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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 98 徳川家康と言う男

2022年12月19日 17時39分08秒 | 貧乏太閤記
 堀は更に追おうと思ったが、十町ほど先に豆粒のような軍勢が見えた、遠眼鏡で覗いてみるとなんとそれは徳川家康の本隊であった
さすがの堀も驚き「これはいかぬ、退却じゃ」
敵と離れているうちが幸いと一斉に南に向けて退却を始めた、ところが森長可から、三好の本隊が壊滅したと聞いた池田恒興は、ようやく重い腰を上げて堀たちが居るはずの東に向かって進軍を開始した
その頃には三好隊は霧散、堀隊は退却した後であった、そして太子が根というところまで来たとき、突然正面の坂の上から大軍が走り下って来た
それは徳川軍であった、しかも家康の本隊までもいるではないか
「そんなバカなことが! なぜ三河守がここにいるのだ」恒興はキツネにつままれた気分であった
油断も油断、大油断であった。 戦闘態勢も整わぬうちに駆け下って来た徳川軍に切り込まれて右往左往となった
森長可も体制を整えようとするが、それより早く、徳川勢が突っ込んでくる
長可は馬上で、この危機を何とか回避しようと味方の兵の間を駆け巡り叱咤激励した、その時、徳川隊が放った銃弾が「鬼美濃」と称された森長可の額を貫いた。即死であった。
これを聞いた恒興は逆上した、「続け~、家康を討ち取るぞ!」
馬を走らせた、しかし味方の士気は下がっていた、あとにつく兵は少なく、結局、恒興単騎のようになった、それを見た徳川隊は十重二十重に槍衾を作って恒興に攻めかかった
同時に幾筋の槍を体に受けて、恒興は馬から転落した
たちまち兵が駆けよって池田恒興の首を描き切った、秀吉方の岡崎城奇襲戦は失敗に終わり、二人の重臣が死んだ、しかもただ一人奮戦していた恒興の嫡子元助も討ち死にしてしまった。

秀吉と家康、信雄の戦が終わったあと、池田家は当主の恒興、嫡男元助が同時に戦死したため、次男の輝政が池田家を継いだ
この池田輝政は秀吉が死んだあと徳川家康に仕えて関ケ原戦でも活躍、家康から姫路52万石を賜り、家康の娘を正妻(後妻)に迎えた
現在の国宝姫路城は、当時の城を、家康の婿であり52万石の大名にふさわしいものにすべく姫路藩初代の池田輝政が大改修したものが今に残っているという。

 息絶え絶えに、小牧まで逃れて来た秀次を見た秀吉は怒った、生半可な怒りではなかった、しかも池田恒興、元助、池田の婿の森長可まで討ち死にした
「堀秀政の奮戦がなくば、そのほうも今頃は命が無かったであろう、生きながらえたその命は儂が成敗してくれるから岐阜で謹慎して沙汰を待て」と激しく𠮟りつけた。
そして秀吉はすぐに「直ちに兵を長久手に進める、徳川家康を討ち取るぞ」と言って、堀尾吉晴ら諸将に命じ3万の軍を自ら率いて出陣した。
途中で、勝ち急ぎ池田らの敗残兵を追ってきた徳川軍の小部隊を撃滅させながら家康を追った
それを知った家康は、秀吉軍と正面からぶつかる直前に枝道に逃れて小幡城を経由して小牧山城に戻った
情報が遅れれば長久手で秀吉と家康は、川中島の信玄と謙信の一騎打ちのごとく正面衝突するところであった
秀吉も、家康が小牧山に戻ったことを知り、急遽楽田城に戻った、殿軍(しんがりぐん)は堀尾吉晴が引き受けて、攻め寄せる一揆軍を追い払いながら見事に撤退した。 
この吉晴は竹中半兵衛と共に、斎藤義龍の稲葉山城を攻略した時道案内をして秀吉に取り立てられた堀尾茂助である
いまや秀吉のもとで立派な大将として活躍している。

 長久手の戦いは、徳川家康、織田信雄軍の大勝利であったが全体の戦局は何ら変わりなかった
その後もまたにらみ合いが続いたが、秀吉は飽きたのか5月に入るとすぐ突然撤退を決めた、それを見た家康も秀吉の完全な撤退を見届けてから三河に引き上げた、信雄も清州城に引きあげた。

 しかし秀吉はただでは帰らなかった、信雄や今は亡き信孝に与した城を次々と落としていった、「行きがけの駄賃」と言うやつである
こうして凱旋した秀吉だが、落ち着くような性格ではない、直ちに軍議を開き信雄の領地である伊勢と尾張に兵を進めて信雄領を次々と侵略していった
こうした嫌がらせは、織田信雄を苦しめるに十分な効果があった
家康も信雄に求められるたびに兵を出すわけにもいかず、様子見をしていたが
どうしたことか、家康に相談もなく信雄が秀吉と和睦したという
さすがの家康も驚き呆れた「この先、どうなろうと儂は織田信雄の味方はせぬ、勝手にするがよい」と見放した。
信雄と秀吉の和睦条件は厳しいものであった、尾張一国を安堵する代わりに、信雄は秀吉に臣下の礼をとるようにというものであった。
かっては秀吉と対等であった滝川一益も、秀吉と家康の戦に紛れて失地回復を企てて挙兵した
しかし信雄領を襲ったが撃退されて、伊勢に居ることもできなくなり行方不明になった
このように信雄も孤立無援となり、織田家は滅ぶことは無かったが羽柴秀吉の風下に置かれてしまったのだった。
ついに織田家の支配した織田王国は秀吉に禅譲されて、羽柴王国となった
秀吉はついに日本最大の王国の王となったのである、越後の上杉景勝も越後安堵の条件で秀吉に臣従したし、毛利王国も羽柴王国の衛星国となった。
圧倒的な秀吉の権勢の前に徳川家康は臣従しなかったけれども、和睦やむなしとして二男の於次丸を秀吉に渡した。
嫡男は20歳の時、謀反の疑いで切腹させ、今度は二男を人質に取られて、残る子はまだ幼子ばかりだったから、家康の苦労はまだまだ続くのだった。
もっとも家康はなぜだか於次丸を生まれた時から嫌っていて、秀吉に渡すことも何ら憂いなく、むしろさっぱりした感があったともいわれる。
後に徳川家に戻って、常陸の結城家の養子となり結城秀康と名乗る
その後、関ケ原の戦では常陸にて、敵方の上杉景勝に備えた功により、越前77万石を与えられ、松平に戻り越前松平家の祖となる。

 世の中は羽柴秀吉一色となったが、越中にある佐々成政の心は収まらない
「秀吉め、下賤の身から取り立てていただいた織田家への忠誠も忘れ、信雄様、三法師さまをないがしろにするとは許せん」
歯噛みするが、越中一郡となった身ではいかんともしがたい、長久手の戦があったときには信雄に同調して前田利家の能登七尾城を攻めたが、攻め取れず
ついに一郡減らされて新川郡のみとなってしまった
それでも一矢報いたいと、天正12年11月に初冬の雪の針ノ木峠を超えて松本平に下り、そこから浜松城の徳川家康に会ったのは12月初旬であった
「徳川殿の義心と正義におすがりしてぜひとも秀吉めを懲らしめたいと思い、雪深い越中から信濃の1万尺の雪山を超えてここまでまかり越した次第です、なにとぞ立ち上がっていただきたい」
家康は、山の獣さえも寝静まって通らぬ深雪の後立山を超えて来た佐々成政の執念と気力に驚いたが、小牧、長久手で春先に戦い、秀吉のびくともしない強さを知った家康は、成政を労わり慰め、「もはや秀吉を倒すことは不可能である」と諭して返した
絶望した成政は天正13年早々に領地と家臣を捨て浪人となった、こうしてまた一人、織田家の重臣が消えていった。




雪が降りましたよ

2022年12月19日 09時38分22秒 | 季節と自然/花
昨夜は20時半くらいにお開きとなりましたが、タクシーで帰宅
距離が10kmでしたが、そこそこの積雪があって倍くらいの時間がかかったようです
すでに国道はこの冬、第一号の除雪車が出たということで、走るには支障なかったです。
今朝は真っ暗な5時から近所の方が個人除雪機で、除雪作業を始めました
30分ほどたって、わが息子も除雪機を出動、車一台通れる路地は見る間に車線確保できました。
積雪量は20~30cmと言ったところで、驚くほどではなかったです
でも高速道は新潟県の長岡あたりで止まっているとのこと、去年でしたかその先の魚沼で1日だかずっと止まって大変でしたから、予防のための早期交通止めなんでしょう。
9時から昨夜のFIFA決勝(アルゼンチン3対3フランス PK4対2アルゼンチン優勝)の録画放送を見ようと思ったらBSが放送中止中、これも雪で中継所がアクシデントなんでしょう。
昨夜はバタンキューで見られなかったので楽しみにしていましたが、残念
夜の放送が見られたらいいなと思っていますが。
このブログを書こうとPCを開いたら、これも接続トラブル、少しあれこれかまったら何とか接続できました、雪の影響は大きい。

昨日、会場を提供していただいたK氏宅のリビング、温かい薪ストーブの赤い炎で暖まりながら楽しい時間を過ごしました、感謝です!

外の梅の木も「枯れ木に花」です

今朝の我が家の二階からの景色、すっかり冬景色になりました
今日の最高気温は4度くらいだそうです、ちらちら雪が降っていますが
明るい。 でも気温が低いから雪は溶けないですね。