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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 96 秀吉、信雄を挑発する

2022年12月17日 17時39分04秒 | 貧乏太閤記
官兵衛が翌日秀吉に持ってきたのは、信雄の家老に直接美濃の城を一つずつ、褒美と言う形で秀吉からあてがう手紙であった
これでは信雄に美濃は渡るが、それを家老個別に与えることで、彼らは秀吉から与えられたことになるから、直接秀吉にお礼に来るのは当たり前の礼儀となる
それでは主の信雄は面白くないであろう、あとは家老たちが秀吉に急接近する餌をさらに与えれば、信雄の気持ちはますます動揺するに違いない
そして同時に信雄がさらに不快になることを行えば、それは導火線となるだろう
「儂は本願寺跡に安土城よりさらに巨大な城を築くことにした、大坂城じゃ」
そしてたちまち縄張りが始まり、巨大な石垣の石が瀬戸内からどんどん石山に運ばれてきた、その話はたちまち尾張まで聞こえて来た
「なんと! 儂に相談もなく安土城より大きな城を築くだと! 秀吉め何様だと思っているのだ」信雄は不快感を露骨に表した。
天正11年(1583)9月、大坂城建設が起工された、完成までには凡そ10年もかかったが、堀と石垣が完成すると最初に外壁と豪華な本丸御殿と西の丸、北の丸御殿を作らせて、秀吉と家族、さらに側室や警護の武士、奥女中らを住まわせた。
また城の周囲には城下町と武家屋敷、大名屋敷を整備した、それは日本で最大の商業都市となった。
水路を経て淀川や木津川など天然の大河と、人工の運河を組み合わせて大坂湾や畿内の海外貿易港堺と結び、瀬戸内から九州博多を経て上海やルソンへと通じる大都市が誕生した。
京、大坂、近江、大和、兵庫、だけでも人口は300万人を超える賑わいとなった、信雄の尾張、美濃合わせても100万に届かない。

 信雄は思う、(その美濃も怪しい)と、秀吉から美濃の中で領地を直接もらった3人の家老が近頃は主の自分より秀吉を尊敬して心服しているように見える
 秀吉は信雄に対しては「まことにお屋形様は良き家老衆をお持ちでうらやましい、某からもご家老衆に些少ながら美濃の内に御領地を差し上げたいがよろしいでしょうかな?」などと断れぬような言い方をする。(「だめだ」と言えば、「お屋形様のお許しが出なかったので申し訳ないが」などと家老に言うだろう、そうなれば儂がいかにもケチな主と言われてしまうであろう、ならば「良きにはからえ」と言うしかないではないか)
だが、領地があてがわれても、儂からとは思わず、筑前からもらったと誤解する、しかも家老たちは剛毅な秀吉と頼りない信雄を比べて見下している気がする、それが面白くない、不満がたまった信雄はついに爆発した。

 天正12年3月、信雄は秀吉に傾倒した自分の三人の家老を長島城に呼びつけた、そこでありもしない罪を列挙して三人とも切腹させるという痛恨の愚行を行った。
しかし、その三人は近頃急に秀吉に接近した者たちであったから、秀吉の行いを批判していることは明白であった
信雄は、秀吉に俗にいう「喧嘩を売った」ことになる、これこそ秀吉が待ち望んでいたことだった、官兵衛によって仕掛けられた罠に、信雄がハマったと言えよう。
 いかに信雄が気が利かぬと言えども、さすがに秀吉に楯突いたことくらいわかる、急に恐怖心がわいてきた
滝川同様、周りを見渡しても織田家中は池田恒興くらいしか味方になりそうな大名が見当たらない
かといって今さら秀吉に言い訳や頭を下げるのもプライドが許さない
そして残った家老に相談した結果、徳川家康こそ今の世で、羽柴秀吉に対抗できる力を持つ唯一の人と結論付けた
信長と違い、秀吉に対して家康は主従関係でも同盟者でもない、むしろ織田家の敵対者を次々と食い尽くしていく秀吉に不快感を持ち、警戒しているふしがある、さっそく池田恒興と徳川家康に味方になって対抗してくれるように文を送った。
 家康の130万石、信雄の実質100万石を併せれば3万ほどの兵を秀吉に向けることが出来よう、そうなれば秀吉に反旗を翻す者も出てくるだろう
伊勢や紀州でも秀吉への反対勢力はいる、おそらく滝川一益も再び立つであろう。
家康からはすぐに「お味方しましょう」との返書が届き、信雄は飛び上がって喜んだ、・・が池田は迷っているようであった。
池田恒興は信長とは乳兄弟であった、そのため形だけとはいえお屋形となった信雄に味方するのは当然である、しかし秀吉にも信長の四男秀勝が養子になっているから微妙である。
家中でも家老たちが秀吉派、信雄派に分かれて議論している
「人の道として信雄様に味方するのは当然だ」「いや、羽柴殿はすでに天下を取ったに等しい、敵対すればお家滅亡となるだろう」
ますます恒興は混乱した、しかし恒興と言う人は欲深い人であった、両者を天秤にかけて計ってみた。
信雄は近江の内に30万石を加増すると言った、秀吉は美濃一国と尾張半石で80万石を与えると言った、これで恒興の腹は決まった。
大名や武士とは土地を得て、そこから家臣に分け与え大きくなっていくのが目的でもある、家臣も手柄を立てて、主からより多く土地を褒美にもらい、家来を増やしていくのが目的である、だから恒興の生き方は理にかなっている。
方針が定まった恒興はさっそく動いた、大垣城主である恒興は、5里(20km)ほど東にある信雄方の犬山城が、城主が留守で手薄になっていることを知って嫡男の池田元助に乗っ取りを命じた。
犬山城は、元は池田恒興の城であったから、城下の町人も協力して乗っ取りの手伝いをしてくれたから元助たちはやすやすと大手門を破って侵入できた
城兵も激しく抵抗した、しかし武装した池田軍に切りたてられて、ほぼ全滅した、犬山城は秀吉方の手に落ちた。
 池田恒興はこの勢いで翌日には今度は3里半ほど南にある、小牧山城を奪おうと兵を進めた、しかし前日、犬山城を奪われたと知った徳川家康は直ちに酒井忠次を先遣隊の大将として6000を与えて小牧山に急がせた
その甲斐あって、池田軍が小牧山に着く前に酒井軍が先に着いて、やって来た池田軍に鉄砲を激しく撃ちかけた
たまらず池田軍は敗走した、しかし敗走しながら城下に火をかけたので、酒井軍は追撃をあきらめた
家康は命じて、小牧山城の防御を徹底的に固めさせた、一方秀吉も小牧山城のわずか1里先の楽田城の強化を命じた
こうして互いに、ここが最前線になると思った、そのとおりに間もなく徳川家康と織田信雄は小牧山城に入り、羽柴秀吉は楽田城に入った
織田、徳川連合軍は2万、羽柴軍は7万が参戦したが、睨み合ったまま1か月互いに動かなかった。
小牧山城は信長が目をつけて美濃侵略の足掛かりとした重要拠点であったから、容易に攻め落とせる城ではなかった
しかも、そこには戦上手な徳川家康が屈強の三河兵を率いて入っている、3倍以上の兵である羽柴軍でも容易に攻めかかれない
長期戦になる様相を示していた、だがどちらも慌てない、先に動いた方が不利なのである。

 ところがしびれを切らしたのは功を焦る、池田恒興であった、何しろ美濃一国と尾張半国が目の前にぶら下がっている、勝利しなければ絵に描いた餅になりかねない
「羽柴殿、こちらから仕掛けない限り敵は動かぬぞ、儂に考えがあるので聞いてもらいたい」
諸将が秀吉を「殿」と呼ぶ状況になっていても、信長と兄弟を自認する池田は秀吉に遠慮しない。
「兵1万を貸してもらえば、儂と長可で敵に気づかれぬよう大回りをして油断している岡崎城を攻め落とす、そうすれば家康は袋のネズミになる、どうじゃ」





北安曇(きたあずみ)の冬景色 2

2022年12月17日 07時19分00秒 | ドライブ
北安曇郡、南安曇郡は新潟県境から松本平までの間の地域
大町市を境に北と南に分けられ、北は白馬村、小谷村が主で、2800m級の後立山連峰がそびえたつ
登山、スキー、合宿、リゾートで賑わい、オーストラリア人がスキーに来て、ここに住み着いてペンションを始めたとか
オリンピック以後は国際都市?(都市ではないが)の感があった
だがコロナの感染が続き、今は一時の賑わいは無くなってさびしい限りである

南は山岳の北とうってかわり、アルプスなど東西の山から湧き出す清水がワサビ畑を潤す、水の風景が美しいところだ
真ん中に高瀬川を挟み、東西それぞれ細くて長い平野が続く、ほんとうに美しい地域である、今や南安曇郡というより「安曇野」が定着した。
気候も北は積雪が多く、そのかわり夏は涼しい。 大町以南は冬でも比較的雪は少なく、松本市に積雪があることは珍しい
冬は晴れが続く関東的な気候である。

北安曇小谷村の景色 これでまだ12月降り始めである












長野県の主な都市はだいたい500mくらいの標高で、リゾート地は1000~1500mに位置する
ただ、海からは長野市で60kmくらい、松本市だと100kmと奥まっているから、今回もかんじたけれどガソリンがやたら高い
私も燃料切れが近いままに出てきたので心配だった、どうも長野県内で給油になりそう、だけど給油めもり最後の1までは頑張ろうと思った
そのためメモリとにらめっこばかり、なんとか2目盛り残りで新潟県妙高に入った
そこから先で給油したが、長野県では178円、25kmくらい先の新潟県では158円だった。
30L入れると、その差600円、大きいか?小さいか?