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 神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 107 和解 秀吉と義昭

2022年12月28日 17時46分47秒 | 貧乏太閤記
 「はい、南の国では日本人傭兵が多いので日本人の娼婦は足りないほどだそうです、そして傭兵が多いのはスペインと振興のオランダがジャワからインドにかけて激しく領土争いを行っているからだそうです」
「ううむ、儂は少しもそれを知らなかった、早速調べさせてとるべき処置を考えよう」
「ははぁ~、ぜひともお願い申し上げます」

 秀吉は大坂への帰国途上、安芸(あき)広島城に毛利輝元の歓待を受けた
そこには鞆(とも)にいた足利義昭の姿があった、
義昭は秀吉より1歳年下で、この年4月は49歳である
「関白殿、九州征伐の成就まことにおめでとうござる」
義昭も、この歳になり、長年憎み戦い続けた織田信長もこの世になく、なんだか丸くなったように見えた・
「ありがたきお言葉でござる、このような場で将軍様とまみえるとは秀吉は果報者でござる」
輝元は二人の座をどのようにしようかと迷い悩んでいたが、安国寺恵瓊が
「かっては征夷大将軍と、信長公の家臣でありましたから足利公が上位でありましたが、今や豊臣公は関白であり天下人、官位でも足利公より上位であります、さりとて御家柄でも誇り高き足利公でありますから、座を横並びにいたして左に関白殿、右に権大納言(義昭の官位)殿といたし、殿は、お二人の下座で向かい合われれば宜しいかと思いまする」
そういう形で対面となったが、それで二人とも違和感はないようだ
「毛利公よりお聞きしましたが、此度の戦では将軍様から島津へ降参するようにとの使者を幾度も送られたとのこと、おかげで島津との死闘もないうちに講和がなったこと、お礼申し上げます」秀吉は義昭に頭を下げた。
「いやいや、たいしたことはしておらぬ、儂も戦にはもう飽き飽きしておるゆえ少しでも役に立てばと思ってやったまでのことじゃ、それに島津はなかなかの古武士であってのう、儂を主君と未だに持ち上げてくれるのじゃよ」
「ほほう、そうでありましたか、島津公と話しましたが、なかなかの者にて某も感服したものでござる」
「さようでありますか、此度はよくぞ堪忍して島津を許された、儂からも礼を申し上げる、島津は弟のようにかわいいゆえ、これからも宜しく面倒を見てくだされ、必ずや関白殿の力になるでありましょう」
「はは ありがたきかな、ところで将軍殿には都へお戻りになる気はござりまするか?」
「なんと! 戻れるものなら、すぐにでも戻りたいが」
「おお、それは上々、まだ九州からの帰りであり、当分はいろいろ後始末に手張りますから秋ごろを目途に帰京の準備を進めましょう」
「まことであるか、なんとありがたいことじゃ、毛利公聞かれたか、儂が都に戻れるのじゃ、これもみな毛利公のおかげである、そして御心広い関白殿のおかげである、生きながらえていて良かった、このような日は二度と来ぬとあきらめておったが」
「都には将軍殿の子息がおられるとか聞き申したが」
「おお、義尋がことであろう、出家しておる」
「おお、まさにそのお方でござる、まずは義尋殿を大乗院門跡に推薦しようと思いまする」
「なんと、義尋がことまで心配してくれるのか、ありがたい、ありがたい、関白殿は大仏様のようなお方でござる、知らぬこととはいえ、これまでの数々の無礼を容赦願いたい」
「お顔を、お上げくだされ勿体ない、島津懐柔のお礼をしたかっただけでござる」
長年の宿敵が、織田信長と言う大きな岩が外れたことで一気に和らいだ
考えてみれば足利義昭と豊臣秀吉が憎み合う理由など無かったのだ。
義昭の目にはうっすらと涙がにじんだ、このあと毛利輝元、小早川、吉川、秀長、そして秀吉と義昭は共に美酒に酔ったのであった。
翌日、秀吉は毛利輝元、小早川隆景、吉川元春に感状と褒美として数々の名品を贈った、元就も名物茶器と名刀を秀吉に贈った、義昭もまた秀吉と互いの名品を贈り合った。

 大坂に戻った秀吉は更に南蛮貿易と南蛮人について調べさせた
「南蛮人と申しても、我が国に関係する南蛮人はスペイン、ポルトガル、オランダの三国です、南蛮人同士が植民地を争っているのです」
「なるほど南蛮人にも敵味方があるのか、これは面白い、我が国にとってどちらが有益で、どちらが害を及ぼすのか見定めねばなるまい」
秀吉の心中は複雑である、南蛮人とキリシタンのことは今一つわからない
人身売買とキリシタンは関連しているのか、南蛮の交易船が奴隷売買しているのか、それはポルトガルもスペインも、どちらもやっているのか
どちらか一つなのか、それとも倭寇の仕業なのか
これを徹底的に調べようと思った。 南蛮交易は欠かすことができない、むしろ今より発展させねばならぬと思っている
だがキリシタンはどうだ、利用すべきか、排除すべきか、バテレン追放を言い渡したが実はまだ迷いが残っている
秀吉にしては珍しく決断力が鈍っている、(こんなことでは九州の有馬や大村ごときにも交易ではかなわぬ、あの島津はキリシタンの布教を拒んだというが、それさえ嘘であった、島津も交易のためにキリシタンの布教を許したと聞いた)
 大坂に戻った秀吉は、ふたたび精力的に動き出した
まずは昨年、甥の小吉秀勝と浅井三姉妹の三女、江姫の婚儀を執り行ったが、今度は京極殿の弟、京極高次と二女、初姫の婚儀を執り行った
京極殿竜子の喜びはひとしおであった、高次こそ愛すべき弟で、その頼りなさをいつも心配してきた竜子だったのだ
「これで、私が殿下のお子を産んだなら本当に幸せでございます、いつ死んでも悔いはありません」、高次の婚儀で高ぶった心のままに竜子は秀吉にささやいた。

  天正15年も秀吉は忙しい日々が続いている
島津との戦を終わらせ、大坂に戻れば初姫と京極高次の婚儀を執り行わせ、そのあとには茶々とのこともあった。
それよりもっとも大きなニュースは2年前から京の都に建築を始めた「聚楽第」が9月に完成したのである。
形式的には城であるが、戦闘を目的としたものではなく、迎賓館的なものと言った方が良い
だが織田信長が本能寺で非業の死をとげ、嫡男の信忠も城塞の要素を持つとはいえ城より遥かに防御力が弱い御所で討ち死にしたことが、秀吉の脳裏から離れない、それを踏まえて、きらびやかで、京の四季を取り入れた庭などを持ちながら、いざ敵が来たとなれば、数十日は籠城できる堅固さももった三層の天守もあるが御所づくりの建造物である。
 これができると仮住まいしていた大坂城の御殿から、秀吉は聚楽第へと引っ越しを始めた、落ち着けば大名の屋敷も城内に作るつもりだ
大坂より水路を船で京近くまで、そこから陸路で果てしない荷物の行列が並び、町人たちを驚かせた、その数は数百台ともいう
そして側室たち、政所、大政所、茶々姫も聚楽第に移った。





おかえり寅さん

2022年12月28日 10時43分20秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
 昨夜は21時ころ飲んだコーヒーのせいなのか?久しぶりに寝そけた。
0時に布団に入ったけど、さっぱり眠れず、「眠れないなら」と起きて
ビールを飲みながら2時半まで小説を書いていた
ようやく、眠気が出てきて寝た、朝9時に息子に起こされるまで寝ていた
外は久しぶりの快晴、玄関を見たら、隙間から「フーテンの寅ねこ」が中を見ている、この前来たのはいつだったろうか? 1か月以上はたっている
毎年、雪が降ると1か月、2か月帰ってこなくて「もう死んだんだろうか」といつも思う、すると突然帰ってくる
長い時は5日くらい滞在することがあるが、1日でいなくなることが多い
もう5~6年の付き合いになるが鳴き声は2回しか聞いたことが無い、低い声で一声鳴いただけだ
玄関先で長くなって寝たり、毛づくろいしたりしてすかっかり安心しているかと思えば、突然警戒心を表すこともある
少しも痩せていないし、みすぼらしさもない・・不思議な猫だ
どこで暮らして、何を食べているのか全く謎だ。
そもそも我が家へ30~50日に一回やってくる意味もわからない?
すっかり冬毛になって、丸々と太って見える、夏の2倍には見える
家猫にはない現象だ
野生の中にいるとクマやキツネなんかと同じで、毛を増やしたり減らしたりして体温を調節する、まさに野生ネコだ。
しばらくして、どこかへ行った。 明日も来るか? また長旅に出るのかわからない。

 北国では滅多にない冬の快晴、今日一日を無駄にしないよう、散歩やら家の周りの掃除やらをやろうと思う。