家康が大坂城に秀吉を表敬訪問したのは、その年の初夏であった
秀吉の臣下となった諸大名、秀吉が育てた大名、与力など100名近い諸侯が居並ぶ中を、徳川家康は粛々と正座の高みに座る秀吉の方に歩いて行った
そして3間ほど手前で座ると平伏した
「おお、三河大納言殿、よお来てくだされた、そのようなところにおらずに儂の隣にきて座るがよろしい」
秀吉は満面の笑顔で家康に語り掛けた
「滅相もありませぬ、某はここにて十分でございます」家康が言うと
「皆の者、大納言殿は儂の義弟である、かってのお屋形様と三河殿の関係と同じく、儂と大納言殿もまた力を合わせて、この国の平定に努めるものである
皆も豊臣の戦では、大納言殿を儂の代理と思い従うべし、三河殿は天下の副将軍である」
「なんともったいないお言葉でありましょうか、そこまで申されるならば、この家康は今後、関白殿下には戦場の先頭には立たせませぬ、殿下の陣羽織を賜り、某が戦場の先頭に立って全軍を率いて殿への奉仕をいたしましょうぞ」
「よくぞ申した、大納言殿、頼もしく思うぞ」秀吉は改めて一座を見回しながら
「皆の者、聞いたか、三河大納言こそ、わが実弟中納言秀長ともども儂の兄弟であり、左右の大将である、この二人を儂同様に思い、忠勤にはげむように申し渡す」
秀吉は、いまここでついに徳川家康を臣下とした、そしてこのことがすべての大名に、秀吉が信長に代わる天下人であることを認識させたのである
さて柴田勝家が北の庄で滅び、秀吉が預かった三姉妹は今、どうしているのだろう
あのあと、織田信雄や長益、信包らが面倒を見ていたが、この年、天正13年(1585)には長女茶々は16、二女江は15、末女江は12歳になっている。
この年は、毛利との講和、根来雑賀攻め、四国の長曾我部討伐と夏まで戦が続き、ようやく一息ついた
柴田勝家を滅ぼしてから2年、あのとき救い出した浅井三姉妹のこともすっかり忘れていた秀吉であった、それが市を思い出した途端に蘇った
「浅井の姫たちはどうしておる?」
石田佐吉が命じて、そのあたりを調べさせると一番若い江姫はすでに2年前、10歳で、織田信雄の家臣で織田一族の佐治一成との婚約がなっており、この秋に祝言を上げるとのことであった
それを聞いた秀吉は面白くなかった、小牧長久手で秀吉に戦いを挑んだ信雄とは和議となったが、いまだに関係がしっくりしていない
しかも佐治は信雄が得意とする水軍の将であり、小牧の戦でも徳川軍が三河から伊勢方面に物資を運ぶのに大いに貢献している
「ならぬ、信雄に遣いを出し、佐治と江姫(ごうひめ)との婚約を解消させて江姫をわしの元に連れてまいれ、理由は幼すぎる故、わしが傍に置き、後日しかるべき身分の士に嫁がせるとせよ、信雄につべこべ言わせるな、つべこべ申したら、『もう一戦、馳走しようか』と申せ」
三成は、直ちに家臣に申し付け、遣いを出した
「あとは・・・初姫と茶々姫であったのう、大坂城に3人一緒に住まわせることにしよう、自分の戦を5年も続けておると、頭は戦一色になる、世俗のことなど忘れてしまうわ、あの子らにもはや3年もあっておらぬ、成長したであろう」
大坂城は今までこの国にはなかった巨大な城である、大坂の町を西洋式の広大な城郭都市にする計画である
淀川、木津川などを自然の堀としたうえで、さらに人工的な外堀総構え、内堀を幾重にも巡らせて、石垣は高く、堀は深く、いったい幾つあるのかわからぬ小郭(くるわ)、大郭が立ち並ぶ、その間を100間はあろうか長い土塀が結ぶ
天守閣はまだ工事はこれからで、ようやく堀と石垣の土台造りが始まったばかりである
今は外堀、外曲輪が大部分完成し、本丸周辺の各御殿が先にできて、秀吉は、奥のねねや、母のなかを長浜から大坂城に連れてきて住まわしている
既に警固の武士や、世話をする女中衆、小者まで多くが城中に住んでいる
また、これまで秀吉が側室とした京極高次の姉、前田利家の娘、蒲生氏郷の妹など数名の側室も本丸御殿の中のそれぞれを与えられて暮らしている。
この中には、初めて秀吉の子を産んだ「ふじ」はいない
彼女は、京で秀吉から与えられた一軒家に母の初女と今もひっそり暮らしている、身の回りの世話をする者も与えられ、生涯食うに困らぬ金銀も秀吉から与えられて裕福に暮らしている
成り行きでふじの養父松下嘉兵衛にも、最初に与えた2000石から、今は秀吉が1万石を与えて城持ちの大名に昇格させている
嘉兵衛も京、大坂に来るたびに初女とふじが住む、この家に立ち寄っては茶飲み話をしていくそうだ。
そして、ついに大坂城で秀吉と浅井三姉妹が対面した
茶々は16、初は15、江は12才である、この時代では誰が結婚してもおかしくない年頃である、特に茶々、初はまさに適齢期と言って良い
茶々などは1~2年たてば、もう適齢期から外れると言っても過言ではない齢になっている、なにしろ人生50年の時代なのだから
秀吉は何げない顔で3人を見回した
「江姫よ、此度は佐治がこと申し訳なく思うが、奴は海賊の家柄ゆえ織田様のお血筋には合わぬと思ううて断らせてもろうたのじゃ
姫にはもっと相応しい家柄の者を、儂が責任をもってめあわせるゆえ、しばらくお待ちくだされ、まだ齢もお若いからのう、心配はない」
茶々は長女らしく、落ち着いていてじっと秀吉を見ている、秀吉が少したじろぐほど眼の光が鋭い
二女の初は、おっとりした感じで一番優しい顔だちをしている
三女の江は、まだ幼さが残るが、芯の強さを秘めていると見た
信雄が三姉妹の中で一番幼い江を嫁に出そうとした気持ちが、少しわかったような気がした。
「どうじゃ、まだ完成してはおらぬが、この城と北の庄の城と比べてどうじゃ」と秀吉が聞くと、茶々が答えた
「見たこともないほどのお城でござります、殿下には僭越ながら北の庄のお城のことは二度とお口には出していただきたくはございません、消え去ったものは戻りませぬゆえ」
「ほほう、茶々様は、なかなかはっきりした姫でござるのう、さすがは信長様の姪であらせられます、おおそうだ、信長様も消え去られたお方、口に出してはまずかったかのう」
「それは違いまする、伯父は天下を手中に収めかけた英雄でございます、私は強いお方が好きでございます、柴田の義父も、北の庄の城も弱い、弱い者が私は嫌いです、私自身も強くなりたい、もう負けるのはさんざんです」
「おお、なんと心の強い姫じゃ、秀吉感服いたし、安心しましたぞ、姫は強い、心配はいらぬ、これからは儂が親代わりとなるゆえ大船に乗ったつもりでいてくだされ」
秀吉は心のなかで(美しさでは初だが、茶々の上を目指す心意気には何か感ずるものがある、これは案外大化けするかもしれぬ、江はまだ幼くわからないが、この子が一番、信長様に似ている気がする)