人生は 五 七 五

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(by mother teresa)

自分の度量にあった本

2005-12-12 23:48:35 | Weblog
今日、正午当たりから晴れ始めてきて、少し暖かかった。
今は、本が蔓延している。活字を読まない日がないぐらい、本や雑誌と密接な関係がある。僕は、理解できれば或いは面白ければどんな本を読んでも良いのかという考え方に若干批判的である。

特に、余りまだ人生経験のない時代に、文豪と呼ばれる人たちの本を読むことは、害になるのであろうか、それとも益になるのであろうか?言えることは、害になる方が多いかなと思う。

害にもなるし益にでもなるので、読まない方が良いのかと聞かれたら、読まない方が良いと思う。人生とか生きる上で、文豪を読まなければ行けないことはないからである。本を読むよりも、若い内は現実を読んだ方が良い。文豪ともなると、相当できが良いので、いわゆる流行作家のベストセラー本と違って、自分で冷静になって読むことができない。下手すると影響されすぎてしまう。

しかし、本を読んで一番恐ろしいことが、自分の技量も分からずに、影響されてしまうことである。文豪の本は、良くできていると感動を与えるので、まだ繊細で、柔軟で未熟な内は、影響されすぎてしまって、現代の生き方や世界とずれてしまって、生きがたくしてしまう可能性もある。

つまり、本を読むのでなく読まれてしまうことである。酒に飲まれるだけでなく、本に飲まれることもある。酒は、症状が目に見えるので分かりやすいが、本は内面的で分かりにくい。と言うより殆ど分からない。映画も一緒である。

そこで、必要になってくるのが自分にあった度量の本を読むことが良い。最も良いと言われても、自分にあった本というのは、見つけることは不可能である。不可能ではないが、何が自分のためで、何が自分のためでないか分からない。

一般的に、本の中に入り込み過ぎず常に冷静に、自分とのズレ、現代とのズレを判断、批判できる本は、自分にあった本であると思える。つまり、騙されない本である。もちろん、理解できない本というのは自分には合っていない。どんなにそれが素晴らしくても、現時点で理解できないものは自分の度量にあっていない。

後は、本はエンターテイメントの一つである、読んで役に立つとかなんとか余り真剣に考えすぎないことである。文豪だからと言って、まるで神様のように、本を神聖化すると、本に読まれやすくなってしまう。どんなに偉い人が書いても、それはあくまでエンターテイメントで、それ以上のことを期待する必要はない。

在る意味で、現代のベストセラー作家と同様の視点で読んだ方が良い。最も高校生ぐらいまでは、色々本を読むよりも学校の勉強と、学校で推薦された本ぐらいで十分で、そんなに色々読む必要もないと思う。人生は長いし、高校時代に、全て読んでしまったら、その後の人生で読むものがなくなってしまう。

文豪の作品は、大抵人生を色々経験してから読むと色々分かって良いが、高校生ぐらいでは、生兵法的な理解しかできず、返って怪我をしてしまう可能性もある。このことは、映画でも言える。外国映画など特に自分の知らない世界が舞台になっている場合、妙に影響され、身も心も捧げてしまうことがあるが、そう言うことは百害あって一利なしなので、気を付けなければ行けない。ところが面白いと見ないわけにはいかないのでちょっと厄介である。

特に、影響されやすい人は要注意である。僕など絶対に影響されないタイプだと思っていたが、実は最も影響受けやすいタイプであったようだ。友達に君はマーケティングの良い虜だと良く言われたが、何だかその意味が最近分かってきたような気がする。つまり、人の言ったことを信じやすく、信じすぎてしまう傾向にある。

自分では批判的で気を付けているつもりであるが、ふと、権威に良いとか何とか言われたものに対しては非常にこの防御の盾が脆い。特に、外国人が書いたものに大して妙に無批判的に受け入れてしまうことが多いようだ。