神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

ネコの楽しみを奪ったら・・・・

2017年09月17日 08時48分17秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

遊びたい盛りの1歳、お相手はBossだけ Bossはいつも大迷惑

Peeの目はいつもキョロキョロ、いたずらの種を探す

窓際のテラス、タンスの上、置いてある手軽な物体は全て下に落とす

鳩時計、鳩が出てくるとどうやって捕まえようかと目が光る

得意技は懸垂移動、1m位なら懸垂で横移動する

先日、2階の部屋へ行ったら何かをそばえている(トカゲ?)まさか

今度は咥えてまた離す、「あれ!ヤモリだ」

以前から、夜になると小虫を狙って窓に張り付くヤモリをずっと狙っていた

だが相手は磨りガラスの外側に居る、とても無理と思っていたのに間抜けなヤモリが

窓のヘリに近づきすぎて捕まった様だ

尻尾を切って逃げようとしたが目もくれず、本体を襲ったのだろう

ネコは残酷だ、今はもう見かけないが昔のネコはしょっちゅうネズミを捕まえてきて

散々もてあそんで挙げ句に殺した

ともあれ、ここに女房殿が来たら、想像するだけで恐ろしい

Peeが離した途端、ネコを抱え上げて廊下に出して戸を閉め、ヤモリを窓から屋根に

逃がした、のそのそとヤモリは歩いて行った、まだ致命傷は負っていなかった様だ

ヤモリは「家守」と思っている、可愛くて友達にしたいくらい、逃がして良かった

素早く動くトカゲはセコいから嫌だが、ヤモリはのんびりで心が和む

戸を開けたらPeeは夢中で探し回っている、明らかに怒っている、とても怒っている

私に敵意を感じているほどだ

「ヤモリは良い人なんだよ・・・だから許してやろう・・・」なんて言っても聞き入れない

なんとかだまさなければ・・・・・・・・

 


チャリティゴルフ2

2017年09月15日 16時13分49秒 | ゴルフ・スキー・スケートなどスポーツ

なぜゴルフをやっているんだろうか

はじめたのは、同級生に誘われた40歳の時

何となくやってみたいような、どうでもいいようなそんな時だった

だがそれが一つの転機でもあったのだった、それ以後圧倒的に人脈が広がった

商売がどうとか言うけれど、そうじゃない、そんな気持ちでは誰も相手にしてくれない

基本は人と交わることが好き、それだけだ

 

私のゴルフは一年(と言っても雪国は冬の3ヶ月はクローズなので)に5~6回

大部分がコンペで、1~2回だけプライベートといったところ

才能がないのに練習もせずこれだから、今も100点を切れないし、昨日は123の大たたき

それなのにきっちりと商品を得てくるのは、自分は福耳?なのかなあ

昨日はなんと越後米10kgをゲットした

このチャリティでは幼稚園児への絵本が贈呈された

 

ゴルフのもう一つの目的は日頃の運動不足を補うこと、だいたい5000~6000歩は歩く

それも平らでは無く、登ったり下ったり走ったりだから消費エネルギーは大きい

筋力補正のサポートパンツを初めて使用してみた、太ももにバネがついたみたいで

坂道でも、ターボエンジンでぐんぐん登っていく感覚、これはなかなかいい

いつもよりずっと楽に歩くことができた

妙高高原の一角のゴルフ場、私たちホームグランドと比べて広々としたゴルフ場だ

120名のコンペだったが楽々楽しませてもらった。

 

 

 

曇っていなければ妙高山などのパノラマなんだろうな

 


空襲警報! 北朝鮮またミサイル発射

2017年09月15日 07時46分51秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国

宣戦布告も無いのに、他国のミサイルが日本の国土を通過していく

Jアラートが魚市場に集う全員のスマホ、携帯で鳴り響いた

やがて町ではサイレンが鳴り響き、広報放送が繰り返される

「いやな音だな」魚屋の一人がぽつり

戦争中東京で暮らしていた父は毎日聞いていた空襲警報、まさか平和な70数年後に

また聞くとは考えても居なかっただろう

「建物の中に避難してください」というけれど、ちょうど通勤ラッシュ

国道は安謝変わらずの車列、何も変わらない

突然ジェット機の轟音・・・と思いきゃ、北陸新幹線の「かがやき」が通過する音だった


びっくりした~ 今どきの若者

2017年09月14日 06時08分31秒 | 時代検証

法要案内の封書の宛名書きをしていた

20代の割としっかりしている女の子に切手貼りを頼んで

住所書きを続けていたら、部屋に入ってきた若い男子が突然

「ああ~~切手反対!  反対!」と言った

わけわからず見たら、女の子は切手を封筒の右に貼っていた

「ああ~それ反対、切手は左上に貼るんだよ」

そうしたら女の子はパニクって

「すみません、私切手買って弁償します」と言うから

「そんなのいいんだよ、小皿に水を入れて持ってきて」

水が来たので、切手の周辺数ミリ残して切って彼女に渡して

「封筒の方を下にして水に浮かべてごらん、こうしておくと水が封筒に浸みて

糊が剥がれるから、そっととって裏返しにして乾燥させればまた使えるよ」と教えてやった

そして男子に「きみが切手を貼ってください」と頼んだ

しばらくして「カドが狭すぎて郵便番号が少し隠れますが」と言う

何を言っているのかわからず見たら、今度は切手を左上の角いっぱいから貼っている

「そんなぎりぎりに貼らなくていいんだよ」と言って上から1cm左からも1cm位のところを

指さして教えた。

今の若者が手紙を書くことは少ない様だ、ほとんどメールとかLINEとかで事を済ませる

こうして日本のゆかしき文化は消え去っていくんだろうな・・・・・・

切手貼るのにもこんなにたいへんだったのは人生初めてだった。

 


日本の歴史 幕末の大逆転

2017年09月13日 14時25分03秒 | 日本史

日本人がもっとも活動的だった時代はいつだろうか

歴史ドラマで人気がある時代は、活動的な時代だったと言えるだろう

戦国時代と幕末が双璧だ、そのあとは明治時代だと思う

戦国時代は日本中が都道府県、市町村単位で一つの国家を形成して戦い

次第に勝者が膨らんで大きくなっていった時代だ

そして最後の信長、秀吉、家康で日本に平和が訪れる

そして250年後に家康が築いた徳川幕府を倒して、天皇を頂点とした政治体制を

作った革命の時代が幕末だ

幕末は戦国時代と違い、徳川幕府を廃し天皇主体の政治復活(尊皇)、徳川幕府の政治継続(佐幕)

、天皇を頂点としながら徳川を含めた大名による合議制国家(勤王、公武合体)の3つの勢力が

争った時代だ。

公武合体の証として、皇女和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻が行われた

これとは別に外国船が相次いで交易を求めて日本にやってきたが、それらを追い払って鎖国を

続けるという攘夷思想、外国と交易を始めようという開国派にも別れている、だからより複雑だった

幕府閣僚でも開国派、攘夷派に別れ、勤王思想であっても開国と攘夷に別れている

また地方大名もその通りであった。

日本の治国システムは世界に類を見ない独特なものである

まず神話時代に天から下りてきた神様の子孫が日本各地に住んでいた蛮族を滅し

あるいは従えて大和において日本の大部分をを平定し「天皇」となった。

それ以来日本の主として今日も続いている

天皇家は「いかなる権力者も侵してはならぬ存在」としていつ時代にも政治権力者すら天皇家を

滅ぼす行為を行わず、逆に保護してきたのである。

天皇家に勇猛な天皇が現れ、幕府と戦ったときでも、常に為政者側は争う天皇に対し、別の系統の

天皇を擁立して旗印とした。

武家は天皇の家来であり、将軍は天皇に任命されて北の夷敵を征討するための存在というのが

建前で会った。

だからいかなる権力者であっても天皇の上位にはなれず、ならず、その下という位置で国政を

行った。

戦国時代がおわり、徳川の天下になると三元政治になった、すなわち天皇の下に徳川将軍が有り

日本全体の統治者として徳川将軍があり、それに従う300近い大名という地方国家が存在して

それぞれに独自に独立採算制の政治を行っていた。

中国は大昔からアジアの盟主を自認していた、その最高権力者は日本の天皇と同じく帝として存在した

それは日本で言う将軍と同じ立場であるが「帝」と称した

なぜかと言えば、中国は大アジア(日本の戦時中の八紘一宇と似た考え方)の盟主であり、周辺の国

「朝鮮半島や日本、東南アジア、北方の民族」は、かってに臣下と見なしていたからだ。

王の中の王という立場の帝、だから中国は隋、唐、宋などが滅ぶ度に全く違う血筋のものが帝になった

これが日本の天皇との違いである。(因みに中国の属国という長い歴史が続いた朝鮮半島では、最高権力者は

つねに中国の臣下であるから帝を名乗ることが出来ず王という名称に甘んじた、北方民族「蒙古、女真族など」

に従ったときもやはり王であった)

 

明治天皇の親である孝明天皇はかたくなな攘夷思想であったから、初期の勤王、尊皇の志士や

勤王大名は当然攘夷派であった。

しかし長州毛利家や薩摩島津家のように、一度外国と戦争をした藩は、もはや日本人の今の武力では

欧米の奴隷になるという危機感を持ち、積極的に欧米に近づき、欧米の文明や兵制を取り入れて強国化を計った

徳川幕府にも勝海舟や小栗上野介などのような開国思想の幕臣がいて、アメリカを訪問してアメリカの

文明を目の当たりにしている。

しかし外国に出ない幕臣の親玉は、天皇の権威を恐れて攘夷派を装っているが、アメリカの武力をも恐れ

曖昧な態度に終始した、それが天皇にばれて幕府は頼りにならぬと思われてしまった。

一方、外国船と戦った長州、薩摩には絶大な信頼を寄せた。

徳川家も井伊直弼が筆頭家老で権力を振るううちは安泰だったが、御三家の水戸徳川家の脱藩浪士に

殺害されると一気に幕府の力が落ちた。

そもそも徳川家は、将軍家とそれを補佐する御三家が力を合わせてこそ盤石だったのに、14代将軍を

紀伊徳川家と、水戸徳川家から一橋家に養子に行った一橋慶喜とが争ったことで有力大名と

幕閣の協力体制が崩れ、徳川家の力は弱まった

この頃、幕府を倒して天皇政治を早急に実現しようと考えていた急進派は長州藩であった

長州藩は吉田松陰の先見的な教育を受けた下級武士団が保守的な上級武士団を凌いで

藩主毛利公を抱き込み、藩を自由に動かしていた。

代表的な藩士は、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文、井上馨

山県有朋(一部後の名前)などで多彩な革新武士集団だった

一方、薩摩藩や土佐藩も下級武士団が力を持ち、精力的に活動したが、両藩共に藩主(殿様)の

力が強く、長州藩のようには力を発揮することが出来なかった。

特に土佐藩は武市半平太がリーダーとなって藩主に取り入ったが、藩主が信頼する大物

吉田東洋を暗殺したため、結局は切腹させられて土佐勤王党は壊滅した。 

それ以前、土佐藩に見切りをつけて早々に脱藩したのが坂本龍馬と中岡慎太郎であった

彼らは土佐一藩など頼りにせず、京に出て全国の脱藩勤王浪士と倒幕を企てた。

こうした倒幕を企てる勤王浪士に対抗して、徳川幕府も会津藩松平家を京都の守護職に充て

治安維持の任務に就かせた、その先鋒として働いたのが新撰組である。

彼らは切り捨て御免の殺人集団として勤王の志士たちは恐れた。

一方、浪士方にも人斬りという異名をとる殺人者が居た、土佐の岡田以蔵と

薩摩の田中新兵衛、中村半次郎、肥後の川上彦斎が特に有名である、彼らは幕府方や

彼らの主義に反対する者を上からの命令で次々と殺害した。

彼らに命令した者には志半ばで倒れた者もあれば、維新を成し遂げ明治の元勲となった者も

いる。

こんな中、あせった長州藩は軍を動かして天皇を頂こうと、京都御所に

攻め込んだが、警備の会津藩と応援に駆けつけた薩摩藩によって撃退されて長州(山口県)に

逃げた。

徳川幕府は怒って、近隣の大名に命令をして長州を攻め、首謀者を切腹させて藩主親子に詫びさせ

謹慎させて引き上げた、ここまでは幕府の権威は生きていたのである。

長州は意気消沈していたがあきらめてはいなかった、ただ反撃の方法が見つからない

そこに現れたのが坂本龍馬だった、彼には世界に乗り出す日本という大きな野心があった

しかし母体の土佐藩は動かず、結局他人のふんどしを借りて相撲を取るしか無い

そこで長州と薩摩という2大雄藩を利用しようと考えたのだ

龍馬はあちらこちらに顔が利くという特技がある、頭も度胸も良い、薩摩藩で重い役を任されている

西郷隆盛に近づき、禁門の変以来、犬猿の仲であった薩摩と長州を同盟させるという離れ業を成し遂げた

これで一気に倒幕気運が高まった、戦うのは長州、薩摩は後方支援で最新の武器と軍艦を長州に

送った。

幕府は長州の不穏な動きを見て、再び大軍を長州征伐に送った、しかし薩摩と長州が手を結んだことに

気づかなかった、幕軍の主力となるはずの薩摩が無断欠席、幕府は長州周辺の鳥取や福岡の大名に

長州を攻撃させたが瞬く間に敗れた、しかも大坂に居た将軍家茂が20歳の若さで急死した

それで幕軍は総崩れとなった。  こうして徳川幕府軍と薩長中心の倒幕軍の形勢は逆転した。

間もなく倒幕軍は京を目指して進軍していく。

 

*確かな資料ではありません、個人的なうろ覚えにつき文頭には「たぶん」

文末には「だと思う」をつけてお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


同期生旅行の準備会

2017年09月13日 08時13分51秒 | 旅行 関西・近畿

朝、外に出たら夜半なのか早朝なのか道路に水たまり

海には今日が暑い一日になることを示す入道雲が

 

夕べは高校の同期生12名が集合して、一杯やりながら今年の旅行の話し

高校時代はお互い顔も知らなかった同士が大半だったのに、40歳の同期会で

幹事になって知り合った、あれからずと長いつきあいになった

16年前に、名古屋で若鯱家といううどん店をやっていた同級生を訪ねて

「うどんツアー」と称し7人で訪れ、その後この主人(同級生)と妻(同級生結婚)

を含めて京都へ行き、大阪からも1人合流して観光を楽しんだ

あれから今日まで毎年旅行が続いている

最初は10名程度だったのがこの数年は現地集合も含めて15人を超えた

今年は京都だが地元から13人、京都、埼玉、東京、横浜などからも現地集合で

20名を超えそうな勢いになった・・・・・

毎年女子が仮装道具を持ち寄り、全員参加のバカ騒ぎが恒例

日本舞踊の先生も居て、この舞踊も見所だ・・・楽しみである

 


専業主夫?

2017年09月11日 11時35分45秒 | 心 思い

父の食事を作りながら、時々「これって母の仕事してるんじゃ?」と思う

そして台所に立っていた母の気持ちや、女房殿の気持ちも少しわかる様な気がした

まずは父の食事作りに集中、味見、少し盛り残したものをつまみ食い

下げた食器を洗う、使った鍋などを洗う 、布巾を殺菌して干す

全て終わったら冷蔵庫をあさって、やっと自分の朝食のパターン

でもこれに仕事が入ってくるから、毎日パターンは変わる

今日も6時から台所に立って粥とお茶を作り、6時半に出勤して7時迄帳簿整理

それから魚市場へ行って仕入をして、7時45分に戻って出勤表の作成

8時からブログチェックとブログ書き、8時半には家に戻って食事を食べて

それから自宅へ行ってPeeネコに食事を与える

慌ただしい朝がまた今日も始まっている

気の利いた社員は「社長このごろ疲れた顔してますね、気をつけてくださいね」

なんて言ってくれる・・・・・・・うん、こんな時は心にしみてくるね。

49日が終わるまでは元に戻れそうもないな。

 


アベックホームラン

2017年09月11日 07時38分41秒 | 野球

いろんな方のGooブログを拝見しています

昨日は「2000本安打のランキング」を見ました、じっくりと見ました

「へえ~」と思ったのは一つの時代を作ったチームには複数の安打製造器がいたんだなあ

ということだ。  王、長嶋、土井 川上監督下のV9でしたかV10でしたか?

衣笠、山本浩二の赤ヘル軍団時代

そして南海ホークスの野村、門田が2位と4位の安打数を誇っていた、二人はホームランバッター

でもあるが、安打数がこんなにも多かったのかとあらためて感心している

やっぱり安打が多いのはホームランも多いのかと思ったがイチローを思えば、そうとも言い切れない

それはともかく、野村、門田の出場試合は田舎住まいの私にとって、たった一度しか無いのだが

忘れもしない後楽園球場のネット裏での観戦、野村はレフトスタンドへライナー性のホームランを

たたき込み、門田はライトスタンドへ高々と放物線を描いて入っていった

日ハムだったかな?高橋一美からのアベックホームランはずっと記憶に残っている

ドーム内野席をGパンで私の横を歩いて行ったクロマティ、中日の立浪の華麗な走塁と共に

印象的な3大プロ野球記憶遺産だ。

 

 

 


逆走危機一髪!

2017年09月10日 18時25分25秒 | yottin日記

魚市場仕入の帰り道、分離帯がある片側2車線の4車線国道の大きなカーブで

枝道から一台の中型車が出てきて、国道に合流しようと一旦停止していた

私は分離帯側の追い越し車線を走っていたが、その車を見たら

ウィンカーを右に上げていた、本来左に出て私の車と併走すべきなのだが

右は完全な逆走だ、県外ナンバーだった、二車線あるので普通の道路と勘違い

している様だ

スピードを緩めながらクラクション、そして手振りで左へ行けと合図するがわからない様だ

70代後半くらいの夫婦に見える

2度目のクラクションでやっと気づいた様で左に出た

その時、私は、彼らの10mくらい前方まで進んでいたが、ほぼ徐行だったので

今度は後からやってきた車にクラクションを鳴らされる羽目に、こっちも危機一髪だ

何しろ前が見えない大きなカーブでの出来事、片側一車線が二車線のバイパスになる

大きなカーブで一気に車がスピードを上げる場所だ

私が追突されても、逆走車があのまま右に逆走していっても大きな事故になるところだった

ひやりとした朝だった。