、嫌いなことで其れだと悲しすぎる。悲しいだけですめばいいけど苦しいかも知れない。子どもだって貧しくても好きなことしている親と、貧しくて苦しんでいる親を比べたら、どう見ても貧しくても好きなことしている親の方が夢や希望が持てるんじゃないだろうか。

週刊ダイヤモンドってもしかしたら読み易いけどちと右寄りだったりして。

まあ、今週は東洋経済を立ち読みしてみたけど、先週よりは不思議なことに読み安かった。うーむ。自説の面白いものを読むと言う信条からすると東洋経済が読み安くて面白ければそちらに移るのは一向に問題なーし。

ってな感じかな

子どもや若者を殺すのはやめてくれー

2008-07-23 22:53:37 | Weblog
最近はどうなっちまったんだ。毎日殺人の話ばかりだ。こんなに頻繁に殺人の話を聞いたのは珍しすぎる。

確かに自分もイライラして頭に来ること多いけど、いやーそもそも、最近は混んでいる中でもお互いに譲り合うとか忘れてしまっている気がする。自転車に乗っている人で、歩行者のことなどお構いなし、上手くもないのに歩道を吹っ飛ばしていく自転車が多い。「おまえら何様だと」蹴っ飛ばしてやりたいぐらいだ。

まあ、何でも良いけど。これからが本題。

あのー、人を殺すとき、一言だけ言っておきたい。若者を殺すな。これから社会にでて会社で働いていく未来を殺すな。ただでさえこれから若者が少なくなっていくのに。殺すなら生活保護だか年金だかで月々50万とかもらっている不良老人にしろ。

殺すのが誰でも良かったのなら、そんな非社会的な不良老人にしてくれ。

ってな感じだ