徳昌寺 文明11年直江兼続の曽祖父が開基
慶長3年上杉家 会津移封に伴い 直井家と共に 米沢に移る
1部は与板に残る
その後領主 井伊家 豪商三輪大阪屋帰依を受け 有栖川宮のご祈願所に、
良寛さんの父 以南の実家 新木(あらき)家の菩提樹でもある。
良寛さんの親友三輪左市 維経尼(いきょうに)の墓碑もある、
維経尼(いきょうに)宛書簡
天寒自愛 (てんかんじあい)
君蔵経を求めんと欲し遠く 故園の地を離れ 吁磋(ああ)
吾何をか道(い)わん 天寒し 自愛せよ
十二月二五日 良寛
維経尼(いきょうに)は与板豪商、大阪屋の娘 夫の死後徳昌寺に
入り 大蔵経の資金を求め江戸で托鉢する
維経尼を気づかったもの。
三輪左一 と並んで墓碑がある。
慶長3年上杉家 会津移封に伴い 直井家と共に 米沢に移る
1部は与板に残る
その後領主 井伊家 豪商三輪大阪屋帰依を受け 有栖川宮のご祈願所に、
良寛さんの父 以南の実家 新木(あらき)家の菩提樹でもある。
良寛さんの親友三輪左市 維経尼(いきょうに)の墓碑もある、
維経尼(いきょうに)宛書簡
天寒自愛 (てんかんじあい)
君蔵経を求めんと欲し遠く 故園の地を離れ 吁磋(ああ)
吾何をか道(い)わん 天寒し 自愛せよ
十二月二五日 良寛
維経尼(いきょうに)は与板豪商、大阪屋の娘 夫の死後徳昌寺に
入り 大蔵経の資金を求め江戸で托鉢する
維経尼を気づかったもの。
三輪左一 と並んで墓碑がある。