好奇 高齢者 の呟き

地場産業や蒲原の風景 山 山野草 良寛歌碑、 史跡 旧北国街道を訪ねる、 また聞いたり話した、方言を紹介したい、 

良寛生誕250年 NO1

2008-08-09 23:02:27 | Weblog
良寛さん豆知識
最近新潟日報の良寛詩歌の連載で親しみが そして良寛さんの心に
ふれる ゆかりの地を訪ね人が、 そんな時に、参考に

良寛様の系図
父は与板 新木(あらき)家から 出雲崎山本家(橘屋)に婿入りに
(山本泰雄 重内 新之助左門  以南)名主 神官 文学を愛し
俳人としても知られている 良寛(栄蔵)29歳の時隠居 38歳の時
京都桂川で投身自殺
母は秀子 (おのぶ)佐渡相川 橘屋 出雲崎山本家の分家との説も
より養女に 良寛(栄蔵)26歳の時の死亡

良寛 7人(4男 3女)の長男として幼名栄蔵1758年生まれ
8歳 尼瀬の光照寺 万秀(ばんしゅう)の寺子屋で学ぶ、
13歳 大森子陽塾今の燕市分水町に狭川塾( きょうせん塾)

現在の西川が狭川(せばかわ)と別名も
当時下宿していた中村屋(与板新木家)の親戚で現在でもその2階が外から
見ることが出来る 分水町(地蔵堂)の願王閣の前に
当時一緒に学んだ仲間が 帰国後の良寛の良き理解者に原田鵲斎(じゃくさい)、
15歳元服 文孝(ふみたか』と名乗る 18歳名主見習になるが
結婚の話もり 茨曽根から一度を妻を迎たとの説もある。

尼瀬光照寺の破了和尚に従い剃髪する 良寛と名乗る
22歳国仙和尚に従い得度 備中玉島円通寺におもむく
33歳 国仙和尚から 印可の偈(いんかのげ)が与えられる。
『悟りを証明する漢詩』 人物証明書のようなもの。
34歳国仙和尚死亡 
39歳 この頃帰国 寺泊郷本の空庵に住まい
40歳 国上五合庵に住む 寺泊の照明寺 西生寺 本覚院
い 出雲崎の西照坊にも。

59歳国上の乙子神社草庵(おとこ神社そうあん)の移る
69歳 島崎の木村邸内庵室に 移住
70歳 貞心尼の訪問を受ける
73歳7月から病気に 
74歳正月6日死亡
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良寛生誕250年 NO2

2008-08-09 22:47:53 | Weblog
良寛の師
大森子陽 号 狭川(きょうせん) 狭川塾学者 良寛 原田鵲斎ら教える 
大忍国仙師 備中の玉島 円通寺の僧  大村光枝 京都の学者で歌人

生活を支援した人  富取正誠(とりとみせいこう)地蔵堂の大庄屋
阿部定珍(阿部さだよし)渡部(現燕市)庄屋 
解良叔問 (けらしゅもん)牧が花庄屋 (現燕市)
木村元右衛門 晩年の良寛の庵 

親しい友人
原田鵲斎(はらだじゃくさい)  中島の医師 (現燕市)少年の頃からの友人
山田社皐(やまだ とこう)与板(現長岡)豪商 山本家親戚 
三輪左一(みわさいち) 与板 大阪屋末の弟
有願(うがん) 代官島新田三条市(良寛会のゆかりの地ガイドは燕市になっているが間違い)
親友で新居田円通庵主(新潟市 白根 )

鈴木文台(ぶんだい) 粟生津村 (現燕市)塾 長善館の主宰 良寛が少年の頃から才能を認めている 江戸で亀田鵬斎(かめだぼうさい)師事

中村好哉(こうさい) 地蔵堂の酒造家で役人 良寛の父の新木家とは親戚
敬慕した人 貞心尼(ていしんに) 遍澄(ヘンチョウ)五合庵から乙子神社に そして木村邸
庵を奨め 後の地蔵堂の願王閣の閣主に良寛の弟子を自認。
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