好奇 高齢者 の呟き

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良寛の生涯の親友NO2

2007-02-04 23:19:45 | Weblog
貞心尼 (奥村ます)長岡藩の武士の娘(祖父の弟が燕万能寺の13代のご住職とも)
結婚 離別 出家 長岡在の福島の閻魔堂の堂主に
当時この地にも聞こえた良寛の評判に会って直接教を
島崎の草庵に 後年(はちすの露)を
良寛の70歳で貞心尼30歳の出会い
臨終のとき弟由之と遍澄と共に終夜看護、
遍澄(へんちょう)
法弟 弟子を入りは認めていないが師と慕い
日常の生計の手伝いを
後に地蔵堂の願王閣の堂主に
有願(うがん)
良寛の親友の1人諸国を遍歴し 新飯田(新潟市白根新飯田)
田面庵に書 狂草体とも言われる書 絵は達磨大師も
書か絵か今でも解からない読めないものがある、
燕万能寺の7代目?住職も
鈴木陳造(文台)江戸に遊学後
燕市粟生津長善館開き多くの人材を育てている、
中村権右衛門
地蔵堂の町年寄酒造業を営む 良寛の父の実家
と親戚で子陽塾へ通った良寛が寄宿していた
現在でも残されている
願王閣の前に
亀田鵬斎
江戸後期の学者寛政異学の禁で
晩年は詩と酒 書は 鵬斎は越後帰りで字がくねり
と良寛に影響されたと揶揄された川柳があるとか、
燕市にも長く滞在して書は多く私では読めないが
多く観られる、石瀬の種月寺に歌碑がある
隆全
三条宝塔院の住職 三条大地震の無縁仏の地震亡霊塔が建てられ居る、
良寛は訪れた時は気が向くまま滞在した、
およし
与板山田家の女性で 良寛に(蛍)とか (カラス)とか
あだなをつけた 黄金の水『酒』時々ねだっていた
良寛は托鉢で出歩くの色が黒いのでカラスと(すがた)とも
カラスは貞心尼との歌にも。
コメント
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