goo blog サービス終了のお知らせ 

 神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 105 誇り高き島津との講和

2022年12月26日 17時49分42秒 | 貧乏太閤記
 秀吉もいよいよ本気になって島津攻めをする気になって、37か国の諸将を大坂に集めて軍議を開き、年明けの2月に本格的に九州攻めを開始することを決めた。
派遣する兵数は20万とも25万ともいわれ、そのための兵糧や弾薬の準備だけでも3か月はかかるのであった、これを石田三成ら三奉行と、輸送を商人上がりの小西弥九郎らに任せた、1000艘より更に多い軍船や輸送船が大坂湾から瀬戸内に溢れかえった、そして尼崎の湊を主に、堺を副にして続々と兵員や物資を筑前に向けて発進した。

 侵攻作戦では軍勢を2つに分けて薩摩を目指すことにした。
肥前、筑後、肥後方面は秀吉が率いる。豊前から日向方面は豊臣秀長が率いることになった。
そして、この噂が流れると、それだけで筑前、豊後の島津方の小領主は降伏した
いよいよ秀吉、秀長が九州に入ると、その威光だけで豊後から日向、肥前から筑後、肥後の地方領主の多くが戦わず降参する者が次々と現れた
秀吉はそれらの多くを許し、先陣に加えたので、軍勢はますますふくれあがった。

 九州はすべての国を併せて200万石、島津固有の領土である薩摩、大隅は50万石ほどで、早くに占領した日向、肥後南部を併せても70万石ほどであった
これは初期の尾張一国ほどでしかない。
兵数に換算しても最大2万人しか雇えない、なのに薩摩、大隅、日向で薩摩は4万の兵を養い、高価な鉄砲は万挺も準備されている、これはなぜか
薩摩はもともと米作りにはあまり適しているとは言えない土地である、ところがここは上方からルソン、琉球、マカオへの往復の中継地点として本土列島の最終で最初の大きな港湾都市なのだ、アジア地図を見ればよくわかる
朝鮮や明国に渡るには博多や下関が良いが、南下するには鹿児島が最適だ
種子島、屋久島、琉球列島を下り、高山国(台湾)、ルソン(フィリピン)、マカオ、インドと島伝いに行けるのだ。
薩摩が貿易での莫大な利益、そして商人から得る税、それは米の収穫などより遥かに大きかったに違いない、それが薩摩の強力な軍事力を支えていたのだろう。
 大友が九州最大の勢力を誇っていた時は100万石を超えていて、島津の日向(宮崎)を狙って大軍で攻め寄せた。
天正6年(1578)勢いのままに4万の大友軍は日向を南下して、薩摩の堅城、高城を包囲した、守備兵は僅か500だが、城は要塞堅固の山城で兵数より多い鉄砲で武装しており、独特な地形とそれを利用した空堀で大友軍は近寄ることができなかった
高城からの知らせを聞いた島津は、島津義久が大将となって3万の兵を率いて耳川までやって来た。
そして大友軍の主力を挑発して自陣に誘い込み、得意の鉄砲で完膚なきまでに大友軍を叩きのめした、大友の名のある武士が相次いで討ち死にして完敗で逃げ帰った。
それ以後、攻守は反対になり島津が豊前目指して攻めあがったのだ。
また天正12年には味方である肥前の有馬が、北九州最強の竜造寺の4万の大軍に攻められた時も、島津家久が5000を引き連れて救援に向かい対峙した
数的に圧倒する竜造寺の本隊を、巧みに沖田畷の沼地に誘い込んで、またしても1000挺にも及ぶ鉄砲隊がこれを三方から乱射した
そのため、勇猛なる大将、竜造寺隆信は戦死、首を取られ、竜造寺は敗走した、まさに九州の桶狭間と言って良いほどの島津の戦法であった。

 九州の大名には、この大友、竜造寺という島津以上の戦力を擁する大名がいたにも関わらず、島津に敗れたのは装備の差と、総大将を中心に三人の個性的な弟、それに忠実な薩摩武士団の結束であった。
薩摩は国内では唯一閉鎖的な地域社会と特別な文化を持っている
日本の中では閉鎖的でありながら、海外に対しては日本では長崎、博多、堺と同じほど開放的な貿易を行っていた
1543年に目と鼻の先の種子島に南蛮船が漂流して、そこで鉄砲が伝えられたが、種子島の領主は小大名ゆえ、これを持て余し主家の島津家に、処置を任せた
それ以後、島津は信長などよりも早くから鉄砲の部隊化を進めて、南蛮人に教わって製造も開始した、また火薬、弾薬も比較的簡単に手に入る環境であったため九州でも抜群の鉄砲王国となった
島津は他国が「卑怯な武器、下賤の武器」として消極的だったのに対して、戦術の一つとして職業軍人である武士階級の鉄砲隊を編成した
足軽鉄砲隊に比べて、使命感、命を惜しまぬ勇気は10倍も違ったであろう、また薩摩人の性格は独特で、上意下達は絶対であり、言い訳などという言葉は知らなかったのではないだろうか、それが島津の強さであった。
秀吉亡き後、1600年には関ケ原の戦で島津が属した西軍(豊臣家臣石田方)は敗れ、7万の敵の中に取り残された島津隊1500は、石田三成など敗者が全て後方に逃げたのに対し、大将の島津義弘を押し包み、先陣には副将の島津豊久、殿軍には重臣の長寿院盛淳が兵を率いて、正面の徳川軍に向かって一斉に突き進んだ
そして徳川方の先陣、福島正則隊など外様諸隊を圧倒して潜り抜けると、今度は徳川旗本部隊が現れた、そこで大きく右に進路を変えて、伊勢方面に向かって逃走を開始した、薩摩までは250里(1000km)はあるだろうに

 家康の息子、松平忠吉、その舅、井伊直政隊が追撃する、島津隊は10人20人と馬を下りて、迫ってくる敵を待ち受け鉄砲を撃ちかけると、そのまま敵の中へ切り込んで差し違える、そんなことを何十回も繰り返し
いよいよとなると、長寿院、島津豊久が相次いで島津義弘の身代わりとなって時間を稼いだ末、討ち死にを遂げた
おかげで島津義弘と生き残った100にも満たぬ家臣は堺に落ち延び、そこから島津出入りの商人に匿われて、彼の船で無事薩摩に戻ったのである
このように、島津の侍鉄砲隊の活躍が島津を九州の覇者にしたのは間違いない
関ケ原でも、この戦法で追いすがる井伊直政、松平忠吉に鉄砲傷を負わせ、それが原因で二人とも後日死亡している。

 こんな素晴らしい戦術と不屈の魂をもった誇り高き島津であったが、やはり20万の秀吉軍と、島津から寝返った九州の諸将数万相手には勝利は無理と悟った。
そして総大将の島津義久は頭を丸めて入道となり、豊臣秀吉に会見した
秀吉もさりとての者、義久を一目見るなり、その強さを見抜いた
柴田勝家などの強さとは違うカリスマ的オーラを感じたのだ
(この男が畿内辺りに出現していたら、信長様と互角の戦を展開したに違いない、武田信玄に匹敵する器だ)そう思った
あの命知らずの薩摩武士から尊敬され慕われていて家臣団を完全掌握、勇猛な三人の弟からも信頼されているという島津義久、(これは扱いをあやまってはならぬぞ)
すでに死を覚悟してきても堂々と秀吉と対面している義久を見ていると、友情すら感じてくる
「降伏条件を申し渡そう、島津には薩摩、大隅を残して他は返上すること
日向の一部は島津家家臣に与える、島津家と家老たちは相当の人質を大坂に送ること、これに不服なければ、これにて和議を成立させる」
島津の領地は70万石残ったのである
もちろん敗者の島津義久に異存があるわけはなかった、思ったより寛大な処分に秀吉の人柄の大きさを見て、義久もまた秀吉のファンになった。
こうして秀吉の九州統一も、島津がわりと早く降参したため大した大戦もなく短期間で終わった



生きている目的

2022年12月26日 08時23分58秒 | ライフスタイル
1月1日に仕事を辞めて、この一年は特別な一年だった
単に定年退職したわけではなく、事情があっての退職、では事情が無ければ続けたのか?
たぶん続けていただろうが、年齢と限界を思っていたことも事実だ
辞めて良かったか?と思い直せば 答えは半々だ
良いこともあれば、悪いこともある
それをどう思うかは、自分が自分の心に問うしかない
また次の一年が始まる
12月31日いっぱいまで、精一杯仕事をして、1月1日から人生をかえたことには満足している まさに「ちょうどよい切れだ」
失った者の方が多いが、これからは得ることの方が多くなるだろう
社会への貢献度ががったりと減った、時々「今日を生きるための人生なのか」と思うとむなしくなることがある
「もう死んでもいいや」と投げやりになることもある
だが私にはもう20年守らなくてはならないものがある、それを生きがいに
生きていこう。


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 104 九州の雄、島津の力

2022年12月25日 17時54分41秒 | 貧乏太閤記
 大地震で始まった天正13年であったが、この年の12月に秀吉の後継ぎと目されていた(於次)秀勝、丹波少将豊臣秀勝が危篤に陥り、14年が明けて間もなく死んでしまった。
織田信長の四男、秀吉とねねに子がないことを気の毒に思った信長からの最大の褒美であった秀勝だった。
21歳、まだこれからが楽しみな武将であった
これで秀吉の子、二人の信勝が死んだ、最初は実子の信勝、ふじとの間にできた子であった、そして今度の養子の信勝、秀吉はまたしても打ちのめされた
そして秀吉は思った、(子がなくば何のための天下取りであるか)
そうは思って見たが、すぐに気づいた(違う、儂が天下平定を願うのは信長様の意思を継ぐためであった)
そして翌日、姉の三好吉房夫婦を大坂城に呼び寄せた
「小吉を儂の子にくれ」と言うと吉房は
「願ってもなき光栄でございます」と喜んで差し出すと言った
小吉は三好秀次の弟である、秀吉に仕え武士として取り立てられ、それなりの地位を与えられている、兄はすでに近江権中納言という武家では秀吉、家康、秀長に次ぐ4番目に高い身分になっている
父の吉房も秀次の家老として仕えているのだ
そもそも、この三好吉房も、昔は姓の無い弥平という百姓だったのだ、秀吉の姉「とも」と尾張で一緒になったばかりに百姓から豊臣秀次の家老にまで上り詰めた破格のラッキーボーイと言える
こうして秀吉は甥の小吉を養子として、またしても秀勝を名乗らせたが便宜上、小吉秀勝と書くことがある。
そして秀吉は考えた(儂は信長様の意志を受け継ぐからには、信長様ともっと深く結びつかねばならぬ、せっかくのつながりであった(於次)秀勝が死んでしまい縁は切れたようだが、儂の手元には信長様の姪が三人もいる、わしが佐治から取り上げた江姫を秀勝に娶わせよう、そうすれば市様の娘と、儂の甥が夫婦になり、できた子は豊臣と織田の血を引くことになる)
こうして、秀吉は矢継ぎ早に手を打って(於次)秀勝の49日法要が済んで数か月後には、豊臣(小吉)秀勝と江姫の婚礼を執り行ったのである。

 秀吉が寵愛する側室たちの中でも、京極高次の姉の京極殿(竜子)が一番のお気に入りであった、他の側室よりも年長で今年27~28歳になる
かっては若狭守護家であった武田家の御曹司武田元明に嫁ぎ、3人の子を成した、しかし本能寺の変で進退を誤り、明智に味方したため滅ぼされた
その時、竜子は柴田勝家の北の庄に逃れていたのだが勝家が秀吉に攻め滅ぼされたとき、秀吉軍に捕えられて秀吉に出会ったことは以前ここに書いた。
そんなわけで、竜子の、子を産んだ女ならではの落ち着きぶりと、女の盛りともいえる色香と美貌に秀吉は満足していた、また秀吉の前ではそんな竜子だが大政所(秀吉の母)や政所(ねね)の前に行くと大人しく献身的であったから愛妾ながら二人からも愛された
名家の(京極家)子女でありながら奢らず威張らず、その姿は美しく誰にでも愛される人柄だったから、秀吉は公家らとの軽い交際の場には京極竜子を伴っていくことが多かった、公家社会にも通用する常識と教養を持つ女性だった。
 
前置きが長くなったが、この竜子は弟の京極高次の将来を常に心配していた、本能寺の変でも武田元明について秀吉の長浜城を攻めたために秀吉に首を切られそうになったのを姉のおかげで助かっている、そんな頼りない高次の「後ろ盾になっていただきたい」と竜子は秀吉に寝物語で何度も願っていた、
そんなある夜、竜子の肩を抱きながら耳元で秀吉が言った
「儂は決めたぞ」「何をですか?」
「高次のことじゃ」「はい」
「高次に、浅井の中の姫、初姫を娶らせよう」
「なんと申しました? 初姫と!」
「そうじゃ。不服があるか」
「とんでもありませぬ、高次と初姫様とは従兄妹同士、小谷城でも北の庄でも共に過ごしてきて知り尽くしておりますし、仲も良かったのでございますよ
真に似合いかと思います、歳も10歳違いかと思います」
「そうか、そなたさえ喜ぶなら、この話は決まりじゃ、来年の婚儀のための準備をいたすがよい、そうだ祝儀に加増も致さねばなるまい」
「ありがとうございます、嬉しい」竜子は秀吉の背中を思い切り抱きしめた
49歳になる秀吉は、小柄だが筋肉質の肩から背であった。

 秀吉が日本の中心で戦を続けている間に、九州は島津4兄弟が猛威を振るっていた
ライバルだった肥前の強敵、竜造寺隆信を天正12年迎撃戦で討ち取り、一気に北九州に攻めあがった
かっては九州の40%も領土とした大友も僅か10%程度まで減らされ、しかも90%は島津領となった
風前の灯となった大友宗麟は秀吉に泣きついてきた、だが束の間の平和のうちにやるべきことが山積みになっていた秀吉は宗麟にこたえることが出来なかった。
そこで島津に勧告状を送った、「占領地のうち、筑前、筑後(福岡)、肥前(佐賀、長崎)、肥後(熊本)、豊前半分(大分)を返還せよ」
これでは攻め取った領地で残るのは豊前の南半分だけになってしまう、当然島津は秀吉の国分け案を無視した。
当然、そうなるだろうと予測していた秀吉は時間稼ぎに、9月、四国の長曾我部と十河(そごう)、讃岐を賜った仙石久秀を軍監にして兵6000を九州豊後に送った、「島津が来たら籠城せよ、毛利が救援に来る」と言い置いた
これらの兵は大友軍が籠る豊後の府内城に集結して、北上してくる島津家久の軍に備えた。
10月には毛利軍が2万を率いて筑前に上陸した、軍監は黒田官兵衛
筑前の島津方の城の掃討を始めた、これで孤立しながらも少数で城を守り抜いた立花宗茂の立花城は開放された。
立花城を攻めていた島津義弘軍の先遣隊1万は、方向を転換して豊後府中城に向かった、これを聞いた仙谷は慌てて、「敵が来る前に目の前の島津家久軍を破ってしまおう」と言って、兵を戸次川まで進めた。秀吉の命に背いたのだ
それに伴い島津軍は後退を開始した、勢いに乗った仙石は「川を渡って敵を追撃殲滅するぞ」と命じた
しかし長曾我部は「島津が下がるのは作戦ゆえ、深追いは避けるべき、川のこちらにいる方が賢明である」と止めた
しかし仙谷は聞かず、十河隊と共に3000で川を渡った、そしてさらに進軍すると突然街道の左右から鉄砲が撃ち込まれた、これこそ長曾我部や大友宗麟が恐れていた、島津の得意の鉄砲の作戦であった。
たちまち仙石隊は総崩れになって戸次川に逃げ出した、それを見ていた長曾我部信親が率いる2000は川に入って、逃げてくる隊士を収容しながら、追いかけてくる島津軍と戦闘になった、少数に見せていたが実際は1万の島津軍であった
それがまたしても鉄砲隊を先に進めて、川の中の長曾我部隊に撃ちかけて来た
幾十名の長曾我部兵が川に倒れた、すると一斉に島津軍先鋒5000は長槍と騎馬で川の中に攻め寄せて来た
長曾我部隊は奮戦したが多勢に無勢、次々と討ちとられ、ついには大将の信親も首を取られた、これを見た父、元親は残る1000を率いて戸次川に向かおうとしたが家臣がこれを止めて、無理やり後退させ、海岸に出ると船に乗せて伊予へと逃げ出した。
十河も撤退中に追いつかれて首を取られた、恐るべき島津の戦闘力であった。 大友宗麟も毛利に合流すべく豊前の領地を目指して逃げたので、府中城は島津の手に落ちた。
こうして豊臣、大友の防衛ラインは筑前と豊後のみとなり、これを秀吉に報告した。




クリスマスケーキ

2022年12月25日 07時20分13秒 | ライフスタイル
日本各地で「ホワイトクリスマス」になった24日
わが町は雪がなく単なる「クリスマスイブ」。 欧米では国によって基準が違うが「雪が10cm以上積もっていること」とか「当日、雪が降っていること」が「ホワイトクリスマス」の定義なんだとラジオで言っていた。

今年は諸物価のきなみ上がって、15cmの最小ケーキでさえ4000円もする
我が家は次男坊が22日に帰って来たので、その日をクリスマスにした
次男坊は一人で半分以上食べるほどケーキ大好きなので、さすがに買うのはやめて自作ケーキにした。
15cmサイズで1000円の材料費で完成したが、そのうちの600円がイチゴだった
味はもちろんお店のものに負けないほどおいしかった。
 来年は、もっと気合を入れて生寿司、チキン照り焼きなども自作で作ろうと思う。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 103 浅井の三姉妹

2022年12月24日 16時50分14秒 | 貧乏太閤記
 家康が大坂城に秀吉を表敬訪問したのは、その年の初夏であった
秀吉の臣下となった諸大名、秀吉が育てた大名、与力など100名近い諸侯が居並ぶ中を、徳川家康は粛々と正座の高みに座る秀吉の方に歩いて行った
そして3間ほど手前で座ると平伏した
「おお、三河大納言殿、よお来てくだされた、そのようなところにおらずに儂の隣にきて座るがよろしい」
秀吉は満面の笑顔で家康に語り掛けた
「滅相もありませぬ、某はここにて十分でございます」家康が言うと
「皆の者、大納言殿は儂の義弟である、かってのお屋形様と三河殿の関係と同じく、儂と大納言殿もまた力を合わせて、この国の平定に努めるものである
皆も豊臣の戦では、大納言殿を儂の代理と思い従うべし、三河殿は天下の副将軍である」
「なんともったいないお言葉でありましょうか、そこまで申されるならば、この家康は今後、関白殿下には戦場の先頭には立たせませぬ、殿下の陣羽織を賜り、某が戦場の先頭に立って全軍を率いて殿への奉仕をいたしましょうぞ」
「よくぞ申した、大納言殿、頼もしく思うぞ」秀吉は改めて一座を見回しながら
「皆の者、聞いたか、三河大納言こそ、わが実弟中納言秀長ともども儂の兄弟であり、左右の大将である、この二人を儂同様に思い、忠勤にはげむように申し渡す」
秀吉は、いまここでついに徳川家康を臣下とした、そしてこのことがすべての大名に、秀吉が信長に代わる天下人であることを認識させたのである

 さて柴田勝家が北の庄で滅び、秀吉が預かった三姉妹は今、どうしているのだろう
あのあと、織田信雄や長益、信包らが面倒を見ていたが、この年、天正13年(1585)には長女茶々は16、二女江は15、末女江は12歳になっている。
この年は、毛利との講和、根来雑賀攻め、四国の長曾我部討伐と夏まで戦が続き、ようやく一息ついた
柴田勝家を滅ぼしてから2年、あのとき救い出した浅井三姉妹のこともすっかり忘れていた秀吉であった、それが市を思い出した途端に蘇った
「浅井の姫たちはどうしておる?」
石田佐吉が命じて、そのあたりを調べさせると一番若い江姫はすでに2年前、10歳で、織田信雄の家臣で織田一族の佐治一成との婚約がなっており、この秋に祝言を上げるとのことであった
それを聞いた秀吉は面白くなかった、小牧長久手で秀吉に戦いを挑んだ信雄とは和議となったが、いまだに関係がしっくりしていない
しかも佐治は信雄が得意とする水軍の将であり、小牧の戦でも徳川軍が三河から伊勢方面に物資を運ぶのに大いに貢献している
「ならぬ、信雄に遣いを出し、佐治と江姫(ごうひめ)との婚約を解消させて江姫をわしの元に連れてまいれ、理由は幼すぎる故、わしが傍に置き、後日しかるべき身分の士に嫁がせるとせよ、信雄につべこべ言わせるな、つべこべ申したら、『もう一戦、馳走しようか』と申せ」
三成は、直ちに家臣に申し付け、遣いを出した
「あとは・・・初姫と茶々姫であったのう、大坂城に3人一緒に住まわせることにしよう、自分の戦を5年も続けておると、頭は戦一色になる、世俗のことなど忘れてしまうわ、あの子らにもはや3年もあっておらぬ、成長したであろう」

 大坂城は今までこの国にはなかった巨大な城である、大坂の町を西洋式の広大な城郭都市にする計画である
淀川、木津川などを自然の堀としたうえで、さらに人工的な外堀総構え、内堀を幾重にも巡らせて、石垣は高く、堀は深く、いったい幾つあるのかわからぬ小郭(くるわ)、大郭が立ち並ぶ、その間を100間はあろうか長い土塀が結ぶ
天守閣はまだ工事はこれからで、ようやく堀と石垣の土台造りが始まったばかりである
今は外堀、外曲輪が大部分完成し、本丸周辺の各御殿が先にできて、秀吉は、奥のねねや、母のなかを長浜から大坂城に連れてきて住まわしている
既に警固の武士や、世話をする女中衆、小者まで多くが城中に住んでいる
また、これまで秀吉が側室とした京極高次の姉、前田利家の娘、蒲生氏郷の妹など数名の側室も本丸御殿の中のそれぞれを与えられて暮らしている。
この中には、初めて秀吉の子を産んだ「ふじ」はいない
彼女は、京で秀吉から与えられた一軒家に母の初女と今もひっそり暮らしている、身の回りの世話をする者も与えられ、生涯食うに困らぬ金銀も秀吉から与えられて裕福に暮らしている
成り行きでふじの養父松下嘉兵衛にも、最初に与えた2000石から、今は秀吉が1万石を与えて城持ちの大名に昇格させている
嘉兵衛も京、大坂に来るたびに初女とふじが住む、この家に立ち寄っては茶飲み話をしていくそうだ。

 そして、ついに大坂城で秀吉と浅井三姉妹が対面した
茶々は16、初は15、江は12才である、この時代では誰が結婚してもおかしくない年頃である、特に茶々、初はまさに適齢期と言って良い
茶々などは1~2年たてば、もう適齢期から外れると言っても過言ではない齢になっている、なにしろ人生50年の時代なのだから
秀吉は何げない顔で3人を見回した
「江姫よ、此度は佐治がこと申し訳なく思うが、奴は海賊の家柄ゆえ織田様のお血筋には合わぬと思ううて断らせてもろうたのじゃ
姫にはもっと相応しい家柄の者を、儂が責任をもってめあわせるゆえ、しばらくお待ちくだされ、まだ齢もお若いからのう、心配はない」
茶々は長女らしく、落ち着いていてじっと秀吉を見ている、秀吉が少したじろぐほど眼の光が鋭い
二女の初は、おっとりした感じで一番優しい顔だちをしている
三女の江は、まだ幼さが残るが、芯の強さを秘めていると見た
信雄が三姉妹の中で一番幼い江を嫁に出そうとした気持ちが、少しわかったような気がした。
「どうじゃ、まだ完成してはおらぬが、この城と北の庄の城と比べてどうじゃ」と秀吉が聞くと、茶々が答えた
「見たこともないほどのお城でござります、殿下には僭越ながら北の庄のお城のことは二度とお口には出していただきたくはございません、消え去ったものは戻りませぬゆえ」
「ほほう、茶々様は、なかなかはっきりした姫でござるのう、さすがは信長様の姪であらせられます、おおそうだ、信長様も消え去られたお方、口に出してはまずかったかのう」
「それは違いまする、伯父は天下を手中に収めかけた英雄でございます、私は強いお方が好きでございます、柴田の義父も、北の庄の城も弱い、弱い者が私は嫌いです、私自身も強くなりたい、もう負けるのはさんざんです」
「おお、なんと心の強い姫じゃ、秀吉感服いたし、安心しましたぞ、姫は強い、心配はいらぬ、これからは儂が親代わりとなるゆえ大船に乗ったつもりでいてくだされ」
秀吉は心のなかで(美しさでは初だが、茶々の上を目指す心意気には何か感ずるものがある、これは案外大化けするかもしれぬ、江はまだ幼くわからないが、この子が一番、信長様に似ている気がする)



北信越の雪

2022年12月24日 08時29分51秒 | 季節と自然/花
 福島県の親戚から電話が来て「そちらは大雪で大変だそうですが、大丈夫ですか」と心配してくれた。
テレビでは県単位で「多い、少ない」とやっているから、山間部も海岸部も一色たで知らない土地の人は思ってしまいます。
新潟、長野、富山、石川では積雪状態は違っているし、その県内でも地域でかなり違っている
今朝はわが町では突風が吹き、雪下ろしの雷が不気味な音を30分ほどたてていた、ときおりバラバラとみぞれが窓を叩きつけていたが
7時過ぎると穏やかになった、外を見たがまだ地表が出ていて、積雪は2cmほどだ、でも一日不安定なようだ
風が20mとかで一時的にかなり強く吹きそう、波も7~8mと高い
新潟県は4ブロックで、下越は山形県寄りで新潟市から北、新発田市などここの海岸部は40cm~50cmだそうだ
中越は群馬県に近く、長岡市を中心に小千谷、湯沢、そして柏崎は中越、上越の境界にある
ここが一番積雪が多く、先週の大渋滞もここで起きた、40~1mほどありそう
上越は上越市中心で妙高市、糸魚川市の富山県寄り地域、新潟県ではこの地域が少なく5~15cm程度だ
あと佐渡島がある、ここは海の真ん中にあるので風が強く意外と積もらない、今年は少しだけ多いが停電の被害の方が多いらしい。

富山県は東と西の2ブロックに分ける、富山市から西が西ブロック、石川県寄り、高岡市、小矢部市、氷見市など、ここは積雪が40cmほどと多い
東は新潟県寄りで魚津市、黒部市などだが新潟の上越同様積雪は10~20cm程度と少ない

石川県は能登地方と加賀地方に別れる、強風と波浪をもろに受ける能登は佐渡と同様に日本海にせり出しているから、意外に積雪が少ない地域である、今も10~15cm程度らしい
一方内陸の加賀地方は金沢市、小松市などの地方都市の地域、海岸部もある
ここは富山県西部同様に50cmほどの積雪で交通などに影響があるようだ

長野県は北信、南信、中信に別れ、プラス東信といったところか
北信は新潟、富山に接して豪雪地帯だ、大町市以北の白馬村や栄村、信濃町などで積雪はあるが20~30cmほどとこの地域では大雪とは言えない
南信、中信、東信は毎年雪がないか10cm以下のことが多い、今もそんな状態のようだ、大町市は北と中の境界で今は10~20cmほどあるようだ。

ここ数日は四国、名古屋、東京でも雪が降った(降っている)
高知、徳島などは新記録だそうだ、われわれ雪国から見るとまさに「たいへんだなあ」と思うが、ふつうは降らない地域なので楽しんでいる人もいるようだ
だんだん天候や災害が過去のデーターではわからないような形態になって来た
地球全体の自然環境バランスが壊れかけている





空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 102 秀吉と家康の駆け引き

2022年12月23日 17時13分33秒 | 貧乏太閤記
 まずは信長の弟分であった隣国の徳川家康を臣従させることが先決である
金ケ崎の退き陣では、互いに助け合った仲であった、毛利のように素直に従ってほしいのだが、三河の家臣団は頑固な荒武者ぞろいで、西国の毛利とは家風が全く違う、「ぜひ一度、三河大納言には京に出向いていただき儂と今後を話し合いたい」と誘うが一向に返事が来ない
「大納言」という最上官位を推薦して与えてやったのに、素っ気ない謝辞一枚送ってよこしただけで、その意図さえわかろうとしない家康に腹を立てた
「これは、もはや戦で片を付けるしかあるまい」と秀吉は堪忍袋の緒が切れた
そして得意の調略を用いた、徳川家の軍団は二つに分かれている
一つは酒井忠次の東三河軍団、一つは石川数正の西三河軍団である
こともあろうに石川数正が家康の代理で秀吉に会った時、10万石を餌に一本釣りされてしまったのである。
徳川最高機密の軍法が秀吉の知るところとなった、国家存亡の一大事である
今、急に軍政や戦法を替えることは不可能である、秀吉に今、攻め込まれたなら最大のピンチとなる
秀吉も当然それはわかっているから「3か月後に徳川攻めをする、みな今から準備をいたせ」と言って、重臣を集め軍議を開いた
最前線を尾張とし先陣の軍を集め、後方の岐阜、大垣を兵站基地とする
主力は安土、坂本、日野、長浜に集結させ、先手は5万、本隊は7万で三河に侵攻する
また木曾口より信濃に向けて別動隊5万を進めて遠江から下らせて、敵を分断する、上杉には川中島より深志(松本平)方面を牽制させる
また真田には上州の北条を牽制させるとした
準備は着々と進んだ、豊臣軍の総勢は20万にも達する大掛かりものであった
一方の徳川は5か国の兵を集めても4万、北条に援軍を頼めば3万は来てくれるかもしれない、しかし軍法が知られたのはまずい
徳川家康は主なる軍団長を集めて、幾日も新戦略を徹夜で練った

 三河侵攻まであと1か月に迫った天正13年1月、大地が激しく揺れた
震度8ともいわれる大地震が若狭、越前、越中、飛騨、美濃、近江、尾張の広い範囲を揺らした
震源に近い飛騨の帰雲城などは城下町ともども崩れた山に埋まってしまったという。
近江に出てきて采配を振るっていた秀吉さえ、腰を抜かさんばかりに慌てた
坂本城など琵琶湖畔の城の多くが全壊、半壊の被害に遭い、美濃でも兵站基地の大垣城が全壊して貯えた兵糧や弾薬が埋まった
徳川攻めのあらゆる準備が半分近く灰燼に帰したのだ、秀吉も徳川攻めを無期限延期とするしかなかった
徳川家康は思った、「天に背くものは罰される、儂には天が味方してくれる」と、そしてますます国土防衛に力を注いだ。
秀吉にとっては、この地震は大きな痛手であったが、立ち直りも早い
3月にはすべての兵制をもとに戻し、いつでも戦ができる準備を整えた

 秀吉は行方不明になっている佐々成政が、かって越中で前田利家と交戦中に家康を頼り8000尺(2400m)の針ノ木峠を初冬に越えたと聞いて改めて成政の胆力に敬服した、そして噂を頼りに探させたところ、尾張で浪人していたのを見つけて連れてこさせた
「成政殿、今までのことは互いに水に流そうではないか、もはや争う理由もないはずじゃ」
「そっちにないかもしれぬが、こっちにはある」
「まあ、まあ、そうかたくなにならず、儂の話を聞いてくれ」
「・・・・」
「お屋形様が、儂に話してくれたものだ、『この狭い国の中で日本人と言う同朋が殺し合っている時代は終わらせねばならぬ、尾張だ三河だなどと小さい小さい、これからは南蛮人相手に交易するか、戦をするかわからぬが大海に乗りださねばならぬのだ、これからは南蛮人との競争になる、奴らはすでに南国のほとんどを植民地として、その国民を奴隷にしてただ働きさせているという、そうして世界の富を奪っているのだ、スペインとポルトガルは世界を半分けする協定を結んだというぞ、もはや日本と明、朝鮮だけが自国を経営しているだけだそうだ、うかうかしていたら我が国も南蛮人の植民地になってしまうだろう、奴らは次の狙いを明国に定め、我らにも協力するように言ってきておるのじゃぞ、手を貸して明を征服なれば、次は朝鮮、そして我が国を襲ってくるのは明白じゃ、日本の大名はみな手を組み、帝の元で南蛮人と争わなくてはならぬのじゃ、そのためにも頭の固い者どもを滅ぼし、儂に賛同する大名でこの国をまとめねばならぬのだ』そう言われたものよ、どうだ成政殿、儂に力を貸してくれ、こういうのもなんだが、儂が中心になってこそこの国はまとまる、もう、尾張大納言(織田信雄)ではまとまらぬ、織田一族には貴族となっていただき我らが、お公家様同様に敬えばよいではないか、その方が大納言さまも気が楽であろう、わしは三河殿とも力を併せたいと思うておるが、なかなか頑固な御仁で困っておるのじゃよ、どうか力を貸してくれ、三河殿を口説いて儂と強力するよう頼む」
「お屋形様がのう・・・そのように申されたのか、知らなんだ、わしは10年も15年も雪深い越中で越後の上杉とだけ睨み合って居ったから、お屋形様と話すこともなかった、お主が羨ましい、儂は今になってようやく目が覚めた、これからは関白様に従おう、使ってくだされ」
「おお、ありがたや、織田家の猛将がお味方くだされば鬼に金棒じゃ、三河殿の件が落ち着くまでは儂の旗本として傍で仕えていただこう、とりあえずは近江の内で2万石で辛抱していただこう」

 秀吉のこの一年、天正13年から14年の夏までは、徳川家康を懐柔するためにほとんど消費されたと言って良い
一時は短気を起こして、徳川を討つと言ったが、敵は柴田や毛利などより遥かに手強い、それに背後の北条と同盟しているから、これは天下分け目の対戦になるのは明らかであった。
そうなればいずれが勝っても、その損害は多大となり、島津、毛利、北条、上杉、伊達らがここぞと攻めかけてくるに違いない
それより、豊臣、徳川が協力して一日も早く、この国を平定する道を選んだのである・・・が、家康は頑固者だ。
 
 秀吉は奇策に出た、家康が正室が居ないことに目をつけて朝廷に働きかけ
太政大臣近衛前久の取り持ちにより、秀吉の妹の朝日を離縁させた上で、家康の正室として徳川家に強引に嫁がせたのであった。
家康にしてみれば大迷惑な話であった。仕方なく娶ったが
「人質だと思って受け取っておけばよいわ」くらいに思い、浜松城内に御殿を建ててそこに従者と共に住まわせた。
半年ほど放っておいたが、朝日は何も言わず朝日御殿で暮らしている
家康とて苦労人である、たまにご機嫌伺いに御殿を訪れたが、朝日の天真爛漫な姿になんだか惹かれるものがあった
そして、ある時なぜだかわからないが、家康は朝日に添い寝したい衝動に襲われた、(まさか)と思いつつも一つの布団で寝物語をすると、今までこらえていた朝日の我慢が一気に解き放たれて、家康の胸に顔をうずめて、兄秀吉の惨い仕打ちを訴えて泣くのであった。
家康も、これを聞くうちに自分の幼い頃、人質の苦労を思い出して、急に朝日が愛おしく思われた
「心配はいらぬ、儂は決心した、秀吉殿に面会しよう、そしてそなたをまた大坂に帰られるように秀吉殿に頼んでみよう」
すると朝日は「もはや上方には私が住む場所はありませぬ、前の夫も無理やり離縁されて武士を捨てて、どこぞに行ってしまったとか聞いております、殿様のお邪魔は決していたしません、飼い殺しでも良いので、ここにおいてください」と涙ながらに言ったので、家康もほだされて
「わかった、わかった、粗末にはせぬ、いつまでもここにいるがよい」と肩を抱いた。







空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 101 関白豊臣秀吉誕生

2022年12月22日 17時15分45秒 | 貧乏太閤記
 羽柴秀長、三好秀次を再び左右の大将にして淡路に上陸させ、淡路国主仙石久秀(せんごく)と合流して、いよいよ四国阿波に上陸した。
兵は阿波と讃岐に二手に分かれて、主力は5万で阿波を攻め、仙石らは備前から渡海してきた宇喜多軍1万と讃岐を攻めた
また安芸、備後(広島.岡山)からも毛利の小早川、吉川が大軍で伊予に攻め込んだ
長曾我部には「一領具足」という軍事組織がある、それは槍と鎧兜を常に持ち歩いて農業を行い、いざ戦となると田畑で戦支度を整えて、寄り親(小隊長)のもとに迅速に集まるシステムである
このスピード感と組織力で四国を平定したのだが、初めて見る上方の兵に長曾我部の家来たちは驚いた、足軽に至るまで羽柴勢はピカピカの鎧兜に槍、刀である、騎馬武者ともなるといっそうあでやかで旅役者のようである
一方羽柴方も長曾我部軍の軍装を見て驚いた
「なんじゃ、これでは大坂の乞食の方がマシではないか」それほど経済力の差が上方と四国では違っていたのだった
それは、そのまま戦にも影響して、ほどなく長曾我部は降参して四国は平定された、戦後大坂に連れてこられた長曾我部元親は、初めて羽柴秀吉に会った
「どうじゃ、恐れ入ったか」と得意顔の秀吉に、元親は悪びれもせず
「戦は時の運と言うが、儂は生まれた時代を誤ったようじゃ、羽柴殿と時代が違っていたなら天下を取れたものを、無念である」と堂々と言った
秀吉は怒りもせず「さすがは四国を勝ち取っただけの勇士である、会って見て愚か者であれば一族皆打ち首にしようと思ったが、あっぱれな大将ぶりじゃ、土佐の片田舎から四国全土を奪ったのもそれだけの力を持つからじゃ
土佐一国は安堵しよう、そして儂に与力せよ、毛利、上杉と同等に遇するであろう」
切腹は免れまいと覚悟してきた元親は驚き、「そのように申されるとは思いもよらぬこと、太っ腹の大将とお見受けいたしました、こちらから臣下にしていただくようお願い申し上げます」と言うと、秀吉も満足げに
「長曾我部殿、そなたが申す通り時代が悪かったのう、これからは儂と共に残る敵をたいらげようぞ」と返した
元親は初めて出会った秀吉に、完全に参ってしまった、そして心から秀吉に心服したのであった。
秀吉は家臣に与える一部を除き、伊予を約束通り毛利に与えた。

 7月早々、大坂に戻った秀吉は御所に参って莫大な黄金やら絹織物などを帝や大臣、公家、女官に至るまで贈った
また惜しみもなく財を費やして、御所の修理を行い、新たな御所も増築した、更に朝廷が窮乏して長い間中止していた儀式儀礼を秀吉が復活させたので後陽成天皇(ごようぜい)は大いに喜び、なんとしても羽柴秀吉に報わねばならぬと、大臣らに申し付けた
すると「何といっても武家には官位を授けるのが一番のご褒美でおじゃります、朝廷内でこのところもめ事があり、関白の座が空位になっておりますから、羽柴秀吉には最高位である関白を贈れば、ますます帝のために身命投げうって御奉仕いたすかと思われます」
「それは良い、急ぎ勅許を発布せよ」と帝はおっしゃられた。
けれども問題があった、いかに帝の命であろう秀吉はもともとは平民であったため、藤原、近衛、橘などという関白にふさわしい姓をもたず、そのような人間に関白職を与えた例がない
そこで懇意にしていた近衛前久(このえさきひさ)が一肌脱いだ
秀吉を猶子として関白としたのである
官位は秀吉にとどまらず、秀吉の臣下や臣下になった諸大名や武士の多くにも与えられた、主な者だけを列記する(甫庵太閤記より)
秀吉のために藤原氏、平氏、源氏、などと並ぶ新たな姓、豊臣氏を作り
帝より賜る

関白 藤原(羽柴)秀吉
後日、正親町天皇より新たなる朝臣の姓、豊臣を賜り 豊臣秀吉と名乗る
秀吉は主った家臣に、豊臣氏姓を与えた(いわゆる源氏一族という感じである)

豊臣秀吉以下の官位を賜った者たち 
尾張大納言 平(織田)信雄  駿河大納言 源(徳川)家康
大和権大納言 豊臣秀長  近江権中納言 豊臣秀次
備前参議 豊臣(宇喜多)秀家  加賀少将 豊臣(前田)利家
三河少将 豊臣秀康(徳川家康二男、秀吉が養子とする)
丹波少将 豊臣秀勝(織田信長四男、秀吉が養子とする)

このほか侍従として主だった大名や家臣、一族が20名ほどあり、多くは豊臣の姓を賜った

侍従、外様大名では
豊臣(大友)義統(豊後=大分)  秦(長曾我部)元親(土佐=高知)
侍従、織田家では
織田長益(信長末弟) 織田信秀(信長子息) 両名も豊臣賜る
平(織田)信包(信長弟) 
侍従、徳川家臣 藤原(井伊)直政      
侍従、秀吉の一族
豊臣(木下)勝俊  豊臣(小早川)義康=小早川秀秋
侍従を賜った主な家臣 すべて豊臣姓賜る
池田輝政 前田利長 京極高次 森忠政 筒井定次 稲葉定次 
丹羽長重 蜂屋頼隆 毛利秀頼 細川忠興 蒲生氏郷 堀秀政
長谷川秀一

 関白任官を祝し、豊臣秀吉は建設中の聚楽第門前で黄金5000枚
銀2万枚を大名や家臣に分け与えたという
天下の富の多くが秀吉のもとに集まった、それらを惜しげもなく使い
京に聚楽第、大坂に巨大な大坂城を建設中である
さらに京都東山には大仏殿を建立始めた
秋には北野で盛大に大茶会を開催した
秀吉はこうした流れの中で、いよいよ天下に号令すべく、中核となる五奉行制度を作り、政治体制を固めようとしている
五奉行は、増田長盛、長束正家、石田三成、浅野長政、前田玄以である
こうした莫大な散財に町人たちは眉をひそめた
また心ある武士や大名も口には出さぬが、腹の中では(関白は下賤の出身と言うから、あまりの莫大な金銀財宝が一気に入ってきて頭が狂ったのではないか、尊い大仏を建立したとて金銀まみれで魂が抜けておっては、いずれ天が怒って天罰を下すであろう)などと思った。

 四国も平定した秀吉だが、臣従を明らかにしていない外様大名は、まだいる
九州では大友宗麟が誼を(よしみ)を通じてきたが、最大勢力の薩摩の島津は態度未定、徳川家康は小牧の戦で秀吉に一泡吹かせたという思いがあり、臣従して来ない、関東の北条、佐竹、奥州の伊達、最上、その先は誰がいるやもわからない。
これらをすべて臣従させて真の天下統一となるのである






雪道脱出

2022年12月22日 08時46分48秒 | ドライブ
馬力があろうが、四駆だろうが、タイヤ高以上の雪の上に乗ってしまえば「亀状態」タイヤは空回りするばかり
凍結やシャーベット状の道路で進めなくなると、余計にアクセルをふかして、タイヤから煙が出るほど回転数を上げる人がいるが逆効果で、穴を深くするだけ、傷が浅いうちに出やすいように雪を掻くのが先決
でもむやみに掘りすぎると「亀」になる恐れがあるから、そこも考えながらやる。 押してもらうか、牽引してもらうのが意外と早い近道だ。
雪道でスリップしたら、近くの人が協力して押して出してやるのは、田舎のおっさんたちの常識
二人で押せば普通車以下なら大概、脱出できる、その時もドライバーはアクセルをふかさず、ゆっくりとアクセルを踏み込んでいくのが良い。
冬道はFRが弱い、FFは雪が少ないうちは便利だ、多くなればチェーンが必要
4駆はやはり強い、でも車体が軽ければ安心できない
穴にハマったときは、アクセルの前進、後退を繰り返してゆりかごのように振るのが脱出法、ATよりMTの方が楽に振れる、MTだと前進、クラッチ切の繰り返しで振れが大きくなる。

 車体の重量にもよるが四駆よりチェーンの方が強い、ノーマルタイヤでもチェーンを巻けば、そこそこ大丈夫だ
軽の箱バンや、空のマイクロバスは軽くて弱い、凍った道では蛇行スリップしやすい、昔の車は普通車でも凍った道路で2回転位したものだが、今の車はABSなどがあって回転はめったにない。
車は重いほど上からの圧がかかるから軽い車より凍った道には強い、だがタイヤをロックするブレーキをかけた時は、どんな車でもスキーと同じになってしまい、氷の上をすべる。ブレーキに頼らず、ハンドルとアクセル操作(アクセルはたいがいの場合は離す)でカバーするしかない、凍った道でスピードを出すのは自殺行為だろう、まして急ブレーキは最悪。
チェーンが万能かというと、落とし穴がある、それは雪のないアスファルト道路、高速道を走ると摩擦熱で20kmも走るうちに、チェーンのタイヤ接触面が切れてしまう
特に雪道と雪がないトンネルが交互になる北陸や長野県などトンネルが多い道路では注意しなければならない、
それより大型トラック以外でチェーンを巻いている自動車を最近見たことがない、私も巻かないし、日ごろから持っていない、4駆が多いからだ。
使わないからチェーンを巻けない若い世代が多いんじゃないかと思うが、偏見だろうか?
脱出用のワンポイントもあるらしいから、でもどのくらいの効果があるのか?
使ったことがないからわからない

雪道ではスコップ、軍手、牽引用ロープ、車の窓や屋根雪落としアイテムは必需品、生理的には簡易トイレ、飲み物、携帯食品は必要
帽子、アノラックなどの防寒服、長靴、履き替え用靴下、肌着もあった方が良い、案外役立つのは新聞紙とタオル、ホッカイロも温まるのに便利
ウォッシャー液は凍らないものを、水だと零下になるとウィンドウに霜のような薄い氷の幕ができて見えなくなる。
ワイパーも激しく叩きつけてくる雪の前では脆い、捌いた雪がワイパーの下にたまっていき、ワイパーの掃除面がどんどん狭くなっていく
最期はもげ落ちることもあるから、こまめにたまっていく雪をとらなければならないが、高速道ではP以外ではそれも不可能だ
車の前に50cm以上の雪があれば、柔らかい新雪であってもスコップで10cmくらいまでは除雪してから発進した方が良い、「亀」になる可能性もある。
スコップも大量に除雪する角スコと、固いアイスバーンや圧雪を除くための剣スコの二種類を持っていた方が便利だ
雪道トラブルは何と言っても近くの人と助け合うのが脱出のための近道だ
ノーマルタイヤやフラフラ運転手のあとにはつかない
一番いいのは緊急や仕事以外には車で出かけないのが一番よろしい。
大雪の日は、家で好きなことをするのが良いでしょう。