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日本の歴史 幕末の大逆転

2017年09月13日 14時25分03秒 | 日本史

日本人がもっとも活動的だった時代はいつだろうか

歴史ドラマで人気がある時代は、活動的な時代だったと言えるだろう

戦国時代と幕末が双璧だ、そのあとは明治時代だと思う

戦国時代は日本中が都道府県、市町村単位で一つの国家を形成して戦い

次第に勝者が膨らんで大きくなっていった時代だ

そして最後の信長、秀吉、家康で日本に平和が訪れる

そして250年後に家康が築いた徳川幕府を倒して、天皇を頂点とした政治体制を

作った革命の時代が幕末だ

幕末は戦国時代と違い、徳川幕府を廃し天皇主体の政治復活(尊皇)、徳川幕府の政治継続(佐幕)

、天皇を頂点としながら徳川を含めた大名による合議制国家(勤王、公武合体)の3つの勢力が

争った時代だ。

公武合体の証として、皇女和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻が行われた

これとは別に外国船が相次いで交易を求めて日本にやってきたが、それらを追い払って鎖国を

続けるという攘夷思想、外国と交易を始めようという開国派にも別れている、だからより複雑だった

幕府閣僚でも開国派、攘夷派に別れ、勤王思想であっても開国と攘夷に別れている

また地方大名もその通りであった。

日本の治国システムは世界に類を見ない独特なものである

まず神話時代に天から下りてきた神様の子孫が日本各地に住んでいた蛮族を滅し

あるいは従えて大和において日本の大部分をを平定し「天皇」となった。

それ以来日本の主として今日も続いている

天皇家は「いかなる権力者も侵してはならぬ存在」としていつ時代にも政治権力者すら天皇家を

滅ぼす行為を行わず、逆に保護してきたのである。

天皇家に勇猛な天皇が現れ、幕府と戦ったときでも、常に為政者側は争う天皇に対し、別の系統の

天皇を擁立して旗印とした。

武家は天皇の家来であり、将軍は天皇に任命されて北の夷敵を征討するための存在というのが

建前で会った。

だからいかなる権力者であっても天皇の上位にはなれず、ならず、その下という位置で国政を

行った。

戦国時代がおわり、徳川の天下になると三元政治になった、すなわち天皇の下に徳川将軍が有り

日本全体の統治者として徳川将軍があり、それに従う300近い大名という地方国家が存在して

それぞれに独自に独立採算制の政治を行っていた。

中国は大昔からアジアの盟主を自認していた、その最高権力者は日本の天皇と同じく帝として存在した

それは日本で言う将軍と同じ立場であるが「帝」と称した

なぜかと言えば、中国は大アジア(日本の戦時中の八紘一宇と似た考え方)の盟主であり、周辺の国

「朝鮮半島や日本、東南アジア、北方の民族」は、かってに臣下と見なしていたからだ。

王の中の王という立場の帝、だから中国は隋、唐、宋などが滅ぶ度に全く違う血筋のものが帝になった

これが日本の天皇との違いである。(因みに中国の属国という長い歴史が続いた朝鮮半島では、最高権力者は

つねに中国の臣下であるから帝を名乗ることが出来ず王という名称に甘んじた、北方民族「蒙古、女真族など」

に従ったときもやはり王であった)

 

明治天皇の親である孝明天皇はかたくなな攘夷思想であったから、初期の勤王、尊皇の志士や

勤王大名は当然攘夷派であった。

しかし長州毛利家や薩摩島津家のように、一度外国と戦争をした藩は、もはや日本人の今の武力では

欧米の奴隷になるという危機感を持ち、積極的に欧米に近づき、欧米の文明や兵制を取り入れて強国化を計った

徳川幕府にも勝海舟や小栗上野介などのような開国思想の幕臣がいて、アメリカを訪問してアメリカの

文明を目の当たりにしている。

しかし外国に出ない幕臣の親玉は、天皇の権威を恐れて攘夷派を装っているが、アメリカの武力をも恐れ

曖昧な態度に終始した、それが天皇にばれて幕府は頼りにならぬと思われてしまった。

一方、外国船と戦った長州、薩摩には絶大な信頼を寄せた。

徳川家も井伊直弼が筆頭家老で権力を振るううちは安泰だったが、御三家の水戸徳川家の脱藩浪士に

殺害されると一気に幕府の力が落ちた。

そもそも徳川家は、将軍家とそれを補佐する御三家が力を合わせてこそ盤石だったのに、14代将軍を

紀伊徳川家と、水戸徳川家から一橋家に養子に行った一橋慶喜とが争ったことで有力大名と

幕閣の協力体制が崩れ、徳川家の力は弱まった

この頃、幕府を倒して天皇政治を早急に実現しようと考えていた急進派は長州藩であった

長州藩は吉田松陰の先見的な教育を受けた下級武士団が保守的な上級武士団を凌いで

藩主毛利公を抱き込み、藩を自由に動かしていた。

代表的な藩士は、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文、井上馨

山県有朋(一部後の名前)などで多彩な革新武士集団だった

一方、薩摩藩や土佐藩も下級武士団が力を持ち、精力的に活動したが、両藩共に藩主(殿様)の

力が強く、長州藩のようには力を発揮することが出来なかった。

特に土佐藩は武市半平太がリーダーとなって藩主に取り入ったが、藩主が信頼する大物

吉田東洋を暗殺したため、結局は切腹させられて土佐勤王党は壊滅した。 

それ以前、土佐藩に見切りをつけて早々に脱藩したのが坂本龍馬と中岡慎太郎であった

彼らは土佐一藩など頼りにせず、京に出て全国の脱藩勤王浪士と倒幕を企てた。

こうした倒幕を企てる勤王浪士に対抗して、徳川幕府も会津藩松平家を京都の守護職に充て

治安維持の任務に就かせた、その先鋒として働いたのが新撰組である。

彼らは切り捨て御免の殺人集団として勤王の志士たちは恐れた。

一方、浪士方にも人斬りという異名をとる殺人者が居た、土佐の岡田以蔵と

薩摩の田中新兵衛、中村半次郎、肥後の川上彦斎が特に有名である、彼らは幕府方や

彼らの主義に反対する者を上からの命令で次々と殺害した。

彼らに命令した者には志半ばで倒れた者もあれば、維新を成し遂げ明治の元勲となった者も

いる。

こんな中、あせった長州藩は軍を動かして天皇を頂こうと、京都御所に

攻め込んだが、警備の会津藩と応援に駆けつけた薩摩藩によって撃退されて長州(山口県)に

逃げた。

徳川幕府は怒って、近隣の大名に命令をして長州を攻め、首謀者を切腹させて藩主親子に詫びさせ

謹慎させて引き上げた、ここまでは幕府の権威は生きていたのである。

長州は意気消沈していたがあきらめてはいなかった、ただ反撃の方法が見つからない

そこに現れたのが坂本龍馬だった、彼には世界に乗り出す日本という大きな野心があった

しかし母体の土佐藩は動かず、結局他人のふんどしを借りて相撲を取るしか無い

そこで長州と薩摩という2大雄藩を利用しようと考えたのだ

龍馬はあちらこちらに顔が利くという特技がある、頭も度胸も良い、薩摩藩で重い役を任されている

西郷隆盛に近づき、禁門の変以来、犬猿の仲であった薩摩と長州を同盟させるという離れ業を成し遂げた

これで一気に倒幕気運が高まった、戦うのは長州、薩摩は後方支援で最新の武器と軍艦を長州に

送った。

幕府は長州の不穏な動きを見て、再び大軍を長州征伐に送った、しかし薩摩と長州が手を結んだことに

気づかなかった、幕軍の主力となるはずの薩摩が無断欠席、幕府は長州周辺の鳥取や福岡の大名に

長州を攻撃させたが瞬く間に敗れた、しかも大坂に居た将軍家茂が20歳の若さで急死した

それで幕軍は総崩れとなった。  こうして徳川幕府軍と薩長中心の倒幕軍の形勢は逆転した。

間もなく倒幕軍は京を目指して進軍していく。

 

*確かな資料ではありません、個人的なうろ覚えにつき文頭には「たぶん」

文末には「だと思う」をつけてお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


同期生旅行の準備会

2017年09月13日 08時13分51秒 | 旅行 関西・近畿

朝、外に出たら夜半なのか早朝なのか道路に水たまり

海には今日が暑い一日になることを示す入道雲が

 

夕べは高校の同期生12名が集合して、一杯やりながら今年の旅行の話し

高校時代はお互い顔も知らなかった同士が大半だったのに、40歳の同期会で

幹事になって知り合った、あれからずと長いつきあいになった

16年前に、名古屋で若鯱家といううどん店をやっていた同級生を訪ねて

「うどんツアー」と称し7人で訪れ、その後この主人(同級生)と妻(同級生結婚)

を含めて京都へ行き、大阪からも1人合流して観光を楽しんだ

あれから今日まで毎年旅行が続いている

最初は10名程度だったのがこの数年は現地集合も含めて15人を超えた

今年は京都だが地元から13人、京都、埼玉、東京、横浜などからも現地集合で

20名を超えそうな勢いになった・・・・・

毎年女子が仮装道具を持ち寄り、全員参加のバカ騒ぎが恒例

日本舞踊の先生も居て、この舞踊も見所だ・・・楽しみである