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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 7

2024年02月09日 19時35分16秒 | 甲越軍記
*この書の元となる「甲陽軍鑑」は武田家が滅ぶ5年から10年くらい前に、武田信玄に仕えた家臣によって編纂されたと言う説があるから、それが事実なら約450年前の事である。
江戸時代初期に写本が刊行されたとある、風説では信玄の軍師、山本勘助の末裔と言う武士がこれを写本して仕官の道を探ったともいう。
山本勘助の存在自体、学者の間では怪しんでいる人が多い。
歴史資料ではなく、読み物として楽しむのが良いだろう。


 武田家に今井木之允(もくのじょう)定国という者がいた。 
彼は、昔の木曽義仲に仕えて名を後世に鳴り響かせた今井四郎兼平の末裔であった。
数代、武田家に仕えて、定国の代となり信虎の小姓頭となっている。
武術は諸人より優れ、その姉は小澤と言い容姿の美しさは世に類まれなく、心の操も正しく和歌を詠み、技芸にも通じ、信虎の耳に聞こえて召し出されて妾となって寵愛された
定国も姉の縁でいよいよ信虎から目をかけられて、常に傍に置かれ恩遇厚き栄誉をいただいた。

夏のある夜、宿直を命ぜられて信虎の寝所の守備していたが、暑い夜の事であり。暑さ凌ぎ難くついつい座したまま居眠りをしてしまった。
前後不覚となった頃、信虎の傍らにつながれていた白山という大猿がどうしたものか縛りを解いて次の間に出ると、うとうととしている定国のそばに置かれた刀を抜き、定国の額に切りつけた。
額から鮮血がほとばしると白山は驚いて刀を投げ捨て庭に逃げ出した、定国も気が付き。すぐに事態を飲み込むと刀を手にして白山を塀際に追い詰めて、一刀のもとに切り殺した。
平生は穏やかな性格の定国であったが、この日は図らずも失態を犯してしまった。
物音を聞いて詰め番の諸士が次々に集まったが、定国の傷は案外浅手だったので定国を宿所に帰らせた。

この一件を知った狂気人の信虎は激怒した、「役目柄を怠るのみか、予が愛した白山を己の我儘の為に切り殺すなど言語道断、まずは朋輩に預け、後に裁断いたす」そう言って、近習の荻原常陸之介宅に謹慎させた。
定国の嫡男弥太郎17歳には屋敷にて閉門、愛妾小澤も定国の姉ゆえ局から下げて同じく閉門とした。

五、六日の後、信虎は取り調べもせず定国に切腹を申し渡した。
これを聞いて、先の四臣で「後」のくじを引いた二人、すなわち工藤下総守虎豊と内藤相模守虎資は嘆息して、「先」の二人が諌死したころより御屋形の悪行は十倍にも増して、この様ではいよいよ近年中に隣国の為に滅ぼされるであろうと嘆いた。
二人は「今は一命を投げうって、まずは定国の助命を嘆願すべし」と決めて、信虎の前に進み出た。




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