人生は 五 七 五

ご訪問有り難う御座います。

訪問者の皆様に
神の祝福がありますように
(by mother teresa)

右脳と左脳、自分は何だ

2008-06-17 01:22:06 | Weblog


古本屋によって、「小心者が世界を変える」と言う本を見つけて
ついつい読みふけてしまった。

実は古本屋には、「パイナップルの彼方」という本を電車で前に立っていた人が読んでいて隣から盗み読みしていたら面白いので読んでみようと思ったから立ち寄ったんだけど。

昔から心理学には興味があって特に内向と外向に興味があったんだけど、自分は長い間内向的だと思っていた。いや内向的になりたいという単なる願望だった。それが最近何だか分かってきたんだけど、この本読んでやっぱり自分は外向的なんだなと確信が持てた気がする。

そもそも人と一緒にいたり人と話すことでエネルギーが出てくる感じがするので、こりゃどう見ても外向的だったんだな。どうも外向的な人は一日中机の前に座っているなんて耐えられないらしくて、すぐに近くの人と話したり歩き回ったりするらしい、勉強は1日でも机の前に座っていられる忍耐力がないと難しいので、道理で自分が勉強できないのも納得。ゲームでも動き回っているのが好きだしね。

さて内向と外向の自分がどちらかと言うことはクリアしたんだけど、次なる疑問が沸いてきた。右脳派か左脳派かだ。どうやら下記のテストの結果左脳で理解して右脳で表現しているらしい。

<http://luckybrains.zero-yen.com/shindan.htm>

妙に納得、なぜなら大抵明確に理解しているのに相手に伝わらないことがしばしばあるからだ。何でこうも単純明快に理解しているのに相手には伝わらないのか良くあるからである。

最も、右脳で理解して左脳で語る人とは相性抜群だけどね。何か賢い人間と妙にピント来るというか話がし安いなと思うのはこういう事だったのかも知れない。

また小説のように長い説明的なものでなく川柳なんぞという感覚的な物を書こうなんて思ったのも、右脳で表現しているからなのかなとふと思った。

論理的で長い文章または小説など書こうと血迷ったこともあるけど、右脳で表現しているんじゃ正に血迷ったとしか言いようがなかった。右脳表現でもテンポの良い短編などは可能なのだろうか。

また左脳で理解すると言うことは、右脳で書いてもそれを手直しすると言うことで、分かりやすい文章になると言うことだろうか。最も昔、自分で書いて何を言っているのか分からないことが結構あったけど、こりゃー右脳で書いて左脳で理解する自分の脳構造では当然と言えば当然だ。右脳で理解する人には理解できたりして。

でも左脳で理解していると言うことは、極めて平凡なことを理解しているだけであってその表現が如何に天才的でも、理解してみると表現された物は単なる平凡でしかないな。ちと悲しい。凄いこと言っていそうな哲学者って実はこのタイプだったりして。良く吟味して解釈してみると何のことはない、当たり前のこと言っているだけだったりするから。

やはり、理解が右脳で表現が左脳が天才になる気がする。

でも、文学や哲学など文系学問では表現の仕方で判断されるので、実は平凡でも斬新な表現ができれば天才で、右脳のなせる技か。

Nieztsche 何か正にそれだったりして、どう見ても詩的で感覚的な表現で何か美しい、ただ書いてあることもそれ程平凡でもないけど。理解も右脳で表現も右脳か。

右脳的表現だからかまとまり良く書けないけど、右脳表現派は余り長く書いてはいけないくて詩のようにテンポ良く軽く進まねばなるまいのか。

ってな感じかな。