好奇 高齢者 の呟き

地場産業や蒲原の風景 山 山野草 良寛歌碑、 史跡 旧北国街道を訪ねる、 また聞いたり話した、方言を紹介したい、 

良寛 記念館 夕日が丘公園  NO1

2007-01-18 12:57:26 | Weblog
良寛記念館
海岸から山手に昭和40年に記念館としては古くから
生誕200年を記念して 館内には遺墨遺品
文献 等が多く展示されている、
夕日が丘公園も
にいがた景勝100選一位選定された、
此処からの日本海 良寛の母の国佐渡が 右に弥彦山 寺泊
眼下に良寛堂 出雲崎漁港 旧北国街道の妻入りの町並が
公園には良寛と子供とあそぶ像 歌碑も
夕日も綺麗ですが 荒れる冬の日本海を時には 芭蕉の句でも
思い出して。
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 海岳山 光照寺(越後三十三観音札所) 19番 NO2

2007-01-18 12:06:12 | Weblog
光照寺の破了和尚に従え剃髪( 文孝名主見習)
逸話では18歳の7月17日夜友人ともに
町の遊女屋へ上って100両を使いはたした、
17日の夜 何時もより盆踊りに熱中していた、

もう結婚していたとも  茨曽根の関根小左衛門の娘
で半年で実家に帰ったとか
当時なら18歳でも名主見習であれば結婚していても当然か、
子供を身ごもっていたが 流産か 本人病死とか
いろいろの説ある、
その他にも敦賀屋の婿 で大森子陽の同門であつた
長兵衛が良寛(文孝)の父以南に叱責される学友との板ばさみに
代官と地元漁師の争い 調停が出来ず 政治的駆け引きを知らない
文孝は正直な事が通らない世間が厭になったとも、

光照寺に入って良寛  (良観)だったとも物事の根本
人生の本質を正しく観ようという 意識か、
良寛は国仙和尚の命名でしょうか。 
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出雲崎 良寛堂 夕日が丘公園より NO3

2007-01-18 11:10:55 | Weblog
良寛堂は良寛の生家橘屋の屋敷跡に
良寛の遺徳を顕彰し良寛を偲ぶために
大正11年(1922年)9月に竣工しました。
常に持ち歩いていたという石地蔵をはめ込んだ
多宝塔に 『 いにしへに かはらぬものは
 ありそみと むかひにみゆる さどのしまなり』
良寛自筆の歌が刻まれている
良寛の母の国 佐渡ケ島を背景に日本海に浮かんで
見えるように設計された浮見堂

古へに 変わらぬものは 荒磯海(ありそみ)と
向かひに見ゆる 佐渡の島なり

たらちねの 母が形見と 朝夕に 佐渡の島ベを
うち見つるかも、
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おけさ源流の地  NO4 出雲崎町

2007-01-16 23:56:29 | Weblog
奥州 丸山の領主佐藤庄司元治の子
継信、忠信兄弟は源義経の忠臣として平家討伐に
活躍したが 兄継信は屋島の合戦で弟は忠信は京都で
源頼朝に追われた義経をかばい戦死、兄弟の母
(音羽の前)せめて戦場の跡を訪ねようと奥州から
出雲崎までたどり着いたが断念
 尼瀬の釈迦堂で尼僧となり二人の菩提を弔った、

出雲崎おけさは、義経のために 立派な最後を遂げた子供
達の詳報を聞き 嬉しさのあまり尼僧たちと袈裟(けさ)法衣
のまま歌い踊ったのが始まりで 袈裟(けさ)おけさ になった。

おけさ源流の碑より
 
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尼瀬獄門跡 NO3 出雲崎町

2007-01-16 23:29:58 | Weblog
1616年徳川幕府の直轄地となり代官所が置かれ。
牢屋 も造られた 、極刑の執行をする刑場で
おそらく幾千もの斬首がなされた。とくに
重罪人の生首は浜辺のほうにさらされたと
伝えられている。

町外れに在るが 近くに行くと何かぞっとする
そんな所だ、

良寛(文孝)18歳名主見習のころ村の者が
難破船の品物をごっそり盗み取り捕まって重罪に激しい拷問
の結果死亡 役目がらその場に立ち会わされり 盗賊の処刑に立ち会わされ
人の命のはかなさを 人の世のむごさを見ていたのかも、
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北国街道小諸まで五拾五里江戸まで九拾七里 NO2

2007-01-16 23:01:59 | Weblog
北国街道は出雲崎から江戸へ佐渡の金を運ぶ道として
信州追分宿から中山道を経て江戸に
北国街道は,会津街道 三国街道と合わせて佐州三路と
いわれるうちの1つの街道 で多くの人物資が往来がした
地方の一帯の政治 文化の交通の中心都市として
数多くの文人墨客の往来
日蓮上人 上杉謙信 景勝 豊臣秀吉
亀田鵬斎 大村光枝 谷文晃 十返舎一九 吉田松陰
 井原西鶴 その他にも
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出雲崎代官所跡 NO1

2007-01-16 22:24:44 | Weblog
元和2年(1616年)徳川将軍 代官所を置く
越後で初めての代官所が直轄地天領として初代代官 高田小次郎
佐渡からの金 銀の陸揚げ港として栄えた

妻入りの街並 妻入りとは切妻側面の三角形の壁面方向に出入り口
を設け此れを正面とする建築様式で この街並は全国的にも珍しい
北国街道の名残り海岸線に沿い3.6キロもの家並み、
この街並と史跡ゆっくり散策して下さい、
良寛堂(橘屋の跡)光照寺 良寛記念館 新潟県景勝100選
道の駅天領の里 石油記念館も  後日紹介


1604年には佐渡奉行 大久保石見守長安佐渡へ
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観音寺(松宮)久左衛門の墓碑

2007-01-14 23:24:36 | Weblog
松宮久左衛門 
弥彦南へ約2キロ観音寺の旧道を国上方面に
北越農事の看板を右に
幕末の大侠客 観音寺久左衛門墓碑が
久左衛門は博徒の親分でその道では知られていた
国定忠治 大前田英五郎 清水次郎長と交際があり
信義を守り人望も厚く学問もあった 草鞋を脱ぐ親分衆も
かくまわれた凶状持ちも、
此処観音寺村は与板藩領で用人格の待遇を受け
出雲崎代官所の陣屋の警備も
戊辰戦争で長岡藩 与板藩 会津藩と共に東軍にたって戦い
越後は官軍の勝利で会津、米沢方面に逃れたが捕らえられ
明治6年48歳で病没した。
かっての屋敷は3反歩もあり 大広間でいつも賭場が
開かれていた、任侠映画の話の世界のようだが映画のストーリも
こんな所のエピソードから生れたのか。
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  久賀美道の駅 てまりのゆ

2007-01-14 22:41:13 | Weblog
此処の裏手 酒呑童子神社の 近くで
賽の神を 分水辺りでは所々でこの行事を毎年
小正月に遊び方々来てくれれば、

国上寺 又 国上山に来たら 帰りに
此処の風呂も良いですよ、
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燕市国上賽の神

2007-01-14 22:30:54 | Weblog
小正月の行事として焼納する縁起物や
だるま 神棚 人形 昨年のお札 しめ縄
を燃やし一年の無病 息災を祈祷し するめ をその火で
それを食べれば今年も健康と安全を祈願
 甘さ酒のサービスも
昔は何処でもこの行事が有ったようだが
最近所々で観られる、

昨日だったかテレビで新潟市内で新築棟上の餅投げが
行われた様子を報映していたが、こんな風景も珍しく
なってきたのか 最近はお菓子が袋入りで投げられていた、
子供のころ 柿ノ木に小豆粥を今年も沢山実をつけてと。
モグラ送りとか 繭玉(私たちは まえ玉と発音)

小正月は家族がそして結婚した人は旦那 と一緒に
実家に里帰りし皆でトランプやカルタでよく遅くまで
遊んだ、
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大崎屋 芭蕉 曽良宿泊      NO3

2007-01-14 00:22:42 | Weblog
此処出雲崎の大崎屋に弥彦~麓 猿が馬場 西生寺
野積 寺泊 山田 出雲崎に宿泊
体調が悪くそして暑さ 新暦で8月17日か?
(旧暦7月4日)
大崎屋の直ぐ裏が当時はもう日本海が
波音も聞こえる そんな部屋での句の構想が生れたのか、
今では海岸線に新しい道があるが、もうそこは海だ

此処の街並は妻入りの作りで海岸寄りで土地が狭く街並は
間口は狭いが奥行きが有る家が当時は間口での税金があった
 
歴史街道を散策しては 妻入りの街並 大官所跡 獄門跡
良寛史跡や記念館等は後日に、
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芭蕉公園  NO2

2007-01-13 18:25:43 | Weblog
ここ出雲崎に着いた松尾芭蕉 曾良はこの公園の前の
大崎やの宿泊したと言われている、
おくのほそ道 の最高の句が此処で着想し
直江津で発表されている
時は元禄2年(1689年)
 荒海や  佐渡によこたふ 天の河
庭園には芭蕉真筆『銀河の序』の全文を彫刻した
句碑が建っている。

出雲崎から日本海の荒海のかなたに佐渡の島がある
そこは古来多くの人々が流罪のあって悲運を嘆いた所であり
また一方黄金が掘り出され人間の喜怒哀楽が渦まいて来た島
夜空を仰ぎそんな人間の小さな営みと無関係に広々と澄んだ
夜空を天の川が大きく横たわっている、
心象句とか。
芭蕉になった気分で一句 如何ですか 投函するポストも有る、

この場所は良寛の家 橘屋 出雲崎の名主山本家その補佐役
というべき町の年寄り格(敦賀屋)あった所

両家でのトラブルも そして隣町尼瀬の名主京屋 とも良寛の
出家もそんなことも原因か。
    
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出雲崎人物往来   NO1

2007-01-13 18:20:50 | Weblog
元和2年(1616年)佐渡からの金 銀陸揚げ港として
越後ではじめて代官所が置かれた直轄地天領となりました。
又越後の三大名 高田藩 長岡播 新発田藩力をおさえる
そして越後の米を運ぶのに便利なここ出雲崎を天領に。
北陸道 の北国街道 寺泊からの三国街道を多くの
文人も。
1565年  上杉謙信  佐渡へ出馬 当町多門寺旅舘とす
1590年  豊臣秀吉当町通過
1689年  芭蕉翁 来泊
1690年  中山(堀部)安兵衛
1778年  備中 玉島円通時 国仙和尚 良寛を伴い玉島に
1802年  伊能忠敬(58歳) 測量に(日本地図)
 (橘屋)に1泊2日宿泊 『大日本沿海興地全図完成1821年』
1803年  伊能忠敬は7泊8日尼瀬町の京屋七左衛門宅に
良寛生家(橘屋)の衰亡ぶりが幕府の公式記録により裏づけられた形に。
 人物往来は後日に
 
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良寛詩  50歳代  自己を省みる。 NO1

2007-01-13 00:05:36 | Weblog
良寛詩 50歳代  五合庵の時代


回首50有余年  首(こうべ)を回(めぐ)らせば50有余年
是非得失一夢中  ぜひ得失(とくしつ)一夢(む)の中(うち)
山房5月黄梅雨  山房5月黄梅(こうばい)の雨
半夜蕭〃灑虚窓  半夜蕭〃(しょう〃)として虚窓 (きょそう)に
         灑(そそ)ぐ 

50余年をかえりみる 善いも悪いも夢のうち
山の庵のつゆ時は 夜中さびしく窓の雨。

50歳代  60歳 70歳の頃の詩 未だ何作品あるが後日に

50歳代の夢 仕事は面白く身体は すこし位なら無理しても
翌日はもう疲れ残らない、子育てローンも有るけれど
零細なら俺だって 一国一城の主も夢でない そんな気概で
日本の都市は何処えでも 博多 門司 広島 姫路 大坂 京都
名古屋 岐阜 多治見 東京月に十日は出帳で  ホンコン
ハワイ タイでもゴルフ 春先は新年ゴルフはいつも温かな房総半島で
県外は長野や群馬でゴルフ総会 そして一流温泉ホテルでの宴会            高度成長が実力と考え違い でもいい時代 だった、                少し皆んな浮かれていたが、

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良寛詩60歳代 乙子神社時代 NO 2

2007-01-12 00:34:35 | Weblog
閃電光裏60年   閃電 (せんでん)光裏(こうり)60年
世上栄枯雲往還   世上の栄枯 雲 往還(おうかん)
巌根欲穿深夜雨   巌根(がんこん)穿(うが)たんと欲す深夜の雨
燈下明滅古窓前   燈下 明滅す 古窓前

稲妻と過ぎる60年
世の盛哀は雲に似る 岩をうがつ 夜の雨
窓の明かりもゆれほそる。

作品により多少のちがいがある。
起句  掣電光裏60年(せいでん)
   60有年夢裡(むり)過
 60有余 多病の僧  
 家占社頭隔人間  (家は社頭を占めて 人間を隔つ)
  古窓前が孤窓前

 有為転変のめまぐるしい60年の人生を振り返りると
まるで夢のごとく,栄枯盛哀はながれてゆく雲のごとく
去来している、しのつく雨を聞きながら ただ1人ほのぐらい
明かりの下でじっと座って 心身の脱落した自受用の境界には
今更俗界の煩悩もありはしないが、時には塵念のかげりもかすめよう。
渡邊秀英 良寛鑑賞より

もう 少し自分の人生の先も見えてきた、64歳まで働いた、
退社して もう社会は私を必要していない そんな空虚な気分に、
考え方を変えればやっと自分が好きな事 やりたかった事が出来る 海釣り、
山歩き 水彩 パソコン読みたい本だって まだまだこれからと言い聞かせ
これまで苦労させた、家族にも楽しい思いでも 家内とハワイ 中国 北海道
九州方面 2回家族みんなで 晩秋の京都 大坂の案内ここは私の仕事場で、
時には 友達家族とのドライブ 食事会 社交ダンスも是がなかなか
覚えられないが 急ぐことも無い。高齢者大学 論語も詩は解説聞くだけ
色んな事をしてもこの脳には残っていないだろうが、

ちっぽけな私の60歳代の人生観。じいさん ばあさんになれないのが残念だが
健康で真面目に働いてくれていれば、良いとするか。
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