人生は 五 七 五

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(by mother teresa)

本を読むと言うこと

2005-12-08 19:36:07 | Weblog
今日は久しぶりに晴れた。
本というのはなかなかくせ者である。本というのはそもそもなんなのだろうか。本について語るときりがないが、僕のようなタイプの人が過ちを犯してしまう可能性について書きたい。

本というのはあくまでも情報の提供である。これは良く言われることであるが、何かを求めている人が本の中に答えを見いだそうとする人がいるが(それは僕なのであるが)、たいていの場合或いは全ての場合残念ながら本の中には答えはない。

最も単純な例では、何かを選ぶときそれを選ぶべきかどうかである。本の中には、自分がそれを選べとは書いていない。書いてあるのは、選んだ人の例や、選んだ場合の失敗や成功などである。そのような情報が最大限である。おまえはそれを選べとは書いていない。

しかし、大抵の場合、どうしたらいいか分からない場合に本や他の人に相談するわけで、その場合本人はその対象に対しての善し悪しは検討済みな事が多い。それで更に本などを読んで情報を得ても決断するべきかどうかは書いていない。

判断は自分でしなければ行けないのである。此処が難しい所である。最近になって自分が決断力及び判断力は過度に弱いと言うことが分かった。何か選択肢がある場合、なかなか決断できない。こういう人が、本を読んでも決断の切っ掛けにはならず大抵、決断を鈍らせる切っ掛けになる。

これはある意味では決断を保留にして逃げているとも言える。つまり、この場合、本を読むのは決断を遅延させるだけに過ぎない。今までの僕の経験で、その決断に迫られた時に、本を読んで決断を決意した記憶はない。決断は決断でしかできないのである。

ただ、本でなく人に相談した場合は少し違う。人によって自分の決断をハッキリしたり、決断に踏み切れることはある。ただ、人による。運が良ければ、自分の決断に力を与えてくれる人に出会えるかもしれないが、それも当てにはならない。

僕の経験では、今まで決断が迫られたとき決断せずに、結局何も起こらなかったことがつねであった。もちろん、決断しなかったのでその決断に対して失敗はしていない。ただ、この状態は決断して行動して失敗した状態と同じである。

今までは、失敗するかどうか分からないときは敢えて何もしない選択肢を取ってきた。こういう生き方は、自分に満足できず、屈託のある精神状態になってしまうような気がする。失敗しても行動し決断している人の方が、1つ1つに納得して生きているので、自分に満足した生き方をしていると思う。

これからは、自分も失敗するかどうか分からないときは、敢えて決断し行動しようと思う。

本を読むことについて書こうと思ったがいつの間にか自分の決意になってしまった。